地中海学会月報 220
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        1999|05  




   -目次-

学会からのお知らせ

*ヘレンド賞

 学会では今年度の地中海学会賞および地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めてきました。その結果,次のとおりに授与することになりました。授賞式は6月26日(土),第23回大会の席上において行ないます。

地中海学会賞:該当者なし

地中海学会ヘレンド賞:渡辺道治氏

 渡辺氏の『古代ローマの記念門』(中央公論美術出版,1997年)は,ローマ文化の申し子のごときものとされる凱旋門などの記念門に焦点をしぼり,その都市空間内における配置,平面形式と立面形式を検討し,それらの比例分析を行うことによって,記念門の年代区分とローマ建築の特質を明らかにした著作である。精緻な調査にもとづく高度にして独自な研究はヘレンド賞に値するものとしてその授与を決定した。

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*『地中海学研究』XXII

 『地中海学研究』XXII(1999)は下記の通りに決まりました。第23回大会会場で配布する予定です。

・Preliminary Report of Excavations at Dahshur North, Egypt: 3rd Field Season, March 1998
                        S.Yoshimura/J.Kondo/S.Hasegawa/T.Nakagawa/S.Nishimoto/T.Sakata/ M.Etaya

・ピンダロス ネメア競技祝勝歌第3 1-12:詩人を装う祝勝歌の「私」
                        安西  眞

・ポリス=市民団−−イデオロギー性の証明
                        上野 愼也

・バシレイオスと「ルネッサンス」−−神学と人文主義の関係をめぐって
                        秋山  学

・ピエロ・デッラ・フランチェスカとヴェネツィアの祭壇画
                        池上 公平

・古代ローマの女性画家「マルティア」の誕生−−初期近世女性画家にとっての範例と揺籃期印刷本の影響
                        秋山  聰

・書評:桐敷真次郎著『ベルトッティ・スカモッツィ『アンドレア・パラーディオの建築と図面』解説』
                        渡辺 真弓

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*第23回総会

 第23回総会は6月27日(日),大阪芸術大学で開催します。欠席の方は,委任状参加をお願いします。委任状は大会出欠ハガキ表面下段にあります。

第23回地中海学会総会議事

一,開会宣言

二,議長選出

三,1998年度事業報告

四,1998年度決算報告

五,1998年度監査報告

六,1999年度事業計画

七,1999年度予算

八,役員選出

九,閉会宣言

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*大会送迎バス

 第23回大会の送迎バス(大阪芸術大学スクールバス,無料)を下記のとおり増発することになりました。また,26日(土)は大学の教職員用バスも利用できます。喜志駅(近鉄南大阪線)からは本数は少ないですが路線バス(阪南ネオポリス行き)や,タクシー(1,200円程度)もあります。

喜志駅発大阪芸術大学行きバス時刻

6月26日(土)    12:10/12:35/12:55/13:10

  (教職員用バス) 11:20/11:50/12:20/12:50

6月27日(日)     9:10/ 9:25/ 9:40/10:10

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*会費口座引落

 会費の口座引落にご協力いただきまして有難うございました。今年度の会費は4月23日(金)に引き落とさせていただきました。なお,引落人の名義はシステムの都合で,地中海学会名ではなく「三井ファイナンスサービス」です。この点,ご了承ください。領収証を希望された方には,本月報に同封してお送りしますので,ご確認ください。

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       第23回地中海学会開催のご案内

          武谷なおみ

 第23回地中海学会が6月26日,27日に大阪芸術大学で開催されるにあたり,ひとことご挨拶を申し上げます。昨年,当番校をお引受けして以来,芸術大学にふさわしい学会のプログラム作りを目ざして参りました。美術,建築,音楽,舞台芸術はもとより,放送,映像,文芸,写真,環境計画,芸術計画など14学科からなる私どもの芸術大学は,創作者と研究者からなる複合集団で,常に互いの存在を意識しながら,作品と向き合っています。

 そんな大学の特徴をいかすために,26日の記念講演は,作家の小川国夫氏にお願い致しました。1950年代半ばの留学中に,氏が120日間,単身オ−トバイでヨ−ロッパを旅して 生まれた『アポロンの島』は,周知のように小川文学の原点ですが,『光があった−−地中海文化講義』『地中海の慰め』など,作家と地中海を結ぶ書物は,40年の時を経て,とぎれることがありません。最近の小説『マグレブ,誘惑として』を読んだ学生たちは,校舎5階の廊下から微動だにせず夕日を眺めている師の姿を見るにつけ,遠い地中海に想いをはせます。今回の講演では,どんな地中海世界が披露されるでしょうか。

 恒例の地中海ト−キングでは映画を取り上げ,「人と映画と地中海世界」というテ−マで語っていただきます。イタリア演劇の著名な研究家・田之倉稔氏,周辺地域イランの専門家の立場から映画を論じて下さる鈴木均氏,そして年間300〜400本の映画を,必ず映画館で観ているという重政隆文氏。3人の間で丁丁発止の議論が展開することを期待しつつ,美術史家の末永航氏に司会役を委ねます。

 懇親会に移る前のひとときには,薮亨氏による展示解説を予定しています。大阪芸術大学図書館では,この大会開催を記念して,ウィリアム・モリスが手がけた「ケルムスコット・プレス刊本」の一般公開を行います。スライド使用の関係上,解説はAVホ−ルで行われますが,一階の展示場見学は,時間の許すかぎり,各自ゆっくりお楽しみください。

 27日朝の研究発表は,はからずも,元気印の女性研究者が顔を揃える場となりました。フランス舞踏史,イタリア近・現代史,初期ルネサンス文学と専門分野は異なりますが,3人の少壮学究が未知の領域に大胆に踏み込んで,どんな論を展開されるのか,関心の集まるところです。

 昼食後には,フランス古楽器ピアノ(エラール・エ・プレイエル)の演奏でおくつろぎいただきます。第6回地中海学会大会の当番校,大阪大学企画によるダンスリ−・ルネサンス合奏団の美しい音色をご記憶の方も多いと思います。その後,本学に移られた音楽学の谷村晃氏は,昨年専任を退かれ,今は第三の人生を,ピアニストとして活躍しておられます。コ−ヒ−を飲みながらのサロン・コンサ−トをお楽しみ下さい。

 午後のシンポジウムは「ポセイドンの変身:馬と地中海」と題して,スペイン文学の立場から岡村一氏,ギリシア神話の立場から込田伸夫氏,アラブ文学の立場から杉田英明氏に語っていただきます。司会役を務めるのは古代ロ−マ史の専門家で,地中海学会事務局長でもある本村凌二氏ですが,氏が別のペンネ−ムを持ち,晶文社から二冊の競馬エッセイ集を出版しておられるのは,知る人ぞ知るところです。まさに地中海学会ならではのメンバ−によるこのシンポジウムは,時空を超えて想像力を刺激するに違いありません。

 学会開催中には,例年のように,地中海学会ヘレンド賞の授賞式が行われます。

 最後になりましたが,大阪芸術大学は大阪のはずれ,交通が不便だろうと考えて参加を逡巡しておられる方のために,文芸評論家・川村二郎氏が『河内幻視行』(トレヴィル社)のなかで,本学について記された一節を引用しておきます。「校舎の屋上に登って見渡せば,二上山の手前の王陵の谷のうち,敏達天皇陵の緑がとりわけ濃く眼に映り,その右手には近つ飛鳥博物館を包みこむ古墳群の丘が連なるのが見える……二上山の麓で,二上山を舞台とする折口信夫の小説『死者の書』を読むのは愉しかったが,読んでからまたその舞台の細部を訪ねて歩き回るのも,劣らず愉しかった」

 当地へはどうぞ,イタリア滞在中に皆様が,古代史の故郷を求めてロ−マからタルキニアに行かれるときのような感覚でお越しください。新大阪からも関西新空港からも,一時間半あればじゅうぶんです。野口榮子,吉原卓男,石井元章氏とともに,数多くのご参加を心よりお待ち申し上げます。

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グッゲンハイム・ビルバオ美術館

渡部 哲郎

 私は,本年3月末までデウスト大学客員教授としてビルバオ市(スペイン・バスク)に滞在し,ポスト工業都市計画(2002年グラン・ビルバオ計画)に基づく街の「変貌」を観察する機会に恵まれた。「鉄」の街だったビルバオを貫流するネルビオン川。かつて悪臭漂っていたその川面に偉容な超近代的な美術館の建物が映り,斬新なデザインの地下鉄(メトロ)が疾走する市紹介のパンフレットは,過去を払拭するためにとびっきり「明るいイメージ」を装っているとしか思えなかった。1997年10月に開館したグッゲンハイム・ビルバオ美術館(以下G・B美術館),その前年11月開通したメトロがまだ住民全 体に馴染まない時点に到着が間に合った私は,当地の住民としてそれらの「認知」の過程を共に体験できた。以下,その見聞録を紹介する。

 G・B美術館の初披露は先行きを案ずる事件で始まった。スペイン国王夫妻,国内外の著 名人を招待した開館式典前週,植木業者を装ったETA(バスク祖国と自由)メンバーが爆 発物を仕掛けようと侵入し,職務質問をした警察官を射殺した。翌週の式典は前の週の「不安」をかき消すかのような華やかな「ショー」となった。地元紙の特集記事は予定原稿によって構成された部分が大半で,華やかな同館の旅立ちを祝っている。しかし,当日直接取材した新聞記者や見物した市民から聞いた話では,美術館周辺には「独裁」時代同様の厳戒体制が敷かれていた。市民の中に新しい美術館を定着させるという主催者側の新聞コメントとは裏腹な様子だった。G・B美術館館へ反発する 住民たちは,徒歩5分程のところにあるビルバオ市美術館の充実ぶりを自慢する。

 G・B美術館は既存の美術館と競合しないように現代の アバンギャルドな作品を多く展示する。そのために地元住民の多くは,建物(Frank Gehry設計)の素晴らしさ,前の広場 にある季節の花で飾った犬の像「ポピー」(Jeff Koons作)に目を奪われるものの,常設の展示内容には不満であった。そこでグッゲンハイム財団はニューヨークの二つの系列美術館で展示され,評判であった「中国5000年展」をヨーロッパで初めてビルバオで紹介した。この展示はスペイン国内外から望外な入館者数を記録した(初年度入館者130万人。170万人のプラド美術館に次ぎ,国内第二位)。この「記録的な数字」によってバスク当局やマスメディアが当初,意図的に「グッゲンハイム効果」と喧伝していた現象が実態を伴ったものになり,ビルバオ市のみならず,バスク全体の新しい顔としてG・B美術館の存 在が不動のものとなった。美術館周辺整備が急務となり,新しいホテルや ショッピングセ ンター建設計画に拍車 がかかった。多目的の音楽ホールが美術館近くの旧造船所跡地に 巨大な舟形で登場し,ポスト工業都市計画が少しずつ具体的に見えてきた。従来のビルバオ市のエンブレム(紋章)は,中世からサン・アントン橋の図柄であるが,今やG・B美術 館の建物をあしらったものが併用されるようになった。開館から半年でビルバオ市とバスクの顔としてG・B美術館の「認知」を促したのは,政 策よりもなによりも建物,作品群の素晴らしさを認めた一般入館者の数字に他ならない。

 さらに住民の意識も変わった。バスク人がこの世の最良な料理と信じて疑わない自慢料理よりも便利で簡便なファースト・フードを選ぶ入館者の多さを見て,誇り高く頑固な頭を切り替えて質,量そして食事時間においても観光客に便宜を図るようになる。土曜午後,日曜全日の休業を頑なに順守してきた商店も営業を始める。食事・生活時間の変更は今後,旧来の習慣を変える要因となろう。G・B美術館を背景に「007」の新作映画(今秋公開)の撮影ロケがあると,市全体が歓迎し,協力した。「グッゲンハイム効果」は建物などの入れ物だけでなく,確実に住民の意識の中にも入ってきた。

 美術館のビルバオ誘致をめぐるやりとりは,『G・B美 術館 ある魅惑の記録』(Joseba Zulaika, Cronica de una seduccion)に詳しい。バスク政界をリードする民族主義政党 指導者たちがグッゲンハイム財団幹部と接 触する。移住などで外の新天地で成功し,金融資本を中心に経済を動かすバスク人脈は国内外の各界に広がりを持っている。それらバスク人が保持する土着的な郷土愛が誘致成功に役立った。バスクらしい一面がこの交渉には見られる。テロが続発するバスク政治・社会不安の解決に,これらの人脈,努力が生かされないものか,と残念に思うのは私一人であろうか。さらに,アメリカ人の財団理事長が古臭いバスクに興味を持った。古臭さと超近代的な美術館,このミスマッチがもたらす「効果」を楽しんだ,としか思えないほど当人は交渉ごとにバスクに傾いていく。「グッゲンハイムの誘致」は作意のみではなく,偶然的な要素が積み重なって事態が進展,結実して最良の効果をもたらした,と私は見聞した。

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 Per Paestum(パエストゥム行)

島田  誠

 3月13日の午後,暖かい春の日の光の下,筆者は南イタリアのナポリの南方,サレルノのさらに南の地パエストゥムで足下を気にしながら歩いていた。

 足下を気にしていたのは,一つには前夜に痙攣して痛む左足を引き摺って歩いていためのである。昨年の12月に始まり3月まで続いていた年度末の忙しさと不健康な生活のために身体がぼろぼろな上に,成田発,ミラノ経由,十数時間の空路を経て12日の夜にナポリに到着する旅ですっかり身体が硬直してしまっていた のである。もう一つの足下を気にしていた理由は目の前の列柱をカメラのファインダーにとらえるために,咲き乱れる春の草花を踏み荒らさねばならなかったからである。

 古代ギリシアの歴史や考古学,さらには建築に興味のある人にはよく知られているようにパエストゥムは古代ギリシア人の建設した植民都市ポセイドニアの遺跡である。恐らく紀元前600年頃にイオニア海に面した南イタ リアのギリシア都市シュバリスがテュッレニア海側への進出をはかって建設したと考えられている。

 この植民都市は,紀元前400年頃にイタリキー人の一 派ルカニア人によって征服された。紀元前3世紀には南イタリアに勢力を伸ばしてきたローマの支配下に入り,紀元前273 年 にはラテン植民市となってパエストゥムと呼ばれるようになった。

 ポセイドニア/パエストゥムの都市としての歴史は,数多くの南イタリア(マグナ・グラエキア)の古代ギリシア都市の中では特筆すべきものではないかも知れない。しかし,パエストゥムの遺跡の現状は注目すべきものである。

 パエストゥムには,ポセイドニア時代の初期(紀元前6〜5世紀)に三つの大きな神殿が建設され,それらが三つともかなりよく保存されている。遺跡の中央部に位置する評議会場やローマ時代のフォルムなどを挟んで,南部に二つ,北部に一つの神殿の巨大な列柱が林立している。現在は南部の2神殿(通称,バシリカとネプトゥーン神殿)が修復中で工事の足場が組まれていたために,景観は多少損なわれているが,咲き乱れる草花に囲まれた北部の通称ケレス神殿(実際はアテナ女神の神殿)のみでも,十分に印象的であった。

 仕事の都合で前日の夜にナポリに到着したばかりの筆者は13日にはまだ呆然としており,先乗りしていた同行者2人の後ろに付いてパエストゥムの遺跡に到達した。

 しかし,観光にはオフシーズンの3月ということもあり,到着まではいささかの紆余曲折があった。

 朝9時,ホテルを出発し,ナポリ中央駅で情報を収集した。まず目指した案内所が閉っていたので,しばらく駅構内を探してようやく開いている案内所を見つけることができた。ところが,パエストゥム行きの列車が昼過ぎまでないことが判明し,立ち往生してしまった。結局のところ,まずはともかくサレルノまで行き,そこからパエストゥムに行く方法を考えることにした。

 その間,英語を話す年輩のイタリア人男性が話し掛けてきて,いろいろと教えてくれたが,調べてみると大半がデタラメだった。根拠のない無責任な言い方だが,いかにもイタリアだと納得してしまう一幕であった。

 10時過ぎにナポリ中央駅を発ち,11時頃サレルノに到着した。英語のガイドブックによればパエストゥム行きのバスが出発するはずの海岸沿いのコンコルド広場にまず行ってみた。確かにバス乗り場はあるがパエストゥム行きが何処から出発するのか分からず,一度駅まで戻ることになった。ところが,駅前広場まで戻ると同行者の一人が,先ほどは気付かなかったバスの乗車券売り場を見つけた。売り場の係りの話では,パエストゥム行きのバスは,11時30分にコンコルド広場から出るとのことだった。急いで乗車券を買って走り,無事にバスに乗ることができた。バスは,いかにも地方の路線バスという雰囲気だが,順調に走り,かのエボリの一つ手前の町で南に針路をとって進んだ。途中,乗用車とトラックの衝突事故のために渋滞に巻き込まれたが,なんとか12時過ぎにはパエストゥムに到着することができた。

 オフシーズンで鉄道などの便が悪いこともあったが,忙しさにかまけて準備不足であったことが当日いささか慌てることになった最大の理由だろう。このようにドタバタもあったが,パエストゥムの遺跡自体には大きな感銘を受けた。当日は,ドイツからバスでやって来た観光客の団体はいたが,全体として人は少なく,ゆったりと見学することができた。

 できすぎた風景ではあるが,青い空を背景に,花の咲き乱れる緑の草原にそびえたつ神殿の白っぽい列柱は一見の価値がある。

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自著を語る 15

ジャンカルロ・マイオリーノ著

『コルヌコピアの精神−−芸術のバロック的統合』

ありな書房 1999年3月 A4判 270頁 4,000円

土居満寿美

 コルヌコピ−−豊穰の角。表題に謳う「豊穰」なる形容を地で行くような書物を,このたび翻訳,刊行させていただく機会にめぐまれた。アメリカの比較文化研究者ジャンカルロ・マイオリーノが著したバロック論,『コルヌコピアの精神−−芸術のバロック的統合』である。美術史の岡田温司先生との共訳という形で刊行にこぎつけることができた本書であるが(このような「大変な」本を何とか出版に持ち込むことができたのはもっぱら先生のおかげである),私のごとく平素はイタリア文学の,それも特定の時代と分野を研究対象としているにすぎない者にとっては,次から次から豊かな発想が大波のように押し寄せてくる,度肝を抜かれるような書物であった。

 地中海沿岸(といってもヨーロッパ側だが)を舞台に,バロックという「野獣」について,その出生から成獣にいたるまでの発育の過程として通時的に論ずることに主眼をおいた本書の叙述は,学際的であるとともに,分析ではなく総合をめざすと緒言に高らかに宣言しているのにたがわず,文学・美術・哲学・科学史の各分野を縦横無尽に泳ぎ回っている。そこで展開している議論は,時代や国の違いもものともせぬ自由闊達な語り口で,読者の好奇心をいたく刺激する。

 たとえば,バロックの先駆としてミケランジェロの詩と彫刻における「未−完成(non-finito)」を論じた第一章。まずはお決まりのとおり新プラトン主義についてのおさらいであるが,その同じ章がやがては十字架の聖ヨハネやジョン・ダンの宗教詩を引用しつつミケランジェロの生涯の終着点に達して閉じられるのを見るとき,原著者マイオリーノの視野の広さ,発想の豊かさには圧倒されてしまう。

 一事が万事。第三章では「時間に支配された生活」,すなわち時間の経過とともに人格が成長してゆく自己形成の経験を描いた文学作品として『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』が取り上げられているが,このピカレスク小説についての議論とからめ合わせてモンテーニュの『エセー』が,ベラスケスの《水売り》が,ベルニーニの喜劇『興行師』が論ぜられることになろうとは,誰に予測できよう。それだけでも意外でありながら核心をついた見方に感心させられてしまうけれども,話はさらに発展し,『ドン・キホーテ』,フェルメール,フランシス・ベイコン,バジーレのおとぎ話『ペンタメローネ』,ベルニーニの《バルダッキーノ》,ボッロミーニの《透視図法によるコロネード》,レンブラントの《トゥルプ博士の解剖学講義》,さらにはシェイクスピアやゴンゴラまでをも巻き込みながら,「為されたもの(factum)」ではなく「為されるべきもの(faciendum)」で あるところの生命の発展が強調される。その,目もくらむばかりの高所から見渡したような広範囲におよぶ議論には,まさに脱帽である。

 かといって,また本書の所どころで「とりとめのない形」についての言及があるからといって,本書そのものが焦点の定まらぬ「とりとめのない」書物なのかといえば,それはまったく違う。たとえば,第五章の主題,アリストテレス。正確には,レンブラントがある意味では自己を投影しながら描いた《ホメロスの胸像に見入るアリストテレス》。この絵に描かれているアリストテレスは従来のアリストテレス,たとえばラファエッロの手になる《アテナイの学堂》のアリストテレスとは異なるし,別の言い方をすれば,本書の第二章に言うごとく「詩学を教えたにもかかわらず詩を書いたこともなかった」と非難されたアリストテレスでもない。ホメロスの胸像に手を差し伸べるレンブラントのアリストテレスは,いわば,対話を求める者である。つまり,批評は創造を最新化するということ,分析は創造行為そのものに匹敵することが,この絵の中では示されているのである。こうして,いったん第二章に登場した話題が一巡して第五章にも現われ,しかもより高い次元から考察されているさまは,あたかも,ぐるぐると回りながらより幅広くより高く伸びてゆく螺旋階段を登るような按配である。

 そう,バロックの美を体現するのは螺旋階段状のもの−−本書に言う「ねじれて曲がった円錐,すなわち豊穰の角」(p.88)である。永遠の旋回を続けながら果てしなく成長し,無窮に発展を続ける,無限の可能性を秘めた生成過程。それはバロックそのものであるとともにそれを論ずる本書の特長であるとも言えるかもしれない。ちなみに,黄色の帯と,ベラスケスの《織女たち》による表紙カバーを外した下に,リーパの『イコノロギア』による《豊穰》の図像が現われるのにお気づきだろうか……。

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おいしい摂里白(シャーベット)の作り方教えます

鈴木貴久子

 シャーベットやシロップという言葉は,アラビア語のシャラーブsharab(複数形sharabat‘飲み物’の意味)からきていることはよく知られている。そもそも中東地域のシャラーブとは,今のシャーベットとは違って,砂糖水や蜂蜜水に,果汁や香りのよい香木や香辛料を混ぜた清涼飲料水であった。また各病状に効く香辛料類がブレンドされた薬剤としても広く庶民にも利用されていた。

 ところでヨーロッパにシロップが伝えられたのは,辻静雄氏によると中国経由であったらしい。中国でのシャラーブにまつわる逸話については,故前嶋信次先生の論文「舎里別考」に詳しく描かれている。では中国にムスリムたちが持ちこんだシャラーブとはどんなものだったのだろうか。実際の調理法を,元の時代に編纂された料理書『居家必要事類』に偶然見つけた。『居家必要事類』という書は,著者も不明であるが,家庭人として生活するために,心得ておくとよい生活の知恵を網羅した教養書であり,元代,明代,清代にわたり民間で普及した読み物のひとつである。

 『居家』の飲料の記述に,渇水という種類の飲料7種類の調理法が紹介されている(巳集十一)。第一行目には,「渇水番名摂里白」すなわち中国語以外の名称は摂里白sharabであると書かれている。渇水とは煮詰めてつくる飲料を意味していると考えられるが,この用語は他の文献ではみたことがまだない。当時の読者にとっても見慣れない言葉であるため,説明を付け加えたと考えられる。珍しい飲み物であったことは想像できる。

 さて7種類は,御方渇水,葡萄渇水,香糖渇水,林檎渇水,梅渇水,木瓜渇水,五味渇水である。ここでは上品な香りと味がある香糖渇水の作り方を紹介する。

 上質の砕いた砂糖を一斤(約167.3g),水を一皿半,かく香の葉を半銭(約1.8g),甘松一塊,生姜大きい塊を十個を煎じる。煎じたものを漉して清め,磁器にいれ,麝香を緑豆の大きさほどの一塊,白檀粉を半斤いれる。夏は氷をいれると極めて美味しい。

 この作り方はイスラーム世界のシャラーブと同じものである。また夏のシャラーブには,麝香や白檀をいれることを中世アラビア語医学者たちも薦めている。こうしたシャラーブは中東ではガラス瓶にいれるものだったが,磁器にいれるのはいかにも中国らしい。

 中世アラビア語料理書を読んでいるかたわら,きままに中国の古典料理書をめくっていると,ときおり,アラビア語名あるいはペルシャ語名の料理や食材にあたることがある。ムスリムたちが中国に居留していたときに,故郷をなつかしみながら食べていただろうなどと想像すると,とても楽しい。

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図書ニュース

石原 忠佳 『スペインの社会』共著 早稲田大学出版部 1998年8月

神谷 光信 『評伝鷲巣繁男』小沢書店 1998年12月

澁澤 幸子 『ハーレムの女たち』集英社 1999年4月

高田 和文 『ストレーレルは語る』ウーゴ・ロンファーニ著 翻訳 早川書房 1998年5月

    『オペラのすべて』A.タヴェルナ著 翻訳 ヤマハミュージックメディア 1999年3月

田中 瑛也 『ヨーロッパへのまなざし』 白亜書房 1998年9月

丹野  郁 『西洋服飾史』東京堂出版 1999年4月

丹羽 隆子 『はじめてのギリシア悲劇』 講談社現代新書 1998月12年

前田 正明 『洋食器のある生活』監修 小学館 1999年3月

吉田 彩子 『孤独』ルイス・デ・ゴンゴラ著 翻訳・評釈 筑摩書房 1999年6月

 

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意見と消息

 

・この3月末より約20日間,イタリアに旅行し,演劇・オペラを見てきました。ストレー レル演出「コシ・ファン・トゥッテ」を見られたのは幸いでした。   高田 和文

・『地中海文明の源流をたずねて』以降三冊目の出版。ゲーテの訪れたシシリーを中核に 既発表の随想,論文をまとめた。トルコ東部,西南部と余り人が訪れない遺跡を訪れ, むじんぞうに研究の余地が残されていることを痛感した。       田中 瑛也

・ゴンゴラの『孤独』を出版いたします。本書は『孤独』の翻訳および『孤独』の評釈の 二巻から成っております。                     吉田 彩子

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表紙説明 地中海:祈りの場9

      ヴルチのミトラス教礼拝所/渡辺道治

 ローマの北100kmほどのところにエトルリア時代から ローマ時代にかけて繁栄した都市ヴルチがある。紀元前5〜4世紀に建造された城壁で囲まれたほぼ中央部の神殿を含む市街地が,近年遺跡公園として整備された。1975〜1979年の調査でその市街地の一角に位置するミトラス教礼拝所が明らかとなり,その成果は1997〜1998年に近郊のモンアルト・ディ・カストロ市の市庁舎の一室でのこじんまりとした展覧会で公開された。

 ヴルチのミトラス教の建物は半地下の造りとなっており,2部屋からなる。ほぼ矩形平面の前室の奥に台形平面の細長い部屋が続いており,全体の幅と長さは3〜4mと10m足らずのきわめて小規模なものである。台形状の平面の部屋の両側壁に沿って細長い腰掛けが並び,その間には通路,最奥部にはミトラス神の彫像を納める壁龕が備わっている。腰掛けは六つの半円形をなしたアーチからなる壁龕によって支持されている。信者はこの腰掛けに座り,ミトラス教独特の秘儀を行ったと見られ,六つの壁龕は信者が儀式において到達した段階を指し示し,六つの段階をへて,最後の第7段階でミトラス教の最高位に達することができるわけである。ここで発見された白大理石製のミトラス神の彫像の構成はその他の場所で確認されたミトラス教の彫像や壁画と同じである。彫像の頭部は残念ながら失われているが,キトンをまとったミトラスが牡牛に跨り,右手の剣を牡牛の心臓部にまさしく突き立てている様を表現している。お馴染みのカラスと松明をかかげたカウテスの彫像も同時に発掘され,また別の彫刻群をなすと推測されるもの(牛屠り,若きバッカス神の頭部など)が出土している。しかしながら,もう一人の松明をかかげたカウトパテスの像は発見されていない。この彫像は3世紀中頃の作で,礼拝所はおそらく4世紀末頃に破壊されたと見られている。

 ミトラス教は古代バビロニアに生まれ,ペルシアで光の神としてあがめられた宗教で,1世紀末にローマにもたらされた。この宗教は牡牛を屠るという最も重要な儀式を通して,新たな生命の再生を願うもので,とりわけ兵士達の間で信仰された。この神秘的で復活思想を備えた宗教は3世紀に最も栄え,とりわけアウレリアヌス帝に好まれ,次第に一般市民の間にも浸透し,ローマ帝国全土に広がることとなった。しかしキリスト教と最も対立し,380年のテオドシウス帝の勅令後急速に衰退し,ローマ のサン・クレメンテ教会に見るようにミトラス教礼拝所の上にキリスト教 教会堂が建設されることもあった。この宗教の広がりの背景に当時のローマ社会の緩やかな衰退と社会全体の不安感を垣間見ることができる。

 信者達がどのような気持ちで入信し,儀式に参加していたのか知る由もないが,ミトラス教礼拝所は住宅街の一角に置かれることが多く,小規模で判で押したような同じ平面形式をなしている。このことから見ると,古代の宗教の中では建築的な壮大さや壮麗さを求めるのではなく儀式そのものが最も重要視された宗教であったのかもしれない。

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地中海学会事務局
〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201
電話
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FAX 03-3350-1229




 
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