地中海学会月報 229
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2000|4  




   -目次-








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*会費納入のお願い

 新年度になりましたので,会費の納入をお願いします。請求書および郵便振替払込み用紙は前号の月報に同封してお送りしました(賛助会費は別送)。

 口座自動引落の手続きをされた方は,4月24日(月)に引き落とさせていただきますので,ご確認ください(領収証をご希望の方には月報次号に同封して発送する予定です)。また,今回引落の手続きをされていない方には,後日手続き用紙をお送りしますので,その折はご協力をお願いします(12月頃の予定)。

 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込み時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。

 なお,学会では財政上の理由により,誠に遺憾ですが前年度会費を大会開催までに納入されない場合は,以後の印刷物等の配布を一時停止することになりました。この点ご注意下さい(納入後,4月に遡って復活します)。

 

会 費:正会員 1万3千円

    学生会員  6千円

    賛助会員 1口 5万円

振込先:口座名 『地中海学会』

    郵便振替     00160-0-77515

    住友銀行麹町支店 普通 216313

    富士銀行九段支店 普通 957742

 

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*春期連続講演会

 ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において下記のとおり春期連続講演会を開催します。各回とも,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順)です。

「地中海世界の歴史:古代から中世へ」

5月13日「古代ギリシアと地中海世界」 桜井万里子氏

  20日「古代ローマと地中海世界」  本村 凌二氏

  27日「ゲルマンと地中海世界」   高山  博氏

6月3日「ビザンツ帝国と地中海世界」 大月 康弘氏

  10日「中世イスラムと地中海世界」 私市 正年氏

 

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*第24回大会

 第24回地中海学会大会を広島女学院大学(広島市東区牛田東4-13-1)において開催します(詳細は大会案内をご覧ください)。

6月17日(土)

13:0013:10 開会挨拶

13:1014:10 記念講演

 「地中海をアフリカから見る−−黒いムーア人,胡弓,トンボ玉」 川田 順造氏

14:2014:50 授賞式

 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」

15:0016:30 地中海トーキング

 「酒と海と大地」

  パネリスト:樺山紘一氏/橋口収氏/福本秀子氏/司会:木島俊介氏

16:4018:30 見学会

18:3021:00 懇親会

6月18日(日)

10:0011:30 研究発表

 「浜田耕作と古代ギリシア・ローマ美術」 大木 綾子氏

 「古代地中海の怪物ケートスの系譜とドラゴンの誕生」 金沢 百枝氏

 「16世紀中葉オスマン朝下エジプトとヴェネツィア」 堀井 優氏

11:4512:15 総 会  (12:1513:30 昼食)

13:3016:30 シンポジウム

 「巡礼のコスモロジー」

  パネリスト:安發和彰氏/清水憲男氏/堀内正樹氏/宮下規久朗氏/

    司会:小池寿子氏

 

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*石橋財団助成金

 石橋財団の2000年度助成金がこの程認められました。金額は申請の全額で40万円です。

 

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訃報
 本学会名誉会員の河盛好蔵氏が3月27日にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。


 

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研究会要旨

 

15世紀末フランドルにおけるロヒール様式の流行

−−絵画市と大量生産方式−−

 

平岡 洋子

 

3月11日/上智大学

 

 15世紀末にブリュッセルで制作した刺繍の葉の画家と呼ばれる画家がいる。彼の作品はポーランドのグダニスクやシチリア島のパレルモなど広範囲にわたるヨーロッパ各地に所蔵されている。彼は,美しい花々に囲まれ,緋色の衣を着けて,閉ざされし庭の草のベンチに座す美しい聖母子像を多く描いた。背景には,お伽話の風景のような小さな城館と田舎家が配され,葉叢に包まれた木々と澄明な湖が,遠くに霞む青い山々まで見る者の視線を誘っていく。そこでは,一頭の鹿が水を飲み,庭の柵の上には孔雀が美しい羽を休めている。幼児キリストは白い衣服を着け,左手で聖母の支える本の頁をめくろうとしている。画面は,キリストと聖母に関わりを持つ象徴に満ちている。しかし,これらの《庭に座す聖母子》を比較してみると,楽奏の天使が周囲を取り囲んだり,聖母の頭上に戴冠の天使が登場したりというヴァリエイションはあるものの,聖母子像のみならず,背景も草花も同一のモティーフが繰り返し使われていることに気付かれる。アイリス,ゆり,タンポポ,雛菊,苺等それぞれを重ねて見れば恐らくぴったりと重なり合うであろう。また,これらの聖母のポーズ,衣の襞,幼児キリスト像はロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンの《赤い聖母》(プラド美術館)やシルバー・ポイントによるデッサンから採られたものであった。

 この時代,フランドルではロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンのものを祖型とした聖母子像が極めて多く制作され販売された。どのようなものが,どのようにして制作され,どのようにして売られていたのか。購入者たちはどこでどのような機会にこれらの作品に触れることができたのか。ロヒールタイプの聖母子像流行は,ロヒールの絵画が素晴らしかったが故にその名声が広く及んだという要因の他に,このタイプの聖画像が人々の目に触れる機会が多くあったこともその様式の流布,流行に重要な役割を果たしたことだろう。しかも,需要に応える制作集団が存在したにちがいない。当時,イタリアと並ぶ美術品制作の一大拠点であったフランドル地方には国際的アート・マーケットが存在したことが知られている。ブルージュの画家組合の画家たちは,ブルージュのMinderbroederskloosterの敷地に開かれたアート・マーケットに作品を展示した。ブリュッセルとアントウェルペンの画家組合の画家たちは,カテドラルの敷地,現在のPandstraatという通りと運河に囲まれた場所に建てられた常設の展示場に展示した。また,アトリエにショーウィンドウを持つ画家たちはアトリエに展示し売った。絵画は主に画家たちによって売られたのであった。

 私は先ず,どのようなタイプの聖母子像が流行したか,それは言われている程多いのかどうかを知るために,ブリュッセルの初期ネーデルラント絵画研究所に通い,世界中に散らばっている初期ネーデルラント絵画の写真資料をすべて見た。そして,ロヒールタイプの聖母子像を幾つかの系列に分け,背景や聖母の被り物を変え,購入者の紋を入れた点を除けば全く見分けつかない程同形の聖母子グループが多種類存在することを知った。それは既に知られていたよりも多かった。この事実と,先に挙げた刺繍の葉の画家の草花等の例から,アトリエにモティーフのパターンが存在し,下書きデッサンは写し取る方法で省エネルギーで,短時間になされていたことが推測される。購買者たちは,既製品あるいは半既製品で展示された物を見て購入する,あるいは紋を入れるよう頼んだり,同様なものが何点欲しいと注文したのかもしれない。画家たちは,どのようなものが求められるのか,市で,また画家たちの集まりで見聞きすることで,同傾向のものを多く作っていったことだろう。

 また私は,15世紀の画家たちの住所一覧と古地図と現況の地図を持ってブリュッセルの街を歩き,彼らのアトリエのあった通り,作品をアントウェルペンの市へ運ぶために積み出したであろう運河の昔の姿を思い浮べながら今日の街の姿を写真に撮って回った。彼らは多く,最も大きな街道筋に住んでいた。それは当時唯一の敷石の敷かれた通りであった。盛んなアトリエ経営の出来た大画家は販売に有利な場所に店を構え,身分の高い画家は王宮に近い高級な界隈に住んだことがわかった。最後にブルージュとアントウェルペンのアート・マーケットの市の場所を確認して,ロヒールタイプ聖母子像流行現象を支えた画家たちの活動を具体的,総体的に捉える試みの一端が実現された。これらの調査から,この時代にも,市を通し,ショーウィンドウを通して,受容者の好みで絵画の様式流行が生まれ持続されていったのだということが推察されるだろう。

 研究所での聖母子像タイプ分けの作業も画家のアトリエのあった通りを探し回ってアーティスト地図を作る旅も楽しい作業であった。

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自著を語る 18

『謎の古代都市アレクサンドリア』を執筆して

 

講談社現代新書 20002月 205頁 660

 

野町  啓

 

 本年2月,小著『謎の古代都市アレクサンドリア』を,講談社現代新書の一冊として刊行した。内容紹介を兼ねて一応主要な目次を掲げると,以下の通りである。〈メガス・アレクサンドロスとアレクサンドリア〉,〈ホメロスの世界とアレクサンドロス〉等からなる序章,〈ギュムナシオンとムーセイオン〉,〈ホメレイオンとムーセイオン〉,〈学問のコスモポリスとメセナ〉等からなる第一章「メセナの時代」,〈文人王プトレマイオスと学匠詩人〉,〈閑(スコレー)とムーセイオン〉等からなる第二章「国際学術都市アレクサンドリア」,〈『セプトゥアギンタ』成立縁起〉,〈ホメロス研究とアレクサンドリア〉,〈王室図書館と文献学〉等からなる第三章「大図書館をめぐる学者文人たち」,〈言語を重んじたペリパトスの学問〉,〈アリストテレスとホメロス神話〉,〈アレクサンドリアの学問の二極性〉等からなる第四章「古代アレクサンドリアの学風」,そして〈哲学都市への変貌とユダヤ人〉,〈フィロンの著作とアレクサンドリア〉,〈プラトニズム・ルネッサンス〉,〈魂の救済とシンクレティズム〉等からなる第五章「哲学都市アレクサンドリア−−ユダヤ人フィロンとその周辺−−」,これに「文献案内をかねたあとがき」を最後に付しておいた。

 上記のような構成から窺えるように,小著はアレクサンドリアを中心とする紀元前3世紀から後1世紀にいたる《ヘレニズム思想史》である。「時の隔たりを架橋するもの,それは空間である」,と本書の冒頭〈はしがき〉に記したが,今から二千年以前の過去を再現するには,空間上の一トポスを拠点とするほかない。都市アレクサンドリアは,ヘレニズム世界の一大中心地であり,この時代を俯瞰するのに最もふさわしいと考えたからである。起筆の段階では,7世紀にこの都市がアラブに征服されるまでを述べ,いわゆる古代末期における,クリスト教・ネオプラトニズム・ヘルメティズム,さらにはグノーシスの錯綜した関係,またこれと錬金術,占星術等の絡み合いまでを射程に入れていたのだが,こうした時空にわたるマクロコスモスを,新書というミクロコスモス内へと圧縮することはいうまでもなく至難の業であり,終章で若干古代末期の展望についてふれるにとどめざるをえなかった。

 いささか自画自賛めくが,本書の特色とでもいうべき点を挙げるとすれば,次のようになるであろうか。大局的にみれば,現代はグローバリゼーション,それに伴う伝統的な諸価値の相対化という意味で,ヘレニズム時代ときわめて類似した面を持っている。この時代を顧みることは,世紀末という現代の状況を考える上で多大の意義があるように思われる。だがこれまでわが国は,一般向けの通史としての《ヘレニズム思想史》を持たなかったといってよい。さらに本書を通して,一般の読者がこの時代についていささかの知識を得,さらにギリシアの古典なり『聖書』なりが現代へと伝承するにあたっての「要」としてのこの都市の役割に思いを致してくれれば,というのが筆者の願いである。

 古代アレクサンドリアといえば,「ムーセイオン」や「(大)図書館」(ただし「大」を付した表現が見られるのは,古代文献中プルタルコスの『カエサル伝』のみ)が連想されるが,双方の成立の経緯や関連を示す同時代的資料は皆無といってよく,この点は「謎」に包まれている。本書では,はるか後代のフォティオスの『ビブリオテーケー』,『スーダ』,ツェツェスといった,9〜11世紀,コンスタンティノープルに展開するいわゆるマケドニア・ルネッサンスの成果によって,アレクサンドリアの「図書館」なり「ムーセイオン」なりの学問の実態とおぼしきものが逆照射されてくるということ,さらにこれが15世紀以降のフィレンツェを中心とするルネッサンスと連続しているということを指摘しておいた。そこには,歴史の中にみられる奇縁,壮大なドラマが垣間見えてくるのである。

 またこれまで,日本では一般の読者にアクセシブルな形で紹介されることの少なかったフィロンの思想について,第五章でかなりの紙幅を費やして解説を試みたのも,本書の特色といえるかもしれない。彼については,本年初頭P. Borgen等によるThe Philo Index (Brill)が刊行され,欧米では盛んに研究がなされている。彼は,ネオプラトニズムとの関連においても,またクリスト教神学の形成への影響においても,わが国でも活発な研究がなされてしかるべき思想家なのである。

 刊行後,本書を読み通してみて,筆者は書き記したことよりも,書き残したこと,書き得なかったことの大きさを痛感させられた。いつの日か,本学会の会員によって,碩学A.-J. Festugièreの名著Antioche païénne et chrétienne (Paris, 1959)に匹敵する著書がアレクサンドリアについて書かれることを期待して擱筆する。

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地中海人物夜話

 

マムルーク朝末期の通訳官タグリー・ビルディー

 

堀井  優

 

 マムルーク朝(12501517)末期,スルターンの通訳官として活躍し,西ヨーロッパ側にもその名を知られた,タグリー・ビルディー(Taghrī Birdī al-Turjumān,ヴェネツィア史料ではTangreberdiTangavardinなどの名で現れる)なる人物がいる。このマムルーク(奴隷軍人)に一般的な名前をもつ彼は,マムルーク軍団の一司令官の肩書をも有していた。しかし彼がスルターンの側近に加えられた経緯について,たしかなことは明らかでない。彼の出自については,もとスペインの改宗ユダヤ教徒とする記録がある。それが事実なら,生地での迫害を逃れてエジプトに移住した後,通常の奴隷軍人とは異なった方法で登用されたものと思われる。いずれにせよ語学に堪能な彼は,1511年まで少なくとも30年以上にわたり,歴代スルターンの意を受け,西側と交渉する役割を担うこととなった。

 地中海とインド洋とを結ぶ通商路を支配領域のなかに含み,香辛料を主とする東方商品の中継取引による利潤を重要な収入源としていたマムルーク朝にとって,ヴェネツィア等の西ヨーロッパ通商国家やその領事・居留商人との関係が重要であったことはいうまでもない。タグリー・ビルディーは,この関係を良好に維持するべく努めていたようである。例えば1489年キプロスのヴェネツィア領化に伴ってカイロに派遣されたヴェネツィア使節団に応対し,同島からの年貢に関する交渉にあたった彼は,その後も貢納品の質に不満なスルターンに対して,ヴェネツィア側を擁護する立場にまわっている。カイロで疫病が流行した時には,同地にいたヴェネツィア商人を自分の邸宅に避難させたりもした。

 むろんマムルーク・ヴェネツィア関係において最も重要であったのは,香辛料取引をめぐる問題である。この問題は,財政収入を少しでも増やしたいスルターン政権とヴェネツィアとの間で,たびたび軋轢を生み出してきた。16世紀に入り,慢性化した財政難に加え,インド洋方面におけるポルトガルの出現により,この問題はより深刻化した。1500年スルターンの御用商人が取り扱う強制購入分の胡椒の取引をめぐる軋轢からヴェネツィア商人が投獄された時には,タグリー・ビルディーはスルターン・ジャーンブラートに大いに執り成しをした。しかし1504年のスルターン・アルガウリーによる胡椒政策は,翌年ヴェネツィアによるガレー船団の派遣の中止へと至った。そしてヴェネツィアから交渉のために使節がスルターンのもとに派遣されたが,この使節はカイロで客死したので,今度はタグリー・ビルディーがヴェネツィアに派遣されることとなった。

 1506年9月目的地に到着した彼は,ヴェネツィア側から大いに歓待されたが,交渉は遅々として進まなかった。胡椒取引に関する取り決めを以前に戻し,かつ銅による決済を望む相手側の要求を独断では受け入れかねた彼は,スルターンの意向を仰ぐために,自らの随行者を,ヴェネツィア使節と共に一時カイロに返したほどである。スルターンからあらためて大幅な権限を与えられた彼は,結局は相手側の要求をほぼ認めた合意を締結した。

 1507年9月タグリー・ビルディーが新任のヴェネツィア領事とともにアレクサンドリアに帰還した時,スルターンから,彼の使節行の成果を称え,ヴェネツィアとの友好の意を示す,彼と同地総督・領事あての書簡が届いた。さらにカイロに入った彼は,スルターンから名誉の衣を賜った。この時は,スルターンもまた通商の再開を喜んだのである。

 しかし,彼の名誉は長くは続かなかった。1510年マムルーク艦隊建造用の材木運搬船がシリア沖で聖ヨハネス騎士団の襲撃を受け,また紅海方面におけるポルトガルの活動も激化した。さらに東方のサファヴィー朝からヴェネツィアに軍事同盟を提案するために派遣された密使がシリアで捕らえられるにおよび,スルターンのヴェネツィア側に対する態度は硬化した。スルターンは,領内のヴェネツィア領事と多くの商人を捕らえてカイロに連行させ,彼らを激しく非難した。彼らの面前でスルターンの非難の言葉を通訳したのは,他ならぬタグリー・ビルディーであった。こうして彼は,ヴェネツィア人の目に敵対者として映るようになる。

 このような自らの状況を悲観したか,あるいはマムルーク朝の未来を見限ったか,それとも別の意図があったか定かではないが,このころ彼は,カイロにおいて聖ヨハネス騎士団につながりのある人物と接触を深めるようになった。これがヴェネツィアのみならずスルターンの疑惑をも招くことになり,1511年彼は,西ヨーロッパ側にマムルーク朝の軍事的な弱さを知らせる書簡を送ったとして,スルターンによって投獄された。その2年後,スルターンが人々の歓心を買うために牢獄から釈放した者たちのなかに彼も含まれていたが,以後彼の名前は史料に現れない。通訳官タグリー・ビルディーの軌跡は,困難を極めたマムルーク朝末期の対西ヨーロッパ関係を,そのまま映し出しているといえよう。










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ヴェネツィアの息災祈願

 

中平  希

 

 ヴェネツィアにサンタ・マリア・デッラ・サルーテという名の教会がある。意味としては「息災の聖母マリア」ということになろうか。16301022日,蔓延したペストが猖獗を極めていたさなか,ヴェネツィア共和国のドージェと元老院はこの疫病の終結を神に祈願して,聖母マリアに捧げる教会を建立することを公式に決定した。翌年めでたくペストは去り,1681年までかけて教会は出来上がった。通常の十字プランではなく集中式のこの教会はロンゲーナの設計で,マリアの王冠をイメージしているという。大きな八角形の上に丸いクーポラがのり,周囲をカタツムリの殻のような白い渦巻き模様が飾っている。私見であるが,アカデミア橋から望むこの教会は,いついかなる時刻,いかなる天候でも美しいと思う。

 この由来のため,1121日聖母マリアの奉献の日にこの教会に詣で,蝋燭を捧げて聖母マリアに祈ると次の一年を健康で過ごせるといういわれがあり,毎年,詣でる人々のために大運河をわたって浮き橋が架かる。船を並べて土台とし,その上に板を渡して即席の橋を架けるのだ。もちろん現在でも,この日のためにだけその橋は架かる。ずいぶん前からその日にはこの教会に詣でるつもりでいた。

 11月の北イタリアは寒い。もちろんアルプスの北と比べればはるかに暖かいし,ことに海の上の街ヴェネツィアは,ミラノやトリノといったイタリアの内陸都市と比べても気温は高いが,広島出身のわたしにとっては充分寒い。前年の祭りに詣でたときもロングコートを着込んで震えていたから,覚悟はしていた。この日のために教会の周りに出る屋台で,ドーナツの生地を平べったくのばしたような揚げたての巨大揚げ菓子をふうふういいながら食べるのも楽しかったことだし。

 そんなことを考えていたのに,当日,寝ぼけ眼のわたしの耳を打ったのは「雪よ」というルームメイトの一言だった。窓に飛びついてみると,たしかに現在進行形で雪が降っている。それもみぞれだ。積もらないのがいいのか悪いのか。ヴェネツィアでは雪は珍しいので雪自体は嬉しいのだが,その中を出かけるとなると話は別だ。さらに,その朝サイレンが鳴っていたから,アクア・アルタが来ているはずだった。

 アクア・アルタ(高潮)というのは,秋から冬にかけて,満月の満潮に南から吹く風が重なったときに起きる現象で,その名の通り,海水が押し寄せて運河の水位が上がり,街路にあふれて街中を水たまりにしてしまう。起こる可能性があるのは満月の日前後数日,時間もたいていは朝の十時頃から昼過ぎまで。午後まで待っていれば水は音もなく引いて行くから,時間に余裕さえあれば避けることはそう難しくない。街の対応も慣れたもので,アクア・アルタの起こる日には朝けたたましいサイレンが鳴って知らせてくれる(この音が空襲警報そのもので最初は驚くのだが。イタリアの他の地方ではこういったサイレンはもはや存在しないようで,他地方から来た学生が初めてこのサイレンで起こされて「第三次世界大戦が始まったのか」と飛び上がったという笑えない話を聞いた。コソボ紛争の前の話である)。人通りの多い道には市が鉄の足に木板を渡した渡り台をだしてくれるが,行きたいところへの道順全てにこの渡り台があるとは限らないから,ゴム長靴は必需品だ。

 昼まで待ってなお止みそうにないので,結局セーターを重ね着し,ゴム長靴を履き,マフラーに帽子までかぶって防寒具でころころになって出かけることにした。アクア・アルタの方は幸いそれほどではなく水たまりをいくつか渡る程度ですんだが,いかんせん風が強い。ひっくり返りそうな傘をなだめつつ半時間ほど歩いて細い路地を抜けると,ぱっと視界が開けて,同時にみぞれ混じりの風が殴りかかってきた。運河に向かって教会があり,その前が小さな広場になっている。その広場では屋台のおじさんが寒さに真っ赤になりながら奉納用の蝋燭を売っていた。普通のサイズから身長の半分はありそうな巨大なものまで,いろいろと種類がある。一つ買って中に入ると,当然というべきか,前年と比べると人出がめっきり減っていた。去年は外まで並ぶというほどではないにしろ,教会の中は地元の人らしき人々でいっぱいで,蝋燭を捧げるにも一方通行でところてんのように押されて通過したのだが,今回はそんな混雑はまるでない。係の少年たちが奉納用の蝋燭を受け取り,火をつけて供えては,次の人の蝋燭に場所を空けるためにせっせと火を消して横に積んでいく。お寺で蝋燭の火を吹き消して怒られたものだが,カトリックでは吹き消すことは全く問題ないらしいと妙なことに感心しつつ,わたしも蝋燭を灯してもらった。

 異教徒が捧げる息災祈願に御利益はあるやなしや。ともかくも今年流行と評判だったインフルエンザはひかずにすんだ。めでたい話である。

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ビールの国ベルギー

 

廣川 暁生

 

 日本ではビールといえば夏の風物詩であるが,ビール大国ベルギーではビールに季節感はない。ベルギー人のビールの個人年間消費量は,日本人の約2倍の100リットルを超えている。ベルギーでカフェに入ると,まず目を惹くのは各テーブルに置かれたビアグラスの多彩さである。ビールの各銘柄ごとに,「このビールはこのグラスで飲むのが最もおいしい」という固有のグラスが用意されている。例えば,低アルコール度のピルスナーやきりっと冷やして飲むホワイトビールには,熱を伝えにくいタンブラー型グラスがあわせられる。一方,香りとコクを楽しみながら室温で飲むタイプのビールは,飲み口が大きく広がったグラスで供される。こうした日本では珍しいタイプのビールには,トラピストビールやアベイビールがある。トラピストビールとは,トラピスト会修道院内部の醸造所のみで造られるビールのことで,全世界で6銘柄のみが認定を受けているが,そのうちの5銘柄(Chimay, Orval, Rochefort, Westmalle, Westveleteren)までがベルギーで造られている。これに対してアベイビールとは,修道院からレシピや醸造法を受け継いで,名前のライセンスを受けながらも,一般の醸造所で造られるビールを指す。こうして細心の配慮をもって目の前に届けられる一杯のビールを,人々は五感を最大限に働かせながら,ゆっくりと心ゆくまで味わうのである。

 ビールの歴史について簡単に触れておくと,紀元前6000年の古代メソポタミアの地で,少量の水と数種類の穀物が混ざり合って自然発酵したものが,ビールの起源とされている。古代バビロニア,エジプトにおいては,すでにビール醸造所があり,その生産法や品質については厳しく管理されていた。興味深いことに,ハムラビ法典の中には,悪質なビールを作る醸造者に対し,「自らの欠陥ビールの中での溺死の刑」が存在する。一方,古代ヨーロッパ世界では,気候的にワインの生産に適さない地域において,ビールの製造が始められた。こちらは本質的には家庭の生産物であり,ビール醸造は女性の仕事であった。中世に入ると,ビールの醸造は家庭から教会や修道院の管理化に入り,生産技術,生産量,種類が飛躍的に増大していく。多くの修道院(特にベネディクト会)がビール製造に専念した要因の一つとして,巡礼者確保の手段としてワインより安価であったビールを積極的に用いたことが挙げられる。また古来より,「液体状のパン」と呼ばれたビールは,修道士たちにとっても精神的および肉体的な「糧」となった。こうして「聖なる飲み物」であるワインに対して,「粗野な飲み物」とされていたビールは,修道院の壁の中で生産されることにより一気に神聖化されたのである。

 1415世紀に入り,都市に醸造所が建設されると,特に北ヨーロッパにおいて,ビールは次第に最も大衆的な飲み物となっていく。折しもペストとコレラの流行がビールの普及率を飛躍的に高めた。病原菌の原因が,川や運河からくみ出される水であったため,煮沸の過程でそれらの菌を排除しうるビールが,いわば信頼しうる水の代用品として広く飲まれるようになったからである。16世紀のネーデルラントの画家,ピーテル・ブリューゲルの《ネーデルラントの諺》(1559年,ベルリン国立美術館)に,豚がビールの樽栓を加えて逃げ去る情景(「目を離したすきに豚が樽栓を引き抜いて,ビールがすっかり無駄になってしまうこと,転じて一家の主人が家政を怠り,家計が傾いた状態」を意味する諺。森洋子『ブリューゲルの諺の世界』白鳳社 1992211-215参照)が描きこまれていることからも,当時の民衆生活とビールの深い結びつきを窺い知ることができよう。

 中世の各都市において形成された,ビール醸造業者たちのギルドは,都市の繁栄に大きく寄与し,同一ギルドに属する醸造業者たちは,醸造法や材料のレシピを共有することで,地域特有の味を創り出し,守り継いだ。現在,400種にも上るベルギービールを味わえるのは,こうした醸造業者達の自由な発想と差異化への努力の賜物であるといえる。ブリュッセルのグランプラスには,16世紀末からビール醸造業者のギルドハウスとして使用された「黄金の木(De Gulden Boom)」と呼ばれる建物がある。現在の建物は20世紀初頭に再建されたものであるが,今では,CCB(ベルギー醸造所連合)が置かれ,その地下は小規模の博物館になっている。ここは1000年の昔からの伝統を守りつづけながら,未来へ発展していこうとするベルギービールの精神が息づく空間である。

 19世紀末に3,200にまで上った醸造所の数も,二つの世界大戦によって打撃を受けて次第に減少し,現在では複数の醸造所が大会社の参加に収められている。しかし,それでも多種多様なビールが競合しつつも共存している状況を見るにつけ,人々のビール文化に対する深い愛情と敬意を実感せずにいられない。

 春の訪れが感じられるブリュッセルの街には,オープンテラスが出始め,柔らかい陽光の下では,人々が満足げにグラスを傾けている。


 

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表紙説明 地中海:祈りの場17

ニコシア/村田奈々子

 

 キプロス共和国の首都ニコシアは,かつてのベルリンのように壁で南北に分断されている。南側はキプロス国家警備隊と国連キプロス平和維持隊が,北側はトルコ軍が駐留している。1974年にギリシア軍事政権が仕掛けたキプロスでのクーデタをきっかけに始まったトルコ軍の侵攻以来,島を東西に貫く分断線グリーン・ラインに沿って,北部にはトルコ系,南部にはギリシア系という「住み分け」状態が続いている。北部のトルコ系住民は1983年に北キプロス・トルコ共和国という新たな独立国家を宣言したが,トルコ以外には承認されていない。国際社会では,島全体はひとつのキプロス共和国として認識されている。表紙の写真は,ニコシア(南側)に設置されている緩衝地帯見学のための施設である。

 オスマン帝国のもとで,キプロスの住民はキリスト教徒とイスラム教徒という宗教上の違いはあったものの,平和的に共存し,共通の文化をはぐくんてきた。しかし,19世紀後半以降キプロスに及んだ近代ナショナリズムの波は,やがてその豊かな遺産を崩し去っていった。キリスト教徒はギリシア,イスラム教徒はトルコという特定の国家に自分たちのアイデンティティを結び付けて考えるようになったのである。1878年に実質的にキプロスの統治をオスマン帝国から継承したイギリスの政策もこの傾向を加速した。島は1960年にキプロス共和国というひとつの国家としてイギリスから独立したが,ギリシア系とトルコ系住民の間で「キプロス人」意識が共有されることはなかった。両者の度重なる衝突と流血の惨事が招いた結末が島の分断だった。

 この四半世紀の間,保障国のイギリス・ギリシア・トルコをはさんで,連邦制によるひとつの国家を主張する南と,トルコ系とギリシア系の二つの主権からなる国家連合を主張する北の立場は変わらず,分断状態を解決するための議論は堂々めぐりに終始していた。しかし,昨年夏のトルコ大地震,それに続いたギリシア地震での相互協力がきっかけとなった両国関係の改善は,キプロスの政治状況にも反映されようとしている。それまでトルコのEU入りを強硬に反対してきたギリシアの態度が軟化し,昨年12月にトルコは念願のEU加盟候補国入りを果たした。北キプロス・トルコ共和国を政治・経済・社会全般にわたって支援してきたトルコであるが,EU正式加盟を目指すためには,これまでの北キプロス政策を再考する必要がある。EUは国際紛争を抱えている国は加盟対象としていないためである。

 もちろん,現在世界で頻発している地域紛争と同様に,キプロス問題も一朝一夕で解決できるほど単純ではない。地理的のみならず心理的にも乖離してしまったギリシア系とトルコ系住民が歩み寄るのは容易なことではない。どのような道を選択するにしても,双方に多少の精神的な痛みと勇気が必要とされるだろう。それでもなお,狭い路地にいたるまで壁で不自然に分断されたニコシアの町に立つ時,私たちは両者の平和的共存の可能性を祈らずにはいられない。

 愛と美の女神アフロディテ誕生の地キプロスは,今大きな転機を迎えようとしている。

 

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