地中海学会月報 228
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2000|3  




   -目次-








学会からのお知らせ

 

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*4月研究会

 下記のとおり研究会を開催します。奮ってご参集ください。

 

テーマ:ルッカの古代ローマ円形闘技場遺構の住居化について

発表者:黒田 泰介氏

日 時:4月15日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館3階311教室

参加費:会員は無料,一般は500

 

 イタリア・トスカーナ州の都市ルッカには,中世以降に住居化されて円環状の一街区を構成する円形闘技場の遺構が残っている。このような長年の建築的堆積によってつくられた建物は,都市形成史の一部を物的かつ劇的に示す,極めて興味深い事例である。イタリア各地の様々な円形闘技場遺構の再利用の事例を紹介しつつ,ルッカの事例と遺構の住居化を中心に,その特質を建築学的観点にとどまらず,多角的に探っていきたい。

 

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*春期連続講演会

 春期連続講演会を5月13日より6月10日までの毎土曜日,ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)で開催します。テーマ及び講演者は下記のとおりです。各回とも,開場は1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順)です。

「地中海世界の歴史:古代から中世へ」

5月13日 古代ギリシアと地中海世界  桜井万里子氏

5月20日 古代ローマと地中海世界   本村 凌二氏

5月27日 ゲルマンと地中海世界    高山  博氏

6月3日 ビザンツ帝国と地中海世界  大月 康弘氏

6月10日 中世イスラムと地中海世界  私市 正年氏

 

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*第24回地中海学会大会

 第24回地中海学会大会を広島女学院大学(広島市東区牛田東4-13-1)において,下記のとおり開催します。詳細は別紙の大会案内をご参照ください。

 なお,大会出欠ハガキは名簿作製の資料となりますので,できるだけご記入ください。

6月17日(土)

13:0014:00 記念講演

 「地中海をアフリカから見る−−黒いムーア人,胡弓,トンボ玉」 川田 順造氏

14:2014:50 授賞式

 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」

15:0016:30 地中海トーキング

 「酒と海と大地」

  パネリスト:樺山 紘一氏/橋口  収氏/福本 秀子氏/司会:木島 俊介氏

16:4018:30 見 学

18:3021:00 懇親会

6月18日(日)

10:0011:30 研究発表

 「浜田耕作と古代ギリシア・ローマ美術」 大木 綾子氏

 「古代地中海の怪物ケートスの系譜とドラゴンの誕生」 金沢 百枝氏

 「16世紀中葉オスマン朝下エジプトとヴェネツィア商業」 堀井  優氏

11:4512:15 総 会

12:1513:30 昼 食

13:3016:30 シンポジウム

 「巡礼のコスモロジー」

  パネリスト:安發 和彰氏/清水 憲男氏/堀内 正樹氏/宮下規久朗氏/

  司会:小池 寿子氏

 

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*会費納入のお願い

 新年度会費の納入をお願いします。

 口座自動引落の手続きをされている方は,4月24日(月)に引き落とさせていただきますので,ご確認ください。ご不明のある方,学会発行の領収証を必要とされる方は,お手数ですが,事務局までご連絡ください。

 

 

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訃報
 本学会元常任委員の岡道男氏が3月3日にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。

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研究会要旨

 

ベラスケス作品の「あだ名」型通称

−−その成立と意味−−

 

久々湊直子

 

1月22日/上智大学

 

 絵画史を概観すると,制作時にはなかった通称が後世につけられる例は枚挙に暇がない。《モナリザ》《美しき女庭師》《夜警》など,とくに有名画家の代表作にはこの手の通称を持つものが多く見られる。絵画の題名については,その特徴や成立背景を分析・分類し,これが提示する問題を指摘した高橋裕子氏の論考(*)があるが,ベラスケスの作品にもまた,《バッカスの勝利/ロス・ボラッチョス》《ブレダの開城/ラス・ランサス》《フェリーペW世の家族/ラス・メニーナス》《アラクネの寓話/ラス・イランデーラス》のように,氏が「あだ名」型通称として分析したものの類例を見出せる。

 彼の代表作にも挙げられるこの4点は,画業の各時期に分散し,そのジャンルも神話画2点,歴史画1点,肖像画1点と,決して一分野に偏るものではない。ただし共通点がない訳ではなく,特に留意したいのは,どれも彼が後世に評価を受けた「ボデゴン」あるいは「風俗画」のジャンルではないということである。名のない市井の人々を描くこの種の絵画とは対照的に,この4点は神話に典拠を持つか,あるいは当時の英雄や王族を扱っており,つまり無名どころか実に記念・固有性の高い主題を持っている。

 4点の通称のつけられ方には特に共通点を捜し得る。第一に,これらのあだ名は,どれも本来の主題における主人公以外のモチーフが命名の動機となっている。そして,ボラッチョス(酔っぱらいたち),ランサス(槍または槍兵たち),メニーナス(お付きの女官たち),イランデーラス(糸を紡ぐ女性たち)は,モチーフをその「行為」や「職業」で呼称し,特定唯一を避けるように全て複数形になっている。本来の主題が記念・固有性の高いものであるのに対し,あだ名は日常・不特定的,つまり風俗画的な視点に傾倒している。

 あだ名の成立過程を所蔵元の財産目録で探ると,まず18世紀初頭に《アラクネの寓話》の主題が不明となり,絵画を記録する記述の中から「糸を紡ぐ女性たち」という語が抽出されていく。これを皮切りに,18世紀半ば以降の記述には各作品の主題の喪失や肖像モデルの誤認が多々生じ,この時期の鑑賞者が作品制作時の周辺知識を失いがちであった事情が見てとれる。そして「あだ名」が定着するのは,まさにこの後の18世紀末から19世紀初頭にかけてのことなのである。通称成立の一因には,この受容者側の鑑賞知識の変化が挙げられるだろう。

 しかし,本来の主題が一度だに失われず,それでもあだ名が主題を駆逐していく例を《バッカスの勝利/ロス・ボラッチョス》に見る時,これとは別の要因も考察する必要が生じてくる。作品自体に,すでに脇役たちが主題を排して主役を演じる傾向を看取できはしないだろうか。はじめに主題を失った《ラス・イランデーラス》と,主題を失うことなく通称を得た《ロス・ボラッチョス》は,この特徴を最も表わす作品かもしれない。後景の神話主題のシーンを除くと風俗画として成立し得る「糸を紡ぐ女性たち」や,本来の主役バッカスを横にしながらそれ以上に鑑賞者の視線を釘づけにする「酔っぱらいたち」の表現なくして,はたして「あだ名」は成立しただろうか。

 通称が定着した時代,ことに19世紀前半の鑑賞者は,このベラスケス作品の特徴を歓迎したはずである。当時の絵画批評・解説は,風俗写生主義(コストゥンブリスモ)やロマン主義の影響下にある執筆人により,カタログや雑誌記事を媒体にして行われていた。彼らが伝統的主題よりも風俗的なモチーフに魅力を見出したとて不思議はない。言うまでもなく,ベラスケスの「風俗画」が汎ヨーロッパ的な評価を得ていく事実も,あだ名の成立を強く後押ししただろう。

 「あだ名」は明らかに後世の視点で命名されている。神話画が持っていた複層的な意味内容,あるいは宮廷世界で重要だった固有の人物の記念・英雄性といったものはことごとく後退させられてしまう。しかし,ベラスケス作品が本来持っている造形上の特質がいっそう露呈するのは,まさにこの視点の下においてであり,これにより作品は隠れがちだった局面に光を当てられた訳である。本来の見方でないといってこれを排除することは,制作時の状況のみを作品の存在と関連させ,これを特権化するあまり,制作以後現在に至るまで「作品が存在し受容され続けている」ことの重要性を無視することとなる。

 作品制作時のあり方を復元して解釈することはもちろん重要な課題である。しかし,これと平行して,後世の各時代の視点と制度の中で作品がどのような位置付けを持ったのかを確認することも,作品の特質を探る重要な手がかりであると,この「あだ名」型通称の存在は我々に教示しているのではないだろうか。

(*) 高橋裕子「形象とテクスト 絵画の題名考」『現代哲学の冒険12 行為と美』岩波書店,1990pp.68-145.


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コンスタンティノポリス征服とエスキ・ファーティヒ・モスク

 

山下 王世

 

 陥落の翌日,1453年5月30日にコンスタンティノポリスに入ったオスマン朝スルタン,メフメト二世(II. Mehmet:143281)は,政治,商業,学問の中心となる新首都イスタンブルの建設に着手した。メフメト二世期に建設された最大規模の礼拝施設がエスキ・ファーティヒ・モスク(146270)である。

 その場所には,もともとビザンツ帝国皇帝ユスティニアヌス一世によって建設された聖使徒聖堂(550年奉献)があった。聖使徒聖堂の存在は1420年まで確認することができる。しかしその約40年後,エスキ・ファーティヒ・モスク建設着工時の状況についてオスマン側史料には具体的な記述はない。エスキ・ファーティヒ・モスクの建築家には,ギリシア人名のクリストドゥーロスと,トルコ人名のスィナン・アル・アティキ(1471年没)の名が史料に記されている。両者については,同一人物による改宗前・後の名前であるという推論もあるが,明確なことは分かっていない。

 15世紀後半から16世紀初頭にかけてオスマン帝国では,盛期建築に方向性を与えたと考えられる重要事例が建設された。エスキ・ファーティヒ・モスクはその一例で,(a)初めて半ドームが使用された大規模モスクであること,(b)モスク全体の平面形態がほぼ正方形に近い形にまとめられ明快な構成をもつこと,(c)モスク周辺のキュルリエ(複合都市施設)の規模が非常に大きく,それぞれの配置が幾何学的規則性に則っていること,以上3点の特質をもつ。やがてこれらは,大規模モスクの主要な特質として定着していくこととなる。こうしてオスマン建築は,16世紀半ばのスュレイマン一世期およびセリム二世期において,宮廷主任建築家スィナン(14901588)の手腕の下に盛期を迎えるのである。

 18世紀,エスキ・ファーティヒ・モスクは地震により中庭,およびミナレット基部を残してほぼ全壊した。現存する建築は,ムスタファ三世によって再建されたイェニ(新)・ファーティヒ・モスクである。ムスタファ三世期(在位175774)にはオスマン・バロック様式のモスクが多く建設されたが,エスキ・ファーティヒ・モスクの再建にあたっては,一部に流線的なアーチが見られるものの,積極的にこの様式が用いられたとはいえない。これは,ムスタファ三世が征服王メフメト二世の記念碑であるエスキ・ファーティヒ・モスクを,可能なかぎり創建当時に近いかたちで残そうとしたあらわれであろう。しかし現存するモスクからは,礼拝空間外壁の位置はおおよそ限定できるものの,内部の詳細な平面形態を推測することは非常に困難である。

 エスキ・ファーティヒ・モスクの形態を具体的に知る重要な手がかりとして,絵画史料がある。下図はオランダ人画家メルヒオール・ロリクスによってイスタンブル滞在中(155761)に描かれた銅版画の一部である。丘の上に描かれている大規模施設がエスキ・ファーティヒ・モスクである。この図から中央ドームの傍らに三つの小ドーム,そしてミフラーブ(メッカにむかう内壁に設けられる壁がん)側に半ドームを確認することができる。ウェチュ・シェレフェリ・モスク(143747)において唯一前例のあるバットレスの描写,ドーム・ドラム部分の窓の描写が同時代のモスクの特徴と一致していること,メフメト二世の廟が現状と同じ位置に描かれていることからも,史料的価値が高いといえる。

 エスキ・ファーティヒ・モスクの形態について具体的に記述された文献史料には,エヴリヤ・チェレビの『旅行記』,ヒュセイン・イスマイルの『モスクの庭』がある。これらには,次の5点,すなわち@両側にある石階段からモスクの内部へ入ることができたこと,A大ドームは,ソマキと呼ばれる円柱とピアのそれぞれ2本ずつ,計4本で支持されていたこと,Bミフラーブ側に半ドームが存在したこと,C大ドーム横に小ドームが存在したこと,Dバルコニー一つを備えるミナレットが2本立っていたこと,が記されており,この絵画史料から得られる情報を裏付けているといえる。


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誰の剣か

 

武田  好

 

 マキァヴェッリが『資金調達に関する発言』を書いたのは,チェーザレ・ボルジアとの交渉に赴いたイーモラ使節行から帰った直後のことだった。このときの彼の立場はフィレンツェ第二書記局長で,国家首席ピエロ・ソデリーニからの信頼も厚く,その依頼を受け評議会の演説原稿としてこの文書を書いたのだと考えられる。今残っている部分はおそらく原稿の序説であるが,フィレンツェの現状,いや窮状を訴える言葉が続く。

 彼の脳裏には,チェーザレとの直接交渉で苦労したあの時の経験が焼き付いていたのだろう。「武力を持たない国」がどのような目に遭うかを実例を挙げ警告を繰り返す。個人の間で信用できるのは契約や証文ですが,君主の間では武器なのですぞ,ピストイアもピサ問題もそうだったでしょう,ヴァレンティーノ公チェーザレがこのトスカーナに進軍したときのことをお忘れですか,このフィレンツェ国は何の手だても打つことができなかったではありませんか。こんな調子で懇々と説き続けるのである。

 1503年当時のイタリアと言えば,フィレンツェ国の他にヴェネツィア国,ミラノ国,ナポリ国,そして教皇領の五大勢力の争いが熾烈を極めていた頃である。さらにフランスとスペインがイタリアに触手を伸ばし,ロンバルディーアもナポリも両国が覇権を争って戦乱の場と化していた。彼はこう続ける。

  ... tuttavia del re non sia in attitudine a difendervi, perché tuttavia non sono quelli medesimi tempi; né sempre si può metter mano in su la spada d'altri,...

 「フランス王は我々をお守りくださるような態勢ではないかもしれません。時を同じくして動いてくれるとはかぎりません」つまり,何かあったときに我々と同盟関係にあるフランス王を頼りにしたところで助けてもらえるとはかぎらない,我々とフランス王が同じtempoにいるわけではないから,というのである。こちらが助けて欲しいときに手を貸してくれることはないのだ,と言い,その理由として,「他者の剣の上に手を置くことがいつもできるとはかぎらないから」と続ける。

 さて,この他者の剣に手を載せるとは何を意味するのか。剣の主とは誰か。彼の弁に耳を傾ける者に対して,言わずとももうおわかりでしょう,とばかりに言い切るところが,いつもの彼一流の言い回しである。

 もちろん「他者」とはフランス王のことであり,剣とはフランス軍,手を伸ばしてその軍勢を求めているのはフィレンツェ国だと考えるのが妥当だろう。だから,「頼りとする者の剣に手を伸ばして,その剣を抜かせることなどできない」と言っているわけである。そしてさらにこう続ける。

  ... e però è bene averla a lato cignersela quando el nimico è discosto, ché altri non è poi a tempo e non truova rimedio.

 「ですから剣を傍らに持ち,敵が離れているときに腰に携えればよいのです。というのは,他者は間に合いませんし,策を立ててくれることがないからです」

 少々わかりにくい言い方ではあるが,頼りとする人(=altri)はタイミングよく助勢してくれないものだし,対策も立ててくれないのだから,自ら剣を,つまり武力を持つしかないと訴えているのである。altriと言いながらも文中では単数扱いであるところをみると,頭の中では一人の人物を想定しているのだろう。もうだめ押しと言ってもよいほど繰り返すのは,当てに出来ないフランス王のことである。

 教皇軍総司令であるチェーザレがロマーニャへと進撃し,諸都市を次々と撃破,占領したとき,フィレンツェ政府から遣わされ交渉の窓口となったのはマキァヴェッリだった。軍備を増強し,恫喝ともとれる文言でフィレンツェに迫るチェーザレに対して,彼はフランスとの同盟関係を後ろ盾に「時間を引き延ばし,周辺状況の察知,相手国の思惑の把握」に努めるしかなかった。彼がこの原稿を書いているときも,いまだヴァレンティーノ公との間には何の取り決めもなされていない。自前の軍,つまり傭兵部隊に頼らない兵力を持たねばならないと痛感したのは誰よりも彼自身なのである。

 誰かの力を頼みにしてもいつもそれが上手くいくとはかぎりません。今のうちに手を打っておかないと大変なことになってしまいます。軍備をととのえなければなりません。それも我が国の軍を。そのためには金が要る・・マキァヴェッリの願い,いや呻きが聞こえてきそうである。500年前のこのフィレンツェ国の状況,どこかの国に似てはしないか。

 

 


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サン・ヴィンチェンツォ・アル・ヴォルトゥルノ修道院に見る初期中世美術

 

加藤磨珠枝

 

 今からちょうど1200年前の西暦800年,フランク国王カールは,ローマのサン・ピエトロ大聖堂で戴冠され「ローマ皇帝」の称号を得た。キリスト教精神と世俗権力の統合に より西欧世界の骨組みが作られた当時を記念し,この度ヨーロッパ連合(EU)の後押しで「ヨーロッパの形成」をたどる国際展が各地で計画された。その一環としてイタリアのブレッシャでは,今年の6月に「ランゴバルドのその後」展が開催予定だが,西ゲルマンの一部族である彼らが,なぜイタリアの代表になったのだろうか。この背景を考える貴重な発見が,近年サン・ヴィンチェンツォ・アル・ヴォルトゥルノ修道院の発掘調査でなされている。以下ではその研究成果を通して,初期中世のイタリア美術の一端を考えてみたい。

 モンテカッシーノから北東に約30Km,ヴォルトゥルノ川のほとりにサン・ヴィンチェンツォ・アル・ヴォルトゥルノ修道院はある。12世紀初頭に編纂された『ヴォルトゥルノ年代記』Chronicon Vulturnenseによれば,この修道院の起源は703年に遡り,ランゴバルド系ベネヴェント大公の招きで訪れた3人のベネディクト会修道士,タト,タソ,パルドによって創設された。修道院は急速に発展し,8世紀末にはフランク王権の庇護のもと修道院長ヨシュア(在位792817)やエピファニウス(在位824842)らを輩出し,イタリア中南部に広大な土地を所有したが,840年代になるとベネヴェント内紛と大地震で被害を被り,881年にはイスラム教徒の略奪により壊滅的打撃を受けた。

 現在の修道院聖堂は20世紀のものだが,川の対岸にはローマ時代から初期中世にいたる遺構が残り,1980年以降,発掘調査が続いている。しかしそれ以前から西欧中世美術史においては,エピファニウス時代のクリュプタの壁画が知られ,その質の高さと保存状態の良さで注目されてきた。この壁画の闊達な線描と洗練された色彩の様式は,ベネヴェントのサンタ・ソフィア聖堂(9世紀前半)やセッパニーバレのテンピエット(8〜9世紀前半)等の壁画群に類似し,共にランゴバルド統治下で制作されたため「ランゴバルド絵画」と称されている。彼らは568年頃イタリアに侵入した後,定住し,短期間で北イタリア一帯に王国を建設したが,774年にカール率いるフランク王国との戦いで征服された。一方,同じランゴバルド系でありながら,王国から自立していた南イタリアのベネヴェント大公領は,フランクの介入後も侯国として独立を維持した。こうした彼らの動きは,当時ビザンティン帝国の支配下にあったイタリア中部と南部も含む,半島の初期中世社会の形成に重要な役割を果たしたが,彼らがイタリアに遺した美術は民族固有のものではなく,定住地に温存されていた古代末期の伝統を継承し,同時代のビザンティン美術と独自の様式感覚を融合させた複雑な要素から成っている。

 従来,サン・ヴィンチェンツォ修道院の壁画は,このランゴバルド美術の代表作として論じられてきたものの,実際この場所ではランゴバルドとフランク双方との交流が保たれ,民族の政治的枠組を越えた独自の活動が行われたようである。こうした状況は近年の発掘調査でも浮き彫りとなった。まず8世紀初めの単廊式バシリカ創建後,修道院長ヨシュアは全長63m,幅28mの大規模な新聖堂を造営し,この三廊式バシリカのファサードには巨大な大理石板にアンシアル体の青銅製文字で銘文が刻まれた。これはローマ時代の公共建築の奉納銘文をモデルとしたもので,同種の作例がサレルノのアレキス二世(最後のランゴバルド国王デジデリウスの娘婿)の宮殿跡でも発見された。つまり南ランゴバルドの修道院と宮廷美術の共通の源泉は,古代モニュメンタル芸術にあったことがわかる。またヨシュアが始めた施設の拡張事業は,カロリング期修道院建築の理想とされるザンクト・ガレンのプランに呼応し,修道院間の堅固な結びつきを露にした。この南北の影響関係は近年の美術史研究でも実証され,サン・ヴィンチェンツォ修道院壁画の人物の描法は,北イタリアとアルプス以北のカロリング期の壁画群(ブレッシャ,ミュステイル,ライヒェナウ島オーバーツェルのザンクト・ゲオルグ聖堂など)と様式的類似が指摘されている。加えて特筆すべきは,ヨシュアの新聖堂に導入された半円環状周廊式クリュプタが,ローマの旧サン・ピエトロ大聖堂を模倣していた点である。

 これまでも,サン・ヴィンチェンツォ・アル・ヴォルトゥルノ修道院は,エピファニウス時代の壁画により,初期中世絵画史に重要な位置を占めてきた。しかし近年の発掘調査により,この壁画が8〜9世紀に開花した本修道院文化のむしろ末の段階に属すことが,今では明らかとなった。それは,南北ランゴバルドの宮廷および修道院とカロリング美術との影響関係,さらにローマ教会との結びつきを示し,初期中世イタリア美術の発展を解き明かす,今世紀の画期的発見の一つと言えるだろう。

 

 


 

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モザイク工場を訪れて

 

 米倉 立子

 

 去る12月3日から5日,ヴェネツィアにおいて「Il mosaico-conservazione e promozione」と銘打ったモザイクに関するセッション・ワークショップが行われ,参加する機会を得た。

 モザイクに関することであれば分野を問わず,全般的に取り上げようとした集まりであったので,内容が幅広く,ここで全体を紹介するのは難しい。だがモザイク工場を訪ね,モザイク片・テッセラが出来るまでの実際の工程を見る機会を得たので,以下その様子を紹介したい。

 私は初期キリスト教美術の建築の装飾体系を勉強しており,普段から既にでき上がったモザイク装飾を目にすることはよくあるのだが,テッセラを埋め込むその細かい手作業に要する根気や注意力を想像してため息をつくばかりで,いかにテッセラが出来上がるかを実際見るのは初めてであった。

 ヴェネツィアで現在も操業中のモザイク工場,「アンジェロ・オルソーニ」社を訪ねた。敷地内に色々な顔料やガラス片を桶の中に山積みにして無造作に置いてあるような,町工場の雰囲気である。

 建物内には二基の炉があり,炉の蓋を開けると火が燃え盛っており,熱気がすごい。そこでガラスを溶かし,最初の工程が行われる。実演はなかったのだが,案内係のシニョーレが炉の中に棒を差し入れ,べっこう飴のような溶けたガラスがつるつると流れ,外の冷気にぱりぱりと固まっていく様を見せてくれた。

 またシニョーレは顔料とテストモザイク片のサンプルを見せ,細かいグラデーションの出来るまでを説明してくれた。残念ながら私のつたない語学力では,細部まではわからなかったが,顔料の化学変化は微妙であろうから,一定の幅のうちに色を収めてガラスを焼き上げるのは,大変なのではないだろうか。

 様々な色調の色ガラス板のうち,殆どは直接顔料とガラスを化学変化させて作るのだが,金色や銀色といったテッセラは作り方が特殊である。ベースとなる透明な平たいガラス板の上に,8×8cmの薄い金箔あるいは銀箔を載せ,その上にさらにシール のような薄いガラス箔を載せてコートし,焼き上げるのである。つまり金箔をガラスでサンドイッチし,トーストするのである。

 現代の金箔モザイクは,ガラス地がコバルトブルーと言ってもいいような,それ自体美しい青いガラスをベースとしている。今回の集まりで知りあった,若いスロヴェニアのモザイク・アーティストは,実際にこのモザイクの裏側,つまり青い側を表側にして作品で使い,そんなにもったいない使い方をしてはいけないと師匠に注意されたそうだ。

 古くは,ガラス地は青というよりも緑色の,ワインボトルのガラスに近い色をベースとしていたようである。

 こうした金や銀のモザイクの色彩変化は,金箔片をコートするガラス箔の色を変えたり,柄が少し入ったものを載せることにより生まれる。さらに,後にテッサラを実際に埋め込むときの角度の変化で光が拡散し,思いもかけない色彩の変化が偶然生まれ,色彩の可能性は限りなく広がるのであろう。

 つぎに既に焼き上がったガラス板が,色調別に棚にストックしてある部屋に進んだ。その光景は,少々ほこりっぽい書架に色とりどりの本をきちんと仕分けして保管している,老舗の古本屋を連想させた。だが何といっても,部屋一面の棚を埋める色彩の多さに目を奪われた。実際の出来上がった作例を見ていても,これほどの多彩な色調が既にテッセラとして用意されているとは思っていなかったのだ。勿論,5,6世紀の作例とはテッセラの色彩の量も異なろうが,作例に近づいて見た際の隈取りのような,かなり大胆な輪郭線やハイライト,影の付け方から,細かいグラデーションはテッセラで実現するのではなく,点描主義のように,離れて見たときに目に映る色の混合で実現するものと思っていたのだ。しかし少なくとも,現在のモザイク工場では,他の画材に匹敵する予想以上に多彩な色を用意できるようだ。

 最後はガラス板をモザイク片・テッセラの大きさに細かく切る作業である。ここではテッセラが現在も手作業で作られることに驚かされた。金のモザイクなどは,まず箔片の載っている正方形の部分を定規状のもので縁を押さえ,カッターで切り出す。他の色彩のガラス板はより小さな長方形に刻む。そこから一層小さくテッセラの大きさになるように,ミシンの針の部分に,代わりにカッターをはめ込んだような仕組みで動く切断機で,上からこつこつと刃を当て刻んでいく。こうした手作業を重ねたうえで,ようやくテッセラが出来上がるのである。

 普段,作例を見ていてもなかなか思いの至らない実際の現場を今回かいま見て,制作過程に対するこれまでの想像に,少しばかり具体的なイメージを伴わせることが出来るようになった。技術的,経済的な困難を越えて,現在においても私たちを引きつけるモザイク装飾を実現した人々の思いに,僅かでも近づけるようにありたい。


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表紙説明 地中海:祈りの場16

         ニコラ・フラメルの墓石/小池 寿子

 

 「かつて写字生であった故ニコラ・フラメルは,遺言にもとづいて,この教会財産管理会に,いくばくかの年金,慈善事業のために生前に購入したいくつかの家屋,毎年,盲人院に施しとしての銀貨,施療院やパリのほかの教会と病院を遺贈する。死者たちのために祈り給え」

 またしてもパリ。セーヌ右岸のいまはなきサン・ジャック教会は,サンティアーゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の目印となる塔を有する名所であった。その教会をこよなく愛したひとりの男がいる。名はニコラ・フラメル。14世紀後半のパリにあって,代書人として職を得,やがて写字および写本製作の腕を磨いてパリ大学の宣誓写字生として出世した彼は,「ブルジョワ」として名を挙げた。当時の「ブルジョワ」のなかには,百年戦争まっただ中にもかかわらず,相応の屋敷を構え,贅沢三昧の生活を送った者もいた。しかしニコラは,救貧院を建てたり,祈りの場である礼拝堂を,いくつものパリの教会に寄進した。サン・ジャック教会に設置された彼の墓石には,聖ペテロと聖パウロを従えたキリスト像とその下に,遺言の一部が刻まれている。

 あまたの慈善事業に費やしてもなお,余りある金を,いったい彼はいかに捻出したのか。妻ペルネルは二度にわたる夫の死と再婚によって相当の持参金をもっていたし,ニコラも,当世きっての文芸擁護家にして蔵書家ベリー侯ジャンの愛顧を得て,実入りのよい仕事に恵まれていた。「遺言書」にも,死者である自身のために祈る多くの者たちに,喪服用の黒い布や蝋燭代,銀製の聖杯や調度品などを遺贈している。その富は,やがて奇妙な風聞を生んだ。彼は錬金術師である,と。

 ニコラは錬金術の奥義が書かれた『アブラハムの書』なる古書を手に入れ,50歳に手のとどく頃,その解読とむろん祈りのために,聖地サンティアーゴ・デ・コンポステーラに赴いている。そしてかの地で,奥義を知るユダヤ人カンシュ某と知り合い,パリへと海路陸路,帰途につく。カンシュ某はオルレアンで高齢のため病に臥したものの,その死の前に錬金術の秘法を聞くことができたのだった。そのような伝説が,いまもサン・ジャック教区あたりの古パリに残っている。

 墓石は,死者が生者に祈りを託する場である。ニコラならずとも,多くの死者たちが墓石に銘文を残した。「黙して通りすがる汝ら,ここに眠る者のために祈れ。かつては汝のように生を送りしが,見よ,我のごとく汝なりゆかん。……神はその魂に慈悲を垂れ給う。3000日の贖有を賜らん」。墓石に祈りを捧げる者は,その代わりに贖有を得ることもできたのである。そして「石」は,聖ペテロに等しく教会の礎であり,錬金術においては,墓中の死体のように分解し,腐敗し,黒くなるけれども,やがては白く輝く「石」,すなわちイエスのごとき復活の身体に変成する,と考えられていたのであった。

 当時の墓石が果たして,このような錬金術的な意味をもって建てられたか否かは定かではない。しかし,大地と深く結びつき,恒久的で神秘の力を宿す石に身体を託することによって,人は永遠の生を祈願したのであろう。ニコラは,墓石の下部に自身の腐敗屍骸像(トランジ)を刻み,こう結んでいる。

 「私は土より生れ,土に返る。魂はといえば,罪深い者を赦し給うイエスよ,汝のもとに帰りゆかん」

表紙:ニコラ・フラメルの墓石(1418年没),パリ,サン・ジャック教会旧蔵/クリュニー美術館蔵

 

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地中海学会事務局
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