地中海学会月報 223
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        1999|10  




   -目次-

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学会からのお知らせ

 

*第24回大会研究発表募集

 第24回大会は2000年6月17,18日(土,日)の二日間,広島女学院大学(広島市東区牛田東4-23-1)において開催します。記念講演,地中海トーキング,研究発表,シンポジウムを行なう予定ですが,詳細は決まりしだいご案内します。ご期待ください。

 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は,2月10日(木)までに発表概要(1,000字程 度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。

*新名簿作成

 学会では現在,新名簿作成の準備を行なっています。名簿の記載事項は,会員の氏名・住所・電話番号・所属・所属電話番号・専門の6項目です。変更・訂正事項がありましたら,お手数ですが至急,ご連絡ください。事務局へのご連絡は,郵送・ファックス・e-メールのいずれかでお願いします(e-メールのアドレスは月報の奥付に記載してあります)。

*連続講演会休講

 今年の秋期連続講演会は会場のブリヂストン美術館が工事中のため,休講します。なお,来年の春期連続講演会は開催の予定です。

*日本学術会議登録

 学会では第18期日本学術会議会員の選出に係わる学術研究団体(関連研究連絡委員会:哲学)の登録申請を行ない,この度,この申請が認められました。

 

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表紙説明

地中海:祈りの場11

    教皇庁立・東方研究学院(ローマ)/秋山 学

 「ローマ教皇庁立東方研究学院」(Pontificium Institutum Orientalium Studiorum)はローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に近い一角にある。その起源は,第258代 ローマ教皇ベネディクトゥスXV世(在1914〜22)が1917年に発布した教令Orientis Catholiciに遡り,同年10月15日に本学院が設立された。次代の教皇ピウスXI世(在1922〜29)は,1922年以降当学院の運営をイエズス会に委託し,以来今日までこの学院は,東方正教会とローマ・カトリック教会の一致のために,また学問的には東方キリスト諸教会の典礼や神学・教会法などの歴史的研究において,多大な成果を産み出してきた。

 この学院設立の目的は,まず正教会とカトリック教会との究極的一致を目指すことにあった。同時に,正教会と同様の東方式典礼を維持しながらローマ教皇庁との関係を復した「東方典礼カトリック教会」(通称「ユニアト教会」)が継承する多様性豊かな遺産を,カトリック教会固有のものとして後世に伝えることも重要な目的の一つであった。

 1962年から65年にかけて,カトリック教会は第二ヴァティカン公会議を開催して一大改革に着手する。その過程で打ち出されたのは,現代世界を構成する様々な文化圏(特にアジア地域)において,それぞれに固有の伝統文化を尊重しつつ,対話を図りながらキリスト教の今日的意義を探るという姿勢であった。この方針はいわゆる「文化的受肉」(inculturation) と呼ばれるものであるが,その実践に際しては,各文化圏で継承されてきた文化遺産を,特に典礼様式のうちに受容し表現した東方諸教会の姿勢が先駆的意義を有する。東方研究学院は,この点を早くから洞察し研究の場で実践してきたと言える。定期刊行誌Orientalia Christiana Periodica(OCP),およびモノグラフOrientalia Christiana Analecta(OCA) には,初代教会以来の伝統を保持する東方諸教会についての詳細な研究が掲載されてきた。また1992年におこなわれた創立75周年の記念式典に関しては,OCAの第244号が特別号として当てられている。

 東方キリスト教会は,社会主義の崩壊によって復興著しい地域を見出す一方,特にイスラム勢力に近接する区域では,異文化との平和的対話の実現が焦眉の急となっている。1999年12月24日(「主の降誕」前晩)における「聖扉の開放」から,2001年1月6日(「主の公現」の祭日)における「聖扉の閉鎖」までを,カトリック教会は「大聖年」(Jubilee) と定めているが,この間,ローマ教会の典礼暦に則って祈りが献げられるほか,カルデア,マラバル,マロン,エチオピア,コプト,アルメニア,ビザンティンといった東方のさまざまな典礼様式により執り行われる聖体礼儀も重要な意味を担っている。その背景には,東方文化との対話に積極的なカトリック教会の息吹を感ずることができよう。本学院はローマにあって,神学研究を祈りの実践の場とし,隠れた形で世界平和を祈念しているという意味において,現代カトリック教会の姿勢を体現する象徴的存在と言えるかも知れない。

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地中海学会大会 トーキング要旨

人と映画と地中海世界

パネリスト:重政隆文/鈴木均/田之倉稔/司会:末永航

 毎年大会の恒例となった「トーキング」では,映像関係の学科が充実し,映画監督も輩出している大阪芸大が会場だということもあって,今回映画を取り上げることになった。

 今まで地中海学会で一度も映画を取り上げなかったのが不思議なくらい,面白いテーマではあるのだが,映画の話ほどむずかしいものもない。誰もが語りたい映画をもっているのだが,自分がみていない映画の話を聞かされるのはたいてい何ともつらいものだ。

 議論の場ではない「トーキング」ということで,今回はパネリストそれぞれのお立場から映画と地中海世界を楽しく語っていただき,参加された一人一人が好きな映画を思い起こし,地中海に思いを馳せる契機になればと考えた。お話を引き受けてくださった方々は,幸い本当に造詣の深いその分野の映画の専門家ばかりだった。

 会場ではまず,会員の映画監督,小野沢稔彦氏がこのために特に編集してくれたビデオをみた。『アルジェの戦い』『ベニスに死す』『旅芸人の記録』のいくつかの場面に,小野沢氏の撮影した地中海の風景を挿入したこの映像のおかげで,参加した方々の意識は一気に地中海世界に飛ぶことになった。

 パネリストの方々も数分のビデオを持参してくださった。『イル・ポスティーノ』冒頭の場面をビデオで紹介した後,最初に話したのは,イタリアに詳しい演劇評論家の田之倉稔氏である。

 アメリカや北ヨーロッパの映画では,地中海はあくまで明るく美しい,憧れの海であり,旅の目的地,リゾート地だ。しかし地中海の人々にとっての地中海は必ずしもそうではない。むしろどちらかといえば暗く描かれることの方が多いのではないか。そこに生きる者にとっては,地中海も時には恐ろしい海であるし,ピラデッロ原作のタヴィアーニ兄弟の作品『カオス シチリア物語』の題名のように,そこからすべてが生まれ出るカオスでもある,と氏は映画における地中海の持つ二面性を指摘した。

 大阪芸術大学から特別に参加してくださった映像論の重政隆文氏は,公開されるすべての映画を映画館で見続けているという「映画館主義者」の批評家だ。地中海世界ではなく,映画の専門家として地中海をみてもらった。

 重政氏によれば,映画というのはいわば,嘘をつく芸術である。映画に見る地中海も現実を描いたと思うべきではない。映画が描くのは結局人間しかなく,たとえ地中海にロケし,現実の海が映っていたとしても,それはあくまで背景であり,虚構でしかない。地中海岸のリミニに育ったフェリーニが,撮影所に作り上げたいかにも紛い物然とした地中海を幾度も映画に登場させていたのは,このことを象徴的に表している例ではないだろうか。

 アジア経済研究所の鈴木均氏はイランを中心とする地域研究の中で,映画の重要性に着目してきた。東地中海の映画に詳しい方として,特にお願いして東京から来ていただいた。

 キヤーロスタミーやマフマルバーフなど有力な監督の作品を中心に,近年日本も含めて国外でイラン映画の評価が高まっている。しかしこれまではイランだけを孤立したものとして考えたり,あるいは「アジア映画」の一部とすることが多かった。これからは,むしろ地中海に続くイスラム圏の文化として捉え直すことで新しい視点が得られるかもしれないという。

 イラン革命以降の政治的状況が映画にも,人々の暮らしにもさまざまな困難を強いてきた。このことがかえってイランの映画を活気づかせてきた側面がある。虚実をないまぜにしたような魅力的な手法が生まれたのもこうした背景があったからだった。

 鈴木氏は日本ではなかなかみることのできない貴重なビデオをみせてくださったが,その中で上映が禁止され決してみることのできない映画について,制作にかかわった人々が語っている映像も紹介された。みることではなく,それについて語られることで,たしかにイラン社会の中に存在している映画−−映画とは何かを考えるとき何とも示唆に富む例ではないだろうか。

 終了後の休憩時間には小野沢氏の計らいで,若いオマー・シャリフが出演しているユーセフ・シャヒーン監督の45年前のエジプト映画も一部上映し,エジプトに詳しい参加者から賛嘆の声が上がった。

 あまりに時間が短く,司会の不手際もあって十分に話し合うことはできなかったが,この夜の懇親会で熱心に映画を語る方が多かったことを思うと,大会の行事として一応の役割は果たせたのではないだろうか。

               (司会 末永航 記)

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建築における調和としての「デコールム」

−−アルベルティの「コンキンニタス」の解釈−−

飛ヶ谷潤一郎

 イタリア・ルネサンスを代表する万能人アルベルティの建築には,古代ローマの記念門のモティーフを教会堂のファサードに適用したリミニのテンピオ・マラテスティアーノ,コロッセウムに見られるオーダーの重ね合わせを引用したフィレンツェのパラッツォ・ルチェッライ,ギリシア十字平面を採用したマントヴァのサン・セバスティアーノ聖堂など,どの作品についても彼の独創性が表れている。彼が新たな実験を試みる当時の前衛建築家であったことは疑いないだろう。

 だが,アルベルティは設計と施工を分離した最初の建築家といわれているように,現場監督は他の建築家に任された。そのためか,彼の作品は,製図室でできあがった図面や模型を一分の一のスケールにしたような印象を与える。さらに工事が中断してしまったものや,未完のまま改築されたものもあり,今日のわれわれにはかなり奇妙に見えるものも多いのではないだろうか。それらの作品にはいくつかの復元案が提案されているものの,どの程度まで正しいのかを決定することは難しい。少なくとも遺構とそれらの復元案から判断する限り,彼の作品は当時の人々にも奇妙なものに思われたに違いない。事実,彼のパトロンであるフランチェスコ・ゴンザーガには,サン・セバスティアーノ聖堂はモスクかシナゴーグのように見えたという。しかし,アルベルティの『建築論』は,フィラレーテのそれや『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』などに比べるとはるかに高く評価されており,実際に荒唐無稽と思われる記述は見当たらない。

 さて,彼の『絵画論』には美的概念として,形式と内容の一致を意味する「デコールムdecorum」という語が しばしば見受けられる。この語 は「適正」や「ふさわ しさ」などと訳すことができ,古代の詩論や修辞学を典拠とする。なおウィトルウィウスの『建築書』では,同じ意味を示す「デコル」という語が用いられている。ところが,なぜかアルベルティの『建築論』にはこれらの語はあまり登場しない。ただし,デコールム(デコル)という語はいろいろな意味に解釈が可能であり,『建築論』では「コンキンニタスconcinnitas」という語がこ れらの語におお むね対応すると考えられる。この語は 「調和」と訳すことができるが,デコールムと同様に広い意味をもつと考えられ,後の時代にはさまざまな解釈がされた。ブラマンテによるミラノ大聖堂のティブーリオ(聖堂の交差部にそびえる塔)に関する意見書では「コンフォルミタconformita」,パラーディオの『建築四書』では「コリスポンデンツァcorrispondenza」に相当すると思われ,それぞれ「一致」,「対応」などと訳すことができる。後者についての説明は省略するが,前者についてはブラマンテが既存のゴシックの大聖堂に調和した設計を提案していると解釈できる。確かにブラマンテは,「破壊業者」というあだ名がつけられたように,旧サン・ピエトロ大聖堂を破壊したことで有名である。けれども,敷地の限られたミラノの中心部に位置するサンタ・マリア・プレッソ・サン・サーティロ聖堂の内陣や,傾斜地を活かしたヴァティカン宮殿のベルヴェデーレの中庭に見られるように,テッスート・ウルバーノ(都市の文脈)との調和を重視していたことも見逃せない。

 アルベルティの話に戻ると,フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のファサードは,一階に見られる既存のロマネスクとゴシックの部分を一部残しながら,全体としては同地のサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂を手本にしている。その上で,彼は側廊上部のスクロールや,横に連続した広いフリーズ,コリント式オーダーと付柱を用いた半円アーチの中央入口などに,古代ローマあるいはルネサンスの手法を採用している。また,ウェルギリウスの故郷であり,エトルリアからの歴史をもつといわれているマントヴァでは,サンタンドレア聖堂においてエトルリア神殿の復元が試みられた。残念ながら,ウィトルウィウスの『建築書』におけるエトルリア神殿の記述は,アルベルティには正しく理解できなかった。というのも,当時はウィトルウィウスの記述に一致するそれと思しき建物は発見されておらず,彼はマクセンティウスのバシリカをそれと誤解したからである。ともあれ,建築に関するアルベルティのコンキンニタスという概念は,既存の建物との調和,あるいは都市の歴史や伝統との調和と解釈できるのではないだろうか。

 建築の分野では19世紀に至るまで受け継がれてきたデコールムという概念は,多様な解釈が可能であり,「調和」と解釈するにしてもまたあいまいである。結局,建築は場所によって何らかの性格が決定されるにせよ,無限の解答が可能であり,最終的な姿は建築家や施主によって形作られる。無論,英雄伝のごとき巨匠やパトロンの賞賛は否定するにしても,伝統的建造物の保存や,建築設計における都市の歴史や伝統などが重視されるようになった今日,当時の前衛建築家でありながらもデコールムを尊重したアルベルティやブラマンテを研究することは,重要な意義をもつのではないだろうか。

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都市広場の様相

 −−人のための屋外空間−−

  鶴田 佳子

 都市広場は町の中心に位置し,行政,宗教,商業,文化,交通など様々な都市機能を担う重要なオープンスペースである。歴史を遡れば,この空間で祭,裁判,処刑,宗教儀式,革命など様々な事象が繰り広げられ,町の歴史を刻んできたことがわかる。現在でも祭,露天市をはじめコンサートや映画上映,闘牛などが開催され,非日常的な晴れの場として機能している。広場に面して歴史的建造物があり,市庁舎や教会,商業施設など生活に欠かせない都市施設が並ぶ。当然,建築物のファサードや敷石など空間のしつらえも他の街路空間よりも豊かになる場合が多く,晴れの行為に相応しい場であるといえよう。一方,日常的な空間,「晴れ」に対する「褻(け)」の場としても機能している。広場内にベンチや泉,カフェが配置され,そこで集い語らう光景を目にすれば一目瞭然である。各広場の起源を辿ると,前者のような晴れの事象や町の威厳を示すためにつくられたもの,交通の要衝に位置する空間が広がりを持ち商業取引の場として成立したもの等様々である。そして現在の姿を追うと,同一広場で晴れと褻の行為が時と場合によって使い分けられ,更に幅広く活用されていることがうかがわれる。

 さて実際に広場を訪れた際,晴れの場としてのシーンに出くわすことは数少ない。勿論,事前に情報が入手できていれば別である。殆どは褻の場としての日常の一場面に出会う。ここで幾つか広場の様相を紹介したい。

 まずはイタリア。映画「ニュー・シネマ・パラダイス」をご存じだろうか。この中で時の流れを表現する舞台として広場は見事に機能している。勿論,この話の中心はタイトルから想像がつくように映画館であり,主役は映画をこよなく愛する男性の話である。舞台はシチリアの田舎町。この町の中心に広場があり,その広場に面して映画館が建つ。主人公が少年だった頃,広場中央の泉では家畜が水を飲むのどかな光景があり映画館は万人の娯楽施設として賑わいを見せる。時が流れ,主人公が青年になるとバスが広場の真ん中に停車する閑散とした場面に展開。そしてその後広場は駐車場となる。広場を行き交う人,交通手段の変化で時代を現し,まさに広場はその町の顔として歴史を物語っている。そして,実際にその舞台となった広場の今の姿というのはどうなっているのだろうか。映画館以外はセットではなく,そのまま実在する。ある真夏の昼下がりに広場を訪れたが,教会前で立ち話をする人々,カフェでくつろぐ人の姿など憩いの空間として機能していた。映画では映画館が一角に建てられたため広場の形が変えられ,カフェの位置が移動したりと多少映画と現実の空間とは違いがあったものの,広場に面して役場,教会,店舗が並び町のセンターとして人々が集い語らう様子は映画内ののどかな雰囲気(主人公が少年だった頃)に通じるものを感じた。それは主役(トト)の少年時代を演じた青年に偶然にも出会えたことにより一層強くそう感じたのかもしれない。

 さて,このような魅力的な広場,人のための屋外空間はイタリアに限らずヨーロッパ各地で見られる。地中海沿岸地域に着目するならばキリスト教文化圏は勿論のことモロッコやトルコなどのイスラーム文化圏でも歴史的背景や形態は異なるが,人のための空間として活気溢れる広場を見ることができる。例えばモロッコの古都マラケシュのジャマア・エルフナ広場。城壁に囲まれた旧市街の中心に位置し,スーク(商業エリア)のゲート的役割を果たす巨大なオープンスペースになっている。店舗,ホテル,モスク,郵便局などが周辺に建ち,広場内部には屋台が並ぶ。そしてなんと言ってもこの広場の魅力は時間毎にその様相が変化することである。朝オレンジジュース売りの屋台が列を連ね,日が高くなると大道芸人の姿が現れる。日が落ちれば白い煙の立ちこめる飲食街に変化する。これらに惹きつけられ多くの人が集まってくるのである。また,トルコに於いても広場空間は存在する。例えばモスクを中心とするキュリイェ(複合施設)に隣接,あるいは内包されて存在するものや商業エリアと一体化しているもの,定期市の立つ空間等,必ずしも歴史のあるものばかりではないが,多くの人を呼ぶ屋外空間としては,今までに述べてきた広場と同じ役割を担っている。つい最近の惨事,8月17日に起きたトルコ大地震では,イスタンブル新市街の中心,タクシム広場に多くの人が避難したという。広場は高台に位置し,公園も隣接,開けた空間になっており安全であろうという理由からと考えられるが,そこはただのオープンスペースではなく情報のある場だということも人が集まった要因なのではなかろうか。いずれにしてもイスタンブル中心部は大きな被害を受けることなく,数日間広場で夜を明かした一部の人々もそれぞれの住宅に戻り,広場はすぐに平常通りの姿に落ち着いたのであった。

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クレタ島,いまむかし

高田京比子

 今年のゴールデンウィークに念願のクレタ島を訪れる機会を得た。「念願の」といったのは,ここが東地中海に勢力を誇った中世ヴェネツィアの重要な植民地だったからである。実際,その中心地カンディア(現イラクリオン)は,シリア行商船団とアレクサンドリア行商船団の分岐点であると同時に,対オスマン・トルコの軍事拠点であった。立派な城塞,港での活発な商取引,当時の史料は活気にあふれた街の様子を伝えている。

 そもそも,この島の支配権をヴェネツィアが得たのは,ラテン帝国成立後の1204年である。しかし,当時ここに地歩を固めていたジェノヴァ海賊の駆逐に10年かかったほか,現地のギリシア人貴族の反乱も絶えず,支配は容易ではなかった。ヴェネツィアは軍事義務を負った移住者を再三派遣することで,13世紀末ようやく安定を勝ち取る。1211年に180 人,1222年に約70人,1233年に9人,1252年に52人と,全部で300人以上のヴェネツィア 人が派遣された。当時のヴェネツィア議会の人数がだいたい450人前後であったから,か なりの人的資源が注ぎ込まれたと言えよう。やがてクレタ総督を筆頭に書記官や会計官などの行政機構も整い,カンディアには本国を模した議会が作られる。レティモ(現レシムノン)やカネア(現ハニア)にもレクトールと呼ばれる行政官が置かれた。1363年にはクレタ在住ヴェネツィア人の反乱などもあったが,その鎮圧後は本国との連絡も密になる。こうしてクレタは,1669年トルコに占領されるまで,東地中海におけるヴェネツィアの重要拠点たりつづけた。

 −−以上が,訪問前の私がクレタに対して抱いていたイメージのほぼすべてである。もちろん,有名なクノッソス宮殿にも興味はあった。が,私の思い描くクレタは,あくまでも「ヴェネツィア領」だったのである。

 しかし,実際イラクリオンに到着してみると,そのような私の「ヴェネツィア幻想」は一度に吹き飛んでしまった。まずイタリアからイラクリオンへの直行便がないということに,「何か違う」という予感はあった。仕方なくアテネ経由で入ったが,出迎えてくれたのは街中に並ぶギリシア語と英語の看板。古い街並みはほとんど残っていず,無味乾燥なアパートや埃っぽい道路が目に付く。観光客もたくさんいたが,イタリア語はほとんど聞こえてこない。「歴史博物館」を訪ねてみれば,展示物の多くはビザンツ時代の壁画やトルコ時代の民芸品である。今から思えば当たり前のことなのではあるが,「ああ,クレタはギリシアなのだ」と実感した。

 ただ,全くヴェネツィアの面影がないわけでもない。港に突き出たヴェネツィア時代の城塞はきれいに修復され見学できるようになっていた。ヴェネツィアのシンボル,サン・マルコの獅子が城塞の中程から海を見つめている。造船所の跡も少しではあるが残っていて,昔日の栄光が偲ばれた。また,バスでレシムノンに行ったが,ここはイラクリオンよりずっと良い。ヴェネツィア的な雰囲気を残す小さな落ちついた町で,旧市街のバルコニー,窓,路地裏などは,なかなか趣があるし,城塞跡はのどかな公園となっている。青い海と白い町並みの美しい風景を見おろしながら,「クレタに来て良かった」と思った。ハニアまで足を伸ばす余裕はなかったが,ここはもっと「イタリア的な街」らしい。

 というわけで,当初求めていた「ヴェネツィアの面影」は余り得られなかったが,反対にクレタとヴェネツィアの風土の違いを肌で実感できたことは,やはり良かった。まず,まだ5月というのに北中部イタリアとは比べ物にならないような暑さと湿気。空はからりと晴れて目映い太陽が肌をじりじり照りつけ,海から湿気を含んだ暖かい風が吹いてくる。15世紀の聖地巡礼記では,クレタ島とそう緯度の変わらないキュプロス島で暑さのため巡礼が病気になる,或いは死亡するという記述がよく見られるが,それも当然だと思った。クレタ自体はそれ程危険はなかったようだが,それでもあるフィレンツェ人巡礼は「火のついた窯の中にいるようだ」と評している。レシムノンへの途上に広がる風景も,ごつごつした岩肌や背の低い木,山がちな地形のすぐ向こうに広がる青い海,南国らしい鮮やかな色の花など,全く別世界であった。

 クレタについては,研究書や史料などでいくらか親しんだつもりであった。が,ヴェネツィアしか知らないでクレタに思いを馳せるのと,実際この目で見るのとはずいぶん違う。気候や風土の違いの他に,今回改めて実感したのは「クレタは広い」ということであった。イラクリオンの街だけでも,ヴェネツィアとそう変わらないのではないだろうか。本国の何倍もの土地を前にした中世ヴェネツィア人たちは,いったいどう思ったのだろう。植民団を派遣したのも,クレタ在住のヴェネツィア人たちが自分たちの利害を無視する本国に対して反乱を起こしたのも,何となく納得できるような気がした。ヴェネツィアの面影は薄かったが,かえって植民地を巡る様々な出来事がよくわかるようになったかもしれない。−−わずか2日(3泊)だが,そんな訪問であった。

 

 

 

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春期連続講演会「地中海:異文化の出会い」講演要旨

中世シチリアの異文化交流

高山  博

 中世シチリア王国で生じていたダイナミックな異文化接触は,その時代に建てられた建物やその内部を飾るモザイク画,彫刻に深い刻印を残している。パレルモ市内に見られる赤い丸屋根を載せた四角いモスク風建築物は,傍らに植えられた棕櫚の木と共に,強い異国情緒を醸し出している。ノルマン王宮の「ロゲリウスの間」の狩猟をテーマとしたモザイク画は,黄金色を背景に緑鮮やかな木々や人物像,動物像を描いているが,砂漠の楽園オアシスのイメージを喚起するイスラム風のモチーフをビザンツ様式のモザイク画で表現したものだ。同じノルマン王宮内のカッペッラ・パラティナ(王宮礼拝堂)のモザイク画は,ビザンツ様式ながらまったく別の主題をもっている。礼拝堂の壁面全体が金色に輝き,その金色のなかに緑や青で描かれた聖人や聖書の場面が浮かび上がっている。これはキリスト教の宗教画なのだ。しかし,天井はアラブ様式で作られている。さらに,旧市街の真ん中にあるラ・マルトラーナ教会の天井にも,金色を基調としたビザンツ風モザイク画で,キリストと四人の天使が描かれている。そして,そこにはビザンツ帝国の賛美歌が本来のギリシア文字ではなく,アラビア文字で記されている。このように,一つの建物やモザイク画の中に異なる文化が交じり合っているのである。

 シチリア王国の歴代のノルマン王たちは学問や芸術に関する造詣が深く,医者や占星術師,哲学者,地理学者,数学者などの優れた学者たちを王宮に集めていた。初代の王ロゲリウス二世は,数学,政治学に関する幅広い知識と自然科学に対する強い関心を持ち,アラブ人学者やギリシア人学者たちと議論するのを楽しみにしていたという。また,三代目の王ウィレルムス二世は,医者や占星術師を大切に保護し,王国を通りかかった異国の医者や占星術師には,巨額の生活費をあてがって引き留めようとしていたと言われている。ロゲリウス二世が厚遇した著名な学者たちの中には,アラブ人地理学者イドリーシーやギリシア人神学者ネイロス・ドクソパトレースがいる。中世の南イタリアは,西欧の知識人にとってはアラビア語,ギリシア語文献を研究する前線基地の一つであった。11世紀から12世紀にかけて,当時の西欧世界を代表する知識人の多くが南イタリアを訪れ,そこで得た情報や知識をフランスやイギリスに持ち帰っていった。そして,「12世紀ルネサンス」と呼ばれるヨーロッパの大文化活動を引き起こすことになった。

 学者にかぎらず,パレルモの宮廷には多くの異邦人,多くの異教徒が集まっていた。王の周りにいる異邦人として第一に挙げるべきは王妃たちである。歴代の王妃のすべては,異郷の地で生まれ育った者たちであった。彼らは,スペインのカスティリアやナバーラの王女であり,イングランド王女であり,フランスのブルゴーニュ公やレテル伯の娘であった。異国から来た王妃たちは,ウィレルムス一世死後摂政となったマルガリータのように,しばしば国政に大きな影響を与えている。

 パレルモの王宮では,王を世話するために多くの人々が雇われていたが,その大部分はアラブ・イスラム文化の中で育ったアラブ人であった。イブン・ジュバイルによれば,ウィレルムス二世は,このアラブ人たちを深く信頼し,身辺の業務や重要な事柄すべてを彼らに任せていたという。料理長もイスラム教徒であり,イスラム教徒黒人奴隷からなる軍団も抱えていた。王の側近く仕える宦官の小姓たち,侍女や女官のほとんどがやはりイスラム教徒であった。王宮へ連れてこられたフランク人女性たちが,王宮の侍女たちの影響を受けて,キリスト教からイスラム教へ改宗していたというエピソードも伝えられている。

 異文化接触,異文化交流は,宮廷に限定されていたわけではない。王国そのものが,異なる文化的要素の集合体であったし,王国統治のシステムも異なる文化に属する人々により支えられていた。王国の国政を担い,国王に次ぐ権威と権力を保持していた宰相のほとんどは異国出身である。ロゲリウス二世の宰相はシリアのアンティオキア生まれのギリシア人,ウィレルムス二世未成年期の二人の宰相はジェルバ島生まれのアラブ人宦官とフランス人である。王国国政の実権を握った四人の宰相のうち三人までもが異国生まれであり,南イタリア出身者は一人にすぎない。宰相が置かれていない時には,王国の国政は王国最高顧問団により運営されていたが,この王国最高顧問団の中にも多くの異邦人やアラブ文化に属する人々が含まれている。そして,王のために働く役人の中にも,異国生まれの者たちやアラブ人,ギリシア人が数多く見られる。

 現在で言えば,ニューヨークのように,その経済的・文化的繁栄に魅かれ,さまざまな文化的背景を持った人人が王国に集まってきた。残念ながら,異文化併存による繁栄は13世紀半ばまでしか続かなかった。しかし,その痕跡は現在でもシチリアのあちこちに残り,ヨーロッパでありながらもヨーロッパでない独特のエキゾチズムに魅かれ,多くの人々がこの地を訪れている。

 

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地中海学会事務局
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