地中海学会月報 221
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        1999|07  




   -目次-

学会からのお知らせ

*第23回地中海学会大会

 さる6月26日,27日(土,日)の二日間,大阪芸術大学(大阪府南河内郡河南町東山469)において 第23回地中海学会大会を開催した。会員100名,一 般33名が参加し,二日目は大会恒例とも思える集中豪雨に襲われたが,盛会のうち会期を終了した。

6月26日(土)

開会挨拶 13:15

記念講演 13:30〜14:30 「地中海を行く」 小川 国夫

授賞式 14:30〜14:45 「地中海学会ヘレンド賞」

地中海トーキング 15:15〜16:50 「人と映画と地中海世界」 

  パネリスト:重政 隆文/鈴木 均/田之倉 稔/司会:末永 航

展示解説 16:50

「ケルムスコット・プレス刊本」 薮 亨

懇親会 17:50〜19:10

6月27日(日)

研究発表 10:00〜12:00   

「ジャン= ジョルジュ・ノヴェール再考」 森 立子

「イタリア植民地政策,1880年〜1915年」 松本 佐保

「ペトラルカの聖地巡礼記について」 土居満寿美

サロン・コンサート 13:00〜13:30

「フランス古楽器ピアノ演奏:エラール・エ・プレイエル」 谷村 晃

シンポジウム 13:45〜17:00 「ポセイドンの変身:馬と地中海」  

  パネリスト:岡村 一/込田 伸夫/杉田 英明/司会:本村 凌二

 懇親会では,今年も提供されたサントリーからの飲料(ワイン,ウィスキー,ビール)と大学からの差入れも含めた盛り沢山の料理がならび,健啖家ぞろいの参加者を喜ばせた。

 二日目のサロン・コンサートではプレイエル・ヴォルフ・リヨン社(1907年製)とエラール社(1903年製)の古典ピアノを使用して,フレスコバルディ「トッカータ ト短調」,スカルラッティ「ソナタ アレグロ ト長調」,アルベニス「カタルーニャ奇想曲」等が演奏され,聴衆は大会の合間のひとときの優雅な雰囲気を楽しんだ。

 また,本大会にあわせて,同大学では図書館所蔵の「ウィリアム・モリスとケルムスコット・プレス刊本」展が開催され,参加会員に美麗なカタログが寄贈された。

 なお,来年の第24回大会は広島市の広島女学院大学で開催することになった。 目次へ

*第23回地中海学会総会

 第23回地中海学会総会(福本直之議長)は6月26日,大阪芸術大学で次の通り開催された。

議事

一、開会宣言

二、議長選出

三、1998年度事業報告

四、1998年度決算報告

五、1998年度監査報告

六、1999年度事業計画

七、1999年度予算

八、役員選出

九、閉会宣言

 審議に先立ち,議決権を有する正会員647名中(1999 年6月21日現在)610余名の出席 を得て(委任状出席を 含む),総会の定足数を満たし,本総会は成立したとの宣言が議 長より行なわれた。1998年度事業報告・決算,1999年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。役員は別項通り決定した。1998年度事業・会計は中山公男・牟田口義郎両監査委員より適正妥当と認められた。

1998年度事業報告(1998.6.1〜1999.5.31)

T 印刷物発行

1.『地中海学研究』XXII発行 1999.5.31発行

  「Preliminary Report of Excavations at Dahshur North, Egypt: 3rd Field Season, March 1998」 S.YOSHIMURA/J.KONDO/S.HASEGAWA/T.NAKAGAWA/S.NISHIMOTO/T.SAKATA/M.ETAYA

  「ピンダロス ネメア競技祝勝歌第3 1-12:詩人を装う祝勝歌の「私」」

   安西  眞

  「ポリス=市民団−−イデオロギー性の証明」 上野 愼也

  「バシレイオスと「ルネッサンス」−−神学と人文主義の関係をめぐって」

   秋山  学

  「ピエロ・デッラ・フランチェスカとヴェネツィアの祭壇画」 池上 公平

  「古代ローマの女性画家「マルティア」の誕生−−初期近世女性画家にとっての範例と揺籃期印刷本の影響」 秋山  聰

  「書評 桐敷真次郎著『ベルトッティ・スカモッツィ『アンドレア・パラーディオの建築と図面』解説』」 渡辺 真弓

2.『地中海学会月報』 211-220号発行

3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布

U 研究会,講演会

1.研究会(於上智大学)

  「9世紀初めのローマ美術−−サンタ・プラッセーデ聖堂のモザイクを中心に」

   加藤磨珠枝(1998.6.13)

  「シトー会とパッラヴィチーノ家−−北イタリア・エミリア地方におけるシトー会建   築とゴシックの受容(12〜13世紀前半)」 児嶋由枝(1998.10.24)

  「サンティアゴ巡礼路のロマネスク美術−−英雄と聖人」浅野ひとみ(1999.1.30)

  「ベネデット・ブリオーニとロッビア派のプレセピオ」金原由紀子(1999.2.20)

2.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として:於ブリヂストン美術館ホール)

  秋期連続講演会「芸術家の地中海遊歴−−15世紀から19世紀まで」11.7〜12.12

   (計6回)

  春期連続講演会「地中海:異文化の出会い」4.10〜5.22(計6回)

V 賞の授与

1.地中海学会ヘレンド賞授賞 受賞者:渡辺道治

W 日本学術会議登録申請

  1999年5月27日付登録申請 所属:第一部 研究連絡委員会:哲学

X 文献,書籍,その他の収集

1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations

2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)

Y 協賛事業等

1.『地中海世界の暦と祭』(仮題 刀水書房)編集協力

2.生涯学習センター講座『地中海:音楽と歴史の旅』(東洋英和女学院大学)協力

3.生涯学習センター講座『地中海PartII:文学の旅』(東洋英和女学院大学)協力

Z 会 議

1.常任委員会 5回開催

2.学会誌編集委員会 3回開催

3.月報編集委員会 8回開催

4.電子化委員会 3回開催

5.大会準備委員会 1回開催

[ ホームページ

  1998年10月文部省学術情報センターのネット上に開設

  URL= http//wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr

\ 大 会

  第22回大会(於慶應義塾大学三田校舎)1998.6.27〜28

] その他

1.新入会員の勧誘

2.学会活動電子化の調査・研究

3.「ピカソ展−−偉大なる天才の秘密」展覧会招待券の配布(一部)

1999年度事業計画(1999.6.1〜2000.5.31)

T 印刷物発行

1.学会誌『地中海学研究』XXIII発行 2000年5月発行予定

2.『地中海学会月報』発行 年間約10回

3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布

U 研究会,講演会

1.研究会の開催 年間約6回

2.講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として春期連続講演会開催

V 賞の授与

1.地中海学会賞

2.地中海学会ヘレンド賞

W 文献,書籍,その他の収集

X 協賛事業,その他

1.『地中海世界の暦と祭』(仮題 刀水書房)編集協力

2.東洋英和女学院大学生涯学習センター講座「地中海PartII:文学の旅」協力

Y 会 議

1.常任委員会        

2.学会誌編集委員会

3.月報編集委員会      

4.電子化委員会

5.その他

Z 大 会

  第23回大会(於大阪芸術大学)1999.6.26〜27

[ その他

1.賛助会員の勧誘

2.新入会員の勧誘

3.学会活動電子化の調査・研究

4.展覧会の招待券の配布

5.その他

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*役員

 第23回総会で新役員(再任を含む)は下記の通り決定した。

会  長 桐敷真次郎

副 会 長 片倉もと子 久保正彰

常任委員 青柳 正規 石川  清 小佐野重利 小川 正廣 片山千佳子 小池 寿子     島田  誠 清水 憲男 陣内 秀信 末永  航 鈴木  董 高山  博     武谷なおみ 長尾 重武 中山 典夫 野口 昌夫 福本 秀子 堀川  徹     本村 凌二 湯川  武 渡辺 真弓

監査委員 中山 公男 牟田口義郎

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*論文募集

 『地中海学研究』XXIII(2000)の論文および書 評を下記の通り募集します。

 論文 四百字詰め原稿用紙50〜80枚程度

 書評 四百字詰め原稿用紙10〜20枚程度

 締切 11月22日(月)

 本誌は査読制度をとっております。

 投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡ください。「執筆要項」をお送りします。

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*『ケルムスコット・プレス刊本』カタログ 

 大阪芸術大学図書館所蔵品展『ウィリアム・モリスとケルムスコット・プレス刊本』のカタログを希望する方は送料として切手240円分を添えて,事務局 へお申し込みください。(先着順20名まで)

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春期連続講演会「地中海:異文化の出会い」講演要旨

   港のなかの異文化

        深沢 克己

 地中海が異文化接触の十字路であることは,あらためて強調するにはおよばない常識に属する。しかし忘れてならない点は,この十字路がするどい対照と緊張した衝突をふくむ出会いの場であるという事実だろう。バルト海と北海からカリブ海をへて日本海と東・南シナ海にいたるまで,大陸や島々に囲まれた内海はたくさんあるが,それらの多くははやくから共通の文明圏を形成するか,または文明の辺境地帯に位置していた。これに対して地中海の歴史は,東方と西方,アフリカとヨーロッパ,砂漠と森林,遊牧と農耕,イスラームとキリスト教,伝統社会と近代資本主義などの対照的諸文化がつくりだす弁証法のうえに成立する。地中海のもつすべての魅力ときびしさは,その風景のかわいた明るさと同様に,この対照的性格に由来する。

 ところで異文化は,具体的にどこで接触するのか。近代的な交通・通信・情報手段が発達する以前には,その大部分は港をつうじて実現された。それゆえ他者との出会い,異文化交流の拠点としての港の役割は決定的であり,その文明史上の意義は大きい。はげしい内部的対照性にもかかわらず,地中海世界がある種の文化的統一をたもった理由のひとつは,無数の港湾を結びつける交易ネットワークの濃密さと持続性にある。

 もちろん港の文化形成力は,他の多くの海域でも認められ,ヨーロッパでは大西洋沿岸と北方諸海の港湾都市に固有の文化的特徴が指摘される。地中海文明の個性的性格は,これらの海域との比較をつうじてより一層明確になる。そこで地中海と大西洋の双方に出口をもつフランスを対象として,「港のなかの異文化」を例示的に観察しながら,港湾都市の共通点と差異について考えてみよう。時代は近代(およそ17〜19世紀)を中心とし,大西洋沿岸の港町ラ・ロシェルとボルドー,および地中海港マルセイユをおもな観測地点とする。

 はやくも中世後期に,バルト海からビスケ湾にいたる海域には共通の文化様式があらわれた。その可視的要素のひとつは建築であり,たとえば階段状の切妻壁をもつ高層家屋は,ネーデルラントを中心にバルト海沿岸,ラインラント諸都市,北フランスの一部に分布している。この様式は,ネーデルラントとの交易がさかんだったフランス大西洋沿岸にも導入されただろうか。近世ラ・ロシェルの住居建築を観察すると,「オランダ風」建築の直接の導入は認められないとしても,煉瓦と石との素材のちがい,また街路に対する屋根の方向のちがいをこえて,幅の狭い高層家屋や屋根窓を頂点とする山形の正面部など,いくつかの興味深い類似性が見いだされる。しかもオランダ風建築の実例はもっと南のボルドーにも見られ,さらにスペイン国境に近い港サン=ジャン・ド・リュズ(シブール)に は,作曲家モリス・ラヴェルの生家として知られる正真正銘のオランダ風家屋が残存している。これらの事例は,かつてこの地域でオランダ人が果たした文化的・経済的役割を控えめに暗示する。

 建築様式を別にすれば,外国人居住の痕跡は大西洋沿岸の各地に見いだされる。とくにボルドーでは,旧市壁の外部にシャルトロン地区と呼ばれる文字どおりの外国商人街が形成された。オランダ人・ドイツ人・アイルランド人などが集住したこの城外区は,都市計画のない自然発生的な集落でありながら,整然とした美しい町並みをつくりあげ,今日でもボルドー旧市街とは異なる雰囲気をとどめている。他方でポルトガル系ユダヤ商人は旧市街内部に居住し,たとえば18世紀の大貿易商グラディスは,威圧的なほど立派な住宅を構えている。

 このようにボルドーでは17〜18世紀にさかのぼる外国人住宅が数多く知られているが,これに対してマルセイユでは,この分野の研究が不充分なこともあり,外国人居住の痕跡はあまり多くない。マルセイユは「東方の門戸」と呼ばれる地中海の国際都市であるが,歴史的には排外的性格をも示し,その商業会議所は18世紀末まで東方商人を貿易から排除していた。またスイス人・ドイツ人・オランダ人の数は比較的多かったが,特定の街区に集住する現象は見られない。マルセイユが真に「民族の坩堝」になるのは19世紀以降であり,1822年にはギリシア・カトリック教会,1864年には壮麗なシナゴーグが建設され,異国風の様式を今日に伝える。近年の研究は,20世紀前半の旧市街「パニエ」におけるコルシカ系移民の集住社会の構造を分析し,また現在の景観は,マグリブ系移民の居住区の膨張と収縮を表現する。総じてボルドーでは分節化された相互的・持続的共存が,マルセイユでは混濁した競合的・流動的共存が見られるようであり,あるいはここに「異文化の出会い」の二つの歴史的形態が認められるかもしれない。

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春期連続講演会「地中海:異文化の出会い」講演要旨

ガウディ:エジプトとの出会い

鳥居 徳敏

 一般に知られているガウディ(1852〜1926)建築とは,グエル公園(1900〜14),カサ・バトリョ(1904〜06),カサ・ミラ(1906〜10)等で代表される自然主義造形の作品群であろう。しかし,この系列以外にもう一つの極めてユニークな作品群が存在する。それはサグラダ・ファミリア聖堂(1882年着工),タンジール計画案(1892〜93),コローニア・グエル教会堂(1898〜1908〜14,未完),及びニューヨーク大ホテル計画案(1908)で代表され,いずれも未着工,未完成という不運な共通性を持つ。

 「パラボラ形塔群造形」。これが上記作品群の最大特色であり,サグラダ・ファミリア聖堂の場合,この造形に達するのは1906年に初公表された完成予想図であった。したがって,タンジール計画案が同系列最初の作品となり,これからサグラダ・ファミリアの最終案が派生したことはガウディ自身により説明され,逆吊り実験で有名なコローニア・グエル教会堂の大胆な構造デザインも同じくタンジール計画案を発展させたものだと1908年出版の百科事典は解説する。この解説も諸状況からガウディ自身の説明に負うものと判断される。そして,ニューヨーク大ホテル計画案もタンジール計画案から派生していることは容易に推測できようから,すべてが後者計画案に由来することになろう。

 建築史上類例を見ないほどユニークな塔群造形,かつ歴史様式の痕跡を払拭し,1890年代初めに想定し難い純幾何学造形のタンジール計画案。これほど独創的な作品でありながら,この計画案に関する研究はほとんどなされなかった。この状況下で同計画案を「ガウディ作品のなかでサグラダ・ファミリアに継ぎ最も広範に論述された作品に転じさせた」(J.モレマ)のが拙著El mundo enigmatico de Gaudi(Madrid 1983)であり,この研究 書での仮説の一つが,ガウディはアリ・ベイ著『アジア・アフリカ旅行記 1803〜07』の図版「多数の鳩舎塔を持つ村」をタンジール計画案の出発点とした,とするものであった。カイロ近くのこの村との遭遇が上記作品群誕生の契機になったのであり,建築史上ユニークな塔群造形の基礎には異文化圏エジプトとの出会いがあったと論者は考えるのである。

 しかし,この国との出会いはガウディにとって2度目であった。近代スペインはイスラムとの共生が8世紀続いた中世を基盤とし,多くの側面で同文化を継承する。建築分野ではアルハンブラという最高傑作を持ち,ガウディもこの作品に傾倒した。このことを含み,ガウディは東方イスラムに親近感を抱いたに違いなく,そこから多彩色の外装タイル手法を学び,同じイスラム圏カイロのミナレット造形をキハーノ邸(1883〜85)の円塔に引用したと考えられる。

 下エジプトの鳩舎塔とは日乾しレンガで作られた塔状の鳩小屋を指し,アリ・ベイはそれをパラボラ断面の塔群で描き,各塔の形状を「パラボラ形クーポラ」と規定した。ガウディが当時参考にできた建築書などを調べると,鳩舎塔の群造形に様々なヴァリエーションがあり,コローニア・グエル教会堂やニューヨーク大ホテル計画案に類似するものまで見出せる。紀元前3000年にも遡る下エジプトの鳩舎塔は様式化する以前の田舎のミナレットに似るのみならず,大小二重の円塔よりなるペルシャの鳩舎塔はミナレット構造そのものであり,方形平面にすれば,ヒラルダの塔で代表されるスペイン・イスラムのミナレットになり,同時にスペインではキリスト教会鐘塔の雛型にもなった。これはガウディによる鳩舎塔から鐘塔への変換にも一致するのである。

 鳩が三位一体の「聖霊」を象徴することから,「神の家」であるキリスト教聖堂は鳩小屋にも比喩される。またタンジール計画案は平和を伝導するミッションの本部機能を含み,キリスト教では鳩はまた「平和の使者」を象徴するから,鳩小屋起源の同計画案は「平和の使者」たちの住まいを象徴できた。さらに十字架上の12羽の鳩は12使徒を象徴し,十字架上の鳩は「神の家」である聖都が素朴な人々に開かれたことを意味した。したがって,十字架平面の上に鳩舎塔群が配置されたタンジール計画案は聖都「新エルサレム」を象徴していることが判明しよう。聖都の御座の回りに24人の長老が座していたように,この計画案でも中央大塔の周囲に24塔が配されている事実も上記仮説の傍証となろう。「鳩」をキーワードとするシンボリズムはそのままサグラダ・ファミリア聖堂に当てはまり,同聖堂は「鳩舎塔の聖アンドレア」という地に,コローニア・グエル教会堂も「セルベリョーの聖鳩」という町に建立されているのである。

 ガウディにとってエジプトは異文化の国ではなく,地中海文化とイスラム文化の二重の意味で同じ文化圏の国と感じていたに違いない。それ故,ガウディの地中海主義の基礎になった地域名の一つには必ずエジプトが含まれていた。地中海には多様な文化が交錯・共存し,これら多様な文化を基盤にしたからこそ,豊かなガウディ建築が出現したのであろう。

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春期連続講演会「地中海:異文化の出会い」講演要旨

 

ヴェネツィア:極東との出会い

石井 元章

 ヴェネツィアはヨーロッパで最も東方に開かれた町の一つである。古くはこの町出身のマルコ・ポーロが我が国の存在を初めてヨーロッパに伝え,天正・慶長の二つの遣欧使節はヴェネツィアに立ち寄って国賓級の接待を受けた。

 しかし,両国の本格的な付合いが明治時代に始まることは言うまでもない。明治政府は美術の模範を同国に求め,東京に工部美術学校を設けたが,これより先1873年3月に行政機構である日本総領事館が,当時日本に駐箚していたイタリア公使アレッサンドロ・フェー・ドスティアーニ伯爵の忠告に基づき,ヴェネツィアに置かれたの。次いで5月に岩倉具視を主席大使とする使節団がイタリアを訪れた際,大使は,後にヴェネツィア駐箚日本名誉領事となるグリエルモ・ベルシェーに天正・慶長遣欧使節の調査を依頼した。また岩倉使節団をオーストリアに送り出した後も母国に残ったフェー・ドスティアーニ伯爵は,ヴェネツィアが東方貿易の覇権回復のために開いた商業高等学校に日本語講座を設けることを提案し,それが10月末の教授会で決定された。同講座はその後日本人留学生の拠り所として機能することになる。前述の工部美術学校は工部卿伊藤博文の建言に基づいて開設されたものであるが,伊藤がフェー・ドスティアーニ伯爵に忠告を求め,またこの二人が共に岩倉使節団に加わっていたことを考え合わせると,工部美術学校開設のきっかけもやはり1873年にあったと考えることができるであろう。

 一方,16,17世紀の使節に関する調査研究を1877年『日本使節考』にまとめた後,ヴェネツィア随一の日本学者(ヤマトロゴ)として知名度を高めていたベルシェーは,1880年名誉領事に任命される。翌1881年彼の発案から明治政府は第3回万国地理会議に参加し,大森貝塚の発見を初めて海外に知らしめる機会を得る。

 ヴェネツィア商業学校日本語講座の第1代教師は,東京のイタリア公使館でフェー・ドスティアーニ伯爵の公式通訳をしていた吉田要作であったが,彼が帰国するとその職は,商業学校領事科の学生緒方惟直に引き継がれた。しかし,壊血病を患った彼はヴェネツィア人の妻が娘を産むとすぐに,知人達に惜しまれながら世を去る。緒方の跡を襲ったのは画家の川村清雄であった。王立美術学校で単科の授業を受講していた彼は,学校内で表彰を受けたほか新しい日本語教育法に関して文章を著した。一方,川村に代って第4代教師となった彫刻家長沼守敬は,美術学校において通常6年かかる課程を4年間で修了し,教授達からも高い評価を得ていた。留学生活の総括として1887年の内国美術博覧会に《リド島にて》と題する石膏像を出品し,その評価はベルシェーによって日本にも伝えられたのである。

 19世紀に行われた日伊両国間の文化交流の掉尾を飾る出来事は,1897年の第2回ビエンナーレに日本が参加したことであろう。イタリアでは,パリのジャポニザン,エドモン・ド・ゴンクールの信奉者であったヴィットーリオ・ピーカが,フランスのジャポニスム批評を経由して日本美術を紹介していたが,こういった日本美術への興味を基盤としてヴェネツィア側は明治政府にビエンナーレへの参加を呼びかけた。しかしそこには,二つの異なる文化的要請が生み出した衝突が見て取れる。すなわち,外貨獲得のために工芸品輸出を主眼とした明治政府の経済優先策と,同時代の純正美術展示をめざしたヴェネツィア側の間に軋轢が生まれたのである。日本側の独断によって送り込まれた数多くの「器物」が,本来純正美術と位置づけられるべき絵画をも含めた日本美術を,ヴェネツィア側に応用美術と認めさせる基盤を作ってしまったことは,その最たるものである。また第二に,押絵,刺繍と絵画を共に指す「Gaku」という新概念が生み出されたことをあげることができる。これは,欧米人の印象を改善するため1882年の内国絵画共進会以来明治政府が強要するようになった額装の存在という物理的要因を否定できないにしても,その理論的背景に,日本美術には純正・応用の美術の差異が存在しないという,ジャポニスム批評の基本概念が横たわっていることも見逃せない。gakuという言葉自体は既にイギリス人医師ウィリアム・アンダーソンによって紹介されていたが,それはあくまでも床の間の掛け物に対応する概念であり,日本でも工芸品と考えられていた押絵などを絵筆で描いた絵画と同列に論じるこの「Gaku」は,謂わば,ビエンナーレのみで用いられた混成概念であるといえよう。

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地中海学会大会 研究発表要旨

ジャン=ジョルジュ・ノヴェール再考

森  立子

 本発表は,ジャン=ジョルジュ・ノヴェール(Jean-Georges NOVERR, 1727〜1810)の舞踊論を,彼の著作『舞踊とバレについての手紙』(初版1760,以下『手紙』と略記)を手がかりに再検討すること,そしてさらに,当時における『手紙』の受容について,『手紙』の内容と関連づけながら考察することを目的とする。

 西洋舞踊史において,ノヴェールの『手紙』は「今日のバレエの原型を提示した」書として言及されることが多い。確かに,この書の中でノヴェールは,一貫した話の筋を持つ,身体表現と音楽のみによって展開される舞踊劇(=「バレ・ダクション」)を舞踊芸術の一つの理想形態とし,これを提唱している。その意味では,従来の理解も大筋において正しいとは言える。

 だが,こういった『手紙』の位置づけは,『手紙』の中で展開される議論をあまりに単純化してしまうものでもある。従来の『手紙』の理解においては,この書の中で提示されるノヴェールの理念だけがとりわけ重要視され,それ以外の部分(特に,具体的な現状批判の部分)が等閑に付されてきた。しかし,これまでほとんど検討されてきていないこれらの部分にこそ,ノヴェールの『手紙』執筆の出発点があるとも言えるのであり,その意味で,従来の『手紙』の理解は決して十分なものではないと考えられる。加えて,いくつかの点においては,そもそもノヴェールの議論そのものが正確に把握されていないようにも思われる。

 以上のような問題意識から,本発表ではノヴェールの舞踊論の全体像を把握すべく,『手紙』の内容を再検討していくことを試みる。その際,「バレ・ダクション」という概念――それはノヴェールの舞踊芸術観を集約する概念でもある――を例にとり,これをめぐる議論を整理し,検討していくこととする。時に「物語バレ」などと訳されることもある「バレ・ダクション」の概念は,従来,主に,話の筋と表現媒体という二つの要素によって規定されるものと捉えられてきたが,少なくとも『手紙』の中でノヴェールは,より具体的にこれを規定しようとしていることが明らかになってくる。

 ここでのノヴェールの出発点は,次のような現状認識である。彼は,「今日,バレの中で扱われる主題の多くは無意味で,いくつかの場面を雑然とまとめたようなものでしかない」とし,また「人々はただ踊りのために踊っており,脚の動きや高い跳躍がすべてだと考えている」と述べる。さらに彼は,「不幸にも自尊心なるものにより,芸術家たちは,互いに知り合ったり相談し合ったりすることなく,むしろうまく互いを避け合おうとするのである」とし,台本作家と作曲家,振付家,舞台装置家の間の相互関係の不在についても指摘する。

 こういった状況をふまえた上で,ノヴェールは舞踊芸術のあるべき姿についてさらに議論を展開していく。彼はまず,「導入部,山場,大団円を備えた主題」がバレに必要であるとし,@バレにおける「一貫した主題」の重要性を主張する。ただし,ここで彼が,「バレは,場所,時間,筋立ての統一という[三単一の]原則に縛られていないという点において,悲劇や喜劇とは異なっている」と述べていることには注意しておかなければな

らない(演劇から独立したジャンルとしての舞踊)。一方で彼は,「さまざまな情念を,微妙に色合いを変化させながら舞台上で描き出してみせる」舞踊が求められていると説き,A「情念の表現としての舞踊」の必要性を強調する。さらにその情念の表現のために,彼は,「アウグストゥスの時代に良く知られていた,身ぶり(geste)とパントマイムの 芸術を復活させなければならない」とし,B「パントマイム」を中心に据えた舞踊表現を提唱する。また彼は,台本作家,作曲家,振付家,舞台装置家が,自らの分野にとどまらない総合的な知識を持つことを要求し,ひいては,C「バレを構成する諸要素すべてが劇の展開に奉仕することが必要である」と主張するのである。

 さて,こういった主張を含む『手紙』が,当時からすでに少なからぬ反響を呼んだことは,例えば,彼がこの書の出版の数週間後にヴュルテンベルクの宮廷でメートル・ド・バレの職を得たという事実や,ヨーロッパ各地で『手紙』が翻訳,出版されたという事実からも明らかである。しかし何故『手紙』がこれだけの反響を得ることになったのか。この問いについては今後さらに考察を進める必要がある。しかし少なくともその理由の一つとして,「ノヴェールが当時の舞台芸術界の潮流を巧みに自らの論に反映させた」という点を挙げることは出来るのではないかと考えている。

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地中海学会大会 研究発表要旨

イタリア植民地政策,1880年〜1915年

        松本 佐保

 イタリア植民地政策の歴史的研究は,近年ようやく注目されるようになった分野である。例えばエチオピア戦争(1935〜36年)における毒ガス使用の歴史的事実が最近になって史料的に証明され,イタリア植民地支配は他国のそれに比べて残虐さを欠いたと言う説は否定された。この研究は戦争責任を問う政治的議論を引き起こしたが,政治的な議論は,学術的には不毛であり,むしろ学問的研究を阻んできたと言える。こうしたことからイタリアの植民地政策の歴史は,ファシズム期が中心に扱われるのが常で,それ以前の時代を扱ったとしても,ファシズム期に至る前置きとしてであった。それだけに,ファシズム期以前の時代の植民地政策について,政治的議論や歴史的決定論を排した学術的研究が不可欠であると言えよう。

 またイタリアの対外膨張は,イギリスやフランスのそれに比べて,経済力にしても軍事力にしてもはるかに劣っていたので,あまり意味を持たなかったという考え方も,その研究を阻んできたもう一つの大きな理由であろう。しかし,植民地政策や帝国支配は,何も経済・軍事的側面だけでなく,政治的・社会的・文化的などさまざまな側面を持っていた。いま,この点についても注目するべきだと考える。

 実際,「地中海帝国」という古代ローマ時代にちなんだ考え方が,イタリア対外膨張においては重要な役割を果たし,1889年には「ダンテ・アリギエリ協会」も設立されて,イタリアの文化的優位性が唱えられ,ファシズム期以前の19世紀末から20世紀初頭にすでにこうした文化的プロパガンダが植民地政策に利用されていた。また植民地における経済活動に関しても,資本額では他のヨーロッパ諸国の商業活動や金融機関に劣っていたが,その人脈や政治力を利用して影響力を伸ばし,より効率の良い商業活動の在り方を模索した。その代表的な例が,トルコ,リビア,エジプトなどにおけるローマ銀行の活動である。ローマ銀行は,もともと教皇庁の貴族によって創立されたことから,カトリック世界と深い繋がりを持っていたが,それとともに,この銀行の頭取の兄であり,外相であったトマソ・ティットーニを通じて政界の支援を獲得し,またエジプト副王(ヘディーヴ)とも親しい関係を築いており,さらにこうした人的繋がりを利用してカトリック宣教活動や前述した「ダンテ・アリギエリ協会」の対外活動を後押しし,「イタリア王立地理学協会」の植民地活動とも関わりを持っていた。

 銀行という金融機関であるにもかかわらず,資本金の額よりも人脈によってその政治的・社会的影響力を伸ばそうとしたローマ銀行の活動は,エジプト副王から彼が所有する既存のマリオット鉄道を買収し,これをエジプト―リビア国境を超えてリビアの港街ベンガジまで繋ぐという計画を立てるとともに,リビアとエジプト国境に近いジャグブーブ・オアシスに勢力を持っていたサヌースィー教団に対し,イタリア支配を認めるよう副王に説得してもらうという取り引きにまで及んだ。この秘密交渉はエジプトの実質上の支配国イギリスの知るところとなり,英総督キチナーはスパイを使ってこのエジプト副王とローマ銀行の間に取り交わされた契約文書を,まんまと盗み出した。その内容だが,@イタリアが反英運動やエジプト・ナショナリズムを扇動しエジプトの独立を支援するAエジプトはイギリス商品の不買運動や英系の銀行との取り引きをやめローマ銀行と契約するB戦争が勃発した場合スエズ運河を封鎖する,などの条項が盛り込まれていた。こうしたことは,英国にとってその商業的権益だけでなく,エジプト統治の安定や,その戦略的・軍事的権益をも脅かすものと見做され,イタリア外務省に対して警告を発することとなった。これに対してイタリア側は,あくまでもローマ銀行が単独でしかも単なる商業的活動の一環として行なったに過ぎず,英国の権益を脅かす意図は毛頭ないと全面的に否定した。それでもイギリス側の不信感は消えず,この鉄道買収をめぐる問題は,1915年4月のロンドン秘密条約調印と,これに伴なう同年5月のイタリアの三国同盟脱退と英・仏協商側への寝返りによる参戦まで続く。

 上で見たように,経済力や軍事力では遥かに勝っているイギリスがイタリアに脅威を感じたのは,その政治的・文化的活動ゆえであり,実際にイタリア植民地政策はその典型と言ってよいものであった。このことは,また帝国史における政治的・文化的側面を研究することの重要性を示していると思われる。

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地中海学会大会 研究発表要旨

ペトラルカの聖地巡礼記について

土居満寿美

 キリストに縁りの地を訪ねる聖地巡礼は,古くは聖ヒエロニムスの時代から行われており,その記録も4世紀の『アエテリアの巡礼記』以来,数多く書かれてきた。その後も,イスラームの勃興などの国際情勢の変化によって巡礼行が困難な時期もあったものの,巡礼の波は途絶することはなく,殊にパレスティナに十字軍国家が並び立った12〜13世紀にはその最盛期を迎える。

 しかし,アッコンが陥落した1291年から1330年頃までの約40年の期間には,聖地巡礼は大幅に減少した。聖地奪回を夢見るローマ教皇庁がエジプトやシリアを経済封鎖する目的で東方への航行や輸出を禁止する政策をとった影響である。

 ペトラルカが聖地巡礼記を記した14世紀半ばは,こうして一旦は下火になった聖地巡礼が再び盛んになった時期に当たる。当時の聖地巡礼の一般的な経路は,ヴェネツィアから船に乗ってヤッファまたはアレクサンドリアで下船し,エルサレムまで陸路をたどるというものであった。費用は,安くあげる場合で30〜60ドゥカーティ,懐具合が良ければ100 〜150ドゥカーティであり,旅の期間は平均すると三ヶ月程度であった。

 ところで,巡礼記,ないしは巡礼案内記には二つの類型がある。一つは,descriptioと呼ばれるもので,聖地の記述に主眼を置く。もう一つはitinerariumと呼ばれ るもので,聖地に到着するまでの途中の道筋についても記されている。ペトラルカのそれは表題からも明らかなようにitinerariumに属する。

 さて,巡礼記が書かれる動機は多様で,後続の人々の指針となるもの,巡礼行を奨励するもの,出かけられない人々のために読書による空想上の巡礼の機会を与えるためのものなど,さまざまである。しかし,ペトラルカの場合はそのいずれとも異なり,聖地への巡礼行を誘ってくれたミラノの知人マンデッリのために,「私は行けないけれども代わりに道中の供として携えてください」との趣旨で書かれている。この誘いが虚構であるか否かは判別しがたいし,マンデッリが実際に巡礼に出たかどうかもつまびらかではない。しかも,ペトラルカ自身踏破したことのない旅路について書物や地図を頼りに書かれたものである以上,「体験記」あるいは「案内記」と呼べるような下世話な意味での有用で具体的な内容は含まれていない。ただし,短いながらも一人文主義者の知識と感性を総動員して簡潔にまとめあげられた作品であることを見るとき,この小品は一つの大全(summa)と して捉えることができるだろう。

 このように,ペトラルカの聖地巡礼記は一種の虚構,一つの文学作品であるから,当時の聖地巡礼の慣行にとらわれずに自由な視点から書かれている。すなわち,14世紀の多くの巡礼記はほぼ例外なくヴェネツィアからの乗船を記しているのに,彼は敢えてジェノヴァから船を発進させている。したがって,この巡礼記に描かれたジェノヴァからティレニア海を経由して南回りでオトラントにたどり着くまでの航海は,一般的な航路を選んだ場合には目にすることができない光景なのである。しかし,ペトラルカはそんなことには頓着しない。リグーリアの海浜の風景の美しさを実際に見て知っている彼にとっては,古代の詩人たちがこの素晴しい風景を等閑視しているのは不当であり,その美しさを『アフリカ』で歌い上げただけでは足りずに「巡礼記」でも取り上げずにはいられないのである。事実,ジェノヴァからナポリ,すなわちペトラルカが若い頃に実際に陸路・海路でたどった道筋の風景や風物は,里程も含めて詳細に記されている。

 これに比べると,彼が訪れたことのないナポリ以南の南イタリアおよびギリシア世界についての記述はかなり大雑把になる。マレア岬を通過してキュクラデス諸島の間を縫って進みロードス島へと向かいながら,実際に視界内に見えるかどうかには拘泥せずにアテネ,スパルタ,ビザンティウム,トロイアにまで言及しているのは,体験記・案内記ならば異様なことだが,そうした制約を受けない文学作品としてのペトラルカの巡礼記の場合はギリシア世界の簡潔・明瞭な解説と取ることができよう。

 さらに目的地パレスティナに至ると,もう一度筆致が変わるのが看取される。聖書を主な典拠として書かれたこの部分では「魂の目で見ていたものを実際に見ること」が強調されており,見方を変えれば「魂による巡礼」に重きが置かれている。そして,聖地で一通りキリストの跡をたどった彼が最後の到達地点アレクサンドリアに見出したものは宗教的な救いではなく,カエサルとポンペイウスの角逐の歴史,換言すれば古代ローマの偉大だった。

 このように,ペトラルカは聖地巡礼記において広い世界を経巡りながらも,暗にイタリアの素晴しさを確認しているのが窺われよう。

意見と消息

・3月中旬より,5月ゴールデンウィークまで,ヨーロッパにいました。久しぶりの4月の陽気を感じて,風邪を引きました。プラーハに初めて旅行して,素敵な町に感激しました。8,9月もまた,ヨーロッパに行く予定です。9月9日にオーストリアで,独唱会があります。          浅岡 弘子

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図書ニュース

土居満寿美 『コルヌコピアの精神』G.マイオリーノ著 共訳 ありな書房 1999年3月

服部 文彦 『マキャヴェッリ全集』共訳 筑摩書房 1998年10月

 

<寄贈図書>

SCULPTURES OF COMMAGENE KINGDOM, Ancient Orient Museum 1998

『評伝鷲巣繁男』神谷光信著 小沢書店 1998年

『トルコ民族と日本民族』保科眞一著 叢文社 1998年

『ガエターノ・ドニゼッティ−−ロマン派音楽家の生涯と作品』G.バルブラン・B.ザノリ ーニ著 高橋和恵訳 昭和音楽大学 1998年

『近代日本とトルコ世界』池井優・坂本勉編 勁草書房 1999年

『フィレンツェ』上下巻 C.ヒバート著 横山徳爾訳  原書房 1999年

『パレストリーナ その生涯』L.ビヤンキ著 松本康子訳 金澤正剛監修 カワイ出版  1999年

『ミケランジェロの世界像−−システィナ礼拝堂の天井画の研究』田中英道著 東北大学出版会 1999年

『OPERA LABIRINTOS』長栄一著 私家版

『ハーレムの女たち』澁澤幸子著 集英社 1999年

『南イタリアへ!』陣内秀信著 講談社 1999年

『世界の都市の物語 東京』陣内秀信著 文藝春秋 1999年

『世界やきものの世界−−誕生から現代まで』前田正明著 平凡社 1999年

『時をわたるキャラバン』新藤悦子著 東京書籍 1999年

『BULEETIN OF THE ANCIENT ORIENT MUSEUM』古代オリエント博物館 XVIII(1997)

『Mare Nostrum研究報告』地中海文化研究会 X(1997)

『文藝言語研究』「文藝篇」「言語篇」筑波大学文芸・言語学系 34(1998), 35(1999)

OPUSCURA POMPEIANA, The Paleological Association of Japan,INC., VIII(1998)

『カマン・カレホユック』中近東文化センター 8(1999)

『西洋古典学研究』日本西洋古典学会 XLVII(1999)

『地域研究論集』国立民族学博物館地域研究企画交流センター 2-1(1999)

『SPAZIO』日本オリベッティ 58(1999)

『日本中東学会年報』日本中東学会 14(1999)

『1998年度刊行イタリア関係図書目録』イタリア文化会館 22(1999)

『大阪芸術大学図書館所蔵品展 ウィリアム・モリスとケルムスコット・プレス刊本』大 阪芸術大学 1999年

 

 

事務局夏期休業期間:7月30日(金)〜9月3日(金)

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