地中海学会月報 216
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        1999|01  




   -目次-

学会からのお知らせ

 

 

*2月研究会

 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集ください。

 

テーマ:ベネデット・ブリオーニとロッビア派の

    プレセピオ

発表者:金原由紀子氏

日 時:1999年2月20日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館3階311教室

参加費:会員は無料,一般は500円

 

 16世紀初頭、民衆への教化的な役割を果たす芸術を提唱したドメニコ会の影響で、ロッビア派周辺で彩色テラコッタのプレセピオが頻繁に制作された。像には自然主義的な賦彩がなされ、しばしばフレスコで背景が描かれた聖堂内のニッチの中に設置されたが、当初の状態をとどめる作例はほとんど残されていない。今回はベネデット・ブリオーニのプレセピオを中心に、プレセピオのオリジナルの様相を再構成していく。

 
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表紙説明 地中海:祈りの場5

        パリ,サン=ジノサン墓地/小池寿子

 

穴掘り/死人の多い時分には,わしの財布はお宝で膨らんでいたよ。

人 足/それに,旦那,穴を上手に掘るというのも,わざでさあね!

穴掘り/偉いやつも,偉くないやつも,老いも,若きも,まるで莢豆のように元気なやつが,死神様にかっ攫われていた時代はいずくへ行った? 人さまがくたばると,わしは陽気だ!

   (フランソワ・ヴィヨン『遺言書』佐藤輝夫訳)

 はるけきガリシアの,ありがたきサンティアーゴ・デ・コンポステーラへと一路,南に下るその名もサン=ジ ャック大路のはじまりにそびえ立つサン=ジャック塔。 シュルレアリスムの詩人アンドレ・ブルトンが「セーヌのほとりの向日葵のよう」と謳ったこの塔から,わずかに北に広がるサン=ジノサン墓地は,いまや勢いよく水 しぶきを上げる噴水に昔日の面影を残すばかり。いにしえのパリ詩人ヴィヨンがこよなく愛して徘徊したこの墓地は,当時,有数の共同墓地であった。墓掘り人夫の陽気なかけ声響くなか,屍ばかりがこの墓地の住人だったわけではない。彼らが見事な「わざ」を見せる一方,ここでは,ドメニコ会やフランチェスコ会の巡回説教師たちがファナティックに世の終末を説いて悔悛を薦めるかと思えば,そんなことは絵空事よ,と商売人が,墓石にえたいの知れない商品を並べ立てていた。巡礼の者はその回廊で長旅の疲れを癒し,あるいはそのまま墓地の黒土となり果てることもあった。そして,名も知れずに死んでいったあまたの死者に捧げられる低い祈りの声が,絶えることなく墓地の空気を震わせていたのである。

 キリスト教における第一の祈りの場は教会堂であろうが,墓地もまたしかり。集会と礼拝と,そして埋葬の役割を負った「神の家」は,まずはその内部に死者を取り込み,死者と生者の祈りと交流の場となった。ついで教会堂が満杯になると,死者たちは周囲へと進出し,教会付属墓地をその住処とした。しかし,サン=ジノサン墓 地の由来は大いに異な る。9世紀頃には「シャンポー 原」と呼ばれたこの湿地帯は,ことさら死体の「はけ」がよく,数日ですみやかに腐敗させる土壌だったという。おりしもノルマン人の侵略によって荒廃に喫したパリでは,セーヌ右岸のこの地が無名戦士の墓所として選ばれ,やがてカペー朝フィリップ尊厳王の時代には「サン= ジノサン」,つまり「罪なき聖嬰児」の名 を頂いて共 同墓地としての囲いが設けられた。囲いが回廊に改められ,さらにその上部に「シャルニエ」と呼ばれる納骨堂が設えられたのは,時代が下って14世紀の頃とされる。キリストの身代わりにヘロデ王によって惨殺された「罪なき聖嬰児」への信仰は,彼らの死とその際に流された大量の血がキリストの復活を導いたとする信心によっている。かくしてサン=ジノサン墓地は,死あっての新たな 生命を約束する場として,復活信仰の中心地とさえなる。

 墓地(coemeterium)とは「人が眠る所」を意味する と語ったのは聖クリュソストモスであった。彼ら死者は,永遠の命を授かるまで眠りつづけ,そしてその生命を確かなものにするのは,何より,生者たちの不断の祈りだったのである。

 「三人の死者と三人の生者」と埋葬を描いたこの絵では,墓地から生え出で,抜けるような青空を覆う枯木の上,涙して死者に祈る黒衣の修道士が蹲る。そのシュルレアリスティックな画像ゆえに,忘れがたい逸品である。

 フランソワの画家『ワーンクリフの時祷書』「死者のための聖務日課」挿絵,1475年頃。メルボルン,ナショナル・ギャラリー・オブ・ヴィクトリア所蔵写本Fr.Ms.Felton 1, fol.78。

 

 

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秋期連続講演会「芸術家の地中海遊歴−15世紀から19世紀まで−」講演要旨

 

デューラーのイタリア旅行

 

秋山  聰

 

 アルブレヒト・デューラー(1471〜1528)は,その生涯の内に二度イタリアに赴き,ヴェネツィアに長期滞在した。一度目の滞在は遍歴修業を終え,郷里ニュルンベルクに戻って結婚した直後の1494年から95年にかけてのことで,彼の夫婦仲を疑わせる要因ともなってきた。しかし恐らく先端をゆくイタリア美術への研究心もだしがたく,折しも広がっていたペスト禍を契機として,敢えて新妻をのこして遠く南方へ旅立ったのであろう。実際この時期のデューラーの作品はイタリアの先行作例を下敷きにしたものが多く,極めて多くの事柄を熱心に吸収した様がうかがわれる。

 これに対し1505年半ばから07年初頭にかけて挙行された第二次イタリア旅行については,その動機がいまひとつ明確ではない。既に優れた画家,版画家としての名声を獲得していたデューラーが,なぜ再び遠くイタリアへ向かったのだろうか? またしてもペストがニュルンベルクで流行していたためそれを避けようとした,デューラーの版画の贋作がイタリアで出回っていたので訴訟をおこそうとした,遠近法の習得を目的としていた,ヴェネツィアにおける仕事の受注を期待していた,など諸説唱えられてきた。それぞれに幾ばくかの信憑性はあるが,管見では一年半にもわたるこの滞在におけるデューラーの画業には指導動機ともいうべきある通底するファクターが看取されるように思われる。現存するこの時期の作品を仔細に検討すると,デューラーが文化的後進国というレッテルを貼られていたドイツの画家としての技量を,効果的にデモンストレーションしようとした節がうかがわれるのである。

 第二次イタリア滞在中の最大規模の作品《ローゼンクランツフェスト(ロザリオの祝祭)》(プラハ国立美術館)では,損傷が大きく最早視認できないが,画面のほぼ中央,聖母の膝の上,皇帝と高位聖職者の視線の先に,画中のプロポーションとは合致しない実物大の蝿が描かれていた。このような蝿自体は,デューラーの創意ではなく,ネーデルラントや北イタリアはもとよりニュルンベルクにおいても既に描かれることがままあったが,このような大作のほぼ中央,聖母の膝の上,幼子イエスの足先,権力者の面前に,極めて目立つかたちで蝿を描き込んだのには,相応の意図,機略があったものと思われる。古代の大画家たちはさまざまにその迫真的な描写能力で人々や動物を欺いたと伝えられるが,ジョット以来の優れた画家たちについても同様の伝説が人口に膾炙していた。ジョットはチマブーエ工房において師の作品上に蝿を描き込み,師の目を欺いたと伝えられる。また古代のエクフラシス(作品記述)にも,緻密な再現能力の一つとして,蜂や蝿が言及されている。さらには蝿は人文主義者たちにとっては醜い生き物の代名詞の一つであり,ルキアーノスの『蝿礼賛』は,そのような褒めようのないものを,あらん限りの修辞を用いて褒めるという,修辞家にとってのtour de forceのような作品であ った。15,16世紀の人 文主義者たちはこの短篇をこと のほか好んでいたが,マニュエル・クリュソロラスやグアリーノ・ダ・ヴェローナの書簡からは同様の考え方が美術についても当てはめられていたことがうかがえる。つまりデューラーの蝿は,一般人を驚かすことはもとより,学識者の注意を喚起し,美術関係者にも思考を促すという,さまざまに異なる階層の鑑賞者をひきつけ,結果的にデューラーの技量を認めさせるような仕掛けでありえたのである。

 また《律法学者たちと論争する十二歳のキリスト》(ティッセン・ボルネミサ・コレクション)は,銘文に「五日間の作品」とあるように,拙速な画風を示している。速筆は古代の画家伝説に散見されると同時に,15,16世紀の美術理論において次第に肯定的に評価されるようになっていた。また芸術家としての自意識の芽生えはじめた画家たちは,作品納入の期日を守らなくなり,注文主たちの苛立ちを募らせていた。このような状況下でのデューラーによる速筆の誇示は,さまざまな階層の人々にとっての効果的なデモンストレーションでありえたであろう。また遅筆で知られたレオナルド・ダ・ヴィンチにデューラーが挑戦した可能性すらもうかがえる。

 この他異なる画風を併用したことや,当時なお一般的ではなかった未完了過去時制によるラテン語銘文を多用したことなどと併せても,デューラーの第二次イタリア滞在は,人文主義的な教養を背景にしての,異国における効果的な技量のデモンストレーションであったと推測されるのである。

 

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秋期連続講演会「芸術家の地中海遊歴−15世紀から19世紀まで−」講演要旨

 

エル・グレコのイタリア時代

 

越川 倫明

 

 エル・グレコの遍歴はよく知られている。生まれ故郷のクレタ島カンディア,ヴェネツィア,ローマ,そしてスペインのトレド定住である。これを「旅行」と呼ぶのはふさわしくない。職業画家としての,成功の場を求めての果敢な移住であり,それはそのまま様式的変化と成熟のプロセスとなった。

 「彗星のごとくヨーロッパの上空を横切った特異な経歴」といった類の形容がしばしばなされるが,実は彼の移住の経路は決して孤立した例ではない。移住先の選択には,おそらく十分に合理的・現実的な動機があった。

 ヴェネツィアの東地中海における中継拠点であった臨海都市出身の芸術家が,ヴェネツィアをめざす例は多々ある。ダルマティアのザーラ出身のアンドレア・スキアヴォーネや,ほかならぬエル・グレコの友人であったジョルジョ・ジュリオ・クローヴィオなどがすぐに思い浮かぶ。反対に,ヴェネツィアで食いはぐれた芸術家が一時的にこうした衛星都市に活路を求める例もある。カルロ・クリヴェッリが典型である。臨海都市には支配階級であるヴェネツィア人のコロニーが必ず存在し(カンディアももちろん例外ではなかった),こうした人的往来を自然なものとしていた。エル・グレコの兄マヌーソス・テオトコプーロスは,のちにトレドの弟を頼ることになるが,彼はもともとヴェネツィア政府の意を受けて対異教徒の海賊行為(軍事行為ともいえるが)にいそしんでいた。今日の国民国家的感覚では,当時のギリシア(クレタ)−ヴェネツィアをとらえることはできない。

 エル・グレコのヴェネツィアからローマへの移住を考える上では,クローヴィオの存在が欠かせない。この年長の友人もまた,当初ヴェネツィアで親ローマ派有力貴族グリマーニ家の世話になり,その後ローマでファルネーゼ家の寵を得ることになった。よく知られているように,クローヴィオはローマ到着直後のエル・グレコのために,アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿にとりなしの手紙を書き,「ティツィアーノの優れた弟子」として推挙している。グリマーニ家,クローヴィオ,ティツィアーノ,ファルネーゼ家という人間関係の連鎖が,エル・グレコの移住を支えた枠組みだった。

 この枠組みを考えると,エル・グレコにとって「身近な男」であったにちがいない,もうひとりの登場人物が浮かび上がる。マルケ地方出身のマニエリスム画家で,エル・グレコと同い年のフェデリーコ・ズッカロである。フェデリーコもまたヴェネツィアでグリマーニ家の礼拝堂を装飾したことがあり,兄タッデオ・ズッカロの死後,カプラローラのファルネーゼ荘の装飾の指揮をとることになった。この時の後継者指名問題で,フェデリーコを枢機卿に強く推挙したのも,クローヴィオだった。

 ローマ時代,ともにクローヴィオの友人であったエル・グレコとフェデリーコが,互いの知遇を得なかったとは考えにくい。確かに,エル・グレコがカプラローラを訪れた時には装飾の指揮はフェデリーコからヤコポ・ベルトイヤに移されていたが,彼はそこでズッカロ兄弟の仕事をつぶさに見ることができたはずである。また,ローマでほとんど無名であったギリシア人とすでに実績十分のフェデリーコとの立場の違いはあれ,ふたりはローマ画壇におけるフィレンツェ派のヘゲモニーに対する闘争という点では,姿勢を同じくしていた。

 エル・グレコがトレドに居を定めて10年後,フェデリーコはエル・グレコが望んで得られなかったエスコリアル宮の装飾の注文を獲得してスペインを訪れ,その際に旧知のギリシア人をトレドに訪ねた。手みやげは1冊の書物,ヴァザーリの『芸術家列伝』第2版だった。フェデリーコはこの本の余白に若干の書き込みをしていたが,エル・グレコはさらに多くの感想を重ねて書き込んだ。

 この「エル・グレコ自筆書き込み入りヴァザーリ芸術家列伝」は,近年におけるエル・グレコ研究最大の発見だったが,これらの書き込みのなかで,エル・グレコとフェデリーコは共通して,ヴァザーリに代表される芸術上のトスカーナ中華思想に対し,恨みのこもった対抗意識をかいま見せているのが興味深い。

 エル・グレコの様式形成におけるイタリア美術の貢献は,ティツィアーノ,ミケランジェロを中心に繰り返し論じられてきた。しかし歴史的現実に近づこうとすれば,もう少し彼の「身近な存在」にも注意深い目を向ける必要がある。その意味で,講演の後半ではクローヴィオやズッカロ兄弟の作品と,エル・グレコの作品との間に認められる関係性の痕跡をいくつか紹介した。ここでは詳細は割愛するが,関心のある方は1995年にクレタ島で開催された「エル・グレコとイタリア美術」シンポジウムの報告書(近刊予定)を参照していただければ幸いである。

 

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秋期連続講演会「芸術家の地中海遊歴−15世紀から19世紀まで−」講演要旨

 

オリエントへの旅

−−19世紀フランスの画家たちと地中海−−

 

三浦  篤

 

 ここで「オリエント」と呼ぶのは,広義の「東洋」ではなく,19世紀西欧で理解されていた狭義の「東方」である。すなわち東はトルコ,中東,エジプト,西はアルジェリア,モロッコを含む,主として地中海沿岸のイスラム文化圏地域を意味しており,ギリシアとスペイン南部もヨーロッパとの境界領域として組み入れてもよい。この「オリエント」が,フランスのみならず西洋全体にとって,征服すべき対象,魅惑する他者として立ち現れていたのは改めて言うまでもなかろう。植民地主義を背景にしたオリエントへのこの異国趣味的なまなざしが,典型的に看取されるのが19世紀のオリエンタリズム絵画である。ただ私は,よく知られたサイードの『オリエンタリズム』の論旨を19世紀フランス絵画に適用しようとするのではない。そうした試みはリンダ・ノックリンを始めとしていくらもあり,大局的な妥当性はあるにせよあまりに単純化された議論であり,ここで絵画に表れた西洋のオリエントに対するまなざしの偏向性のみを,ことごとしく指摘してもさして有益とは思えない。私にとってオリエンタリズム絵画の問題とは,西洋のフィルターを通した総体としての東方表象のみならず,19世紀フランスの画家たちがそれぞれ異なる状況や立場や条件に基づいてオリエントに赴き,個々の欲望や課題や美的感性にしたがって絵画の中に他者を取り込んだ様を丁寧に追跡してみること,図式には還元できない多様性を把握するよう試みることにある。

 19世紀初めに,ナポレオンのエジプト遠征に関わる戦勝記念の戦争画(グロ,ジロデ)やトルコのハーレムのオダリスク像(アングル)が描かれたときには,画家たちは現地に赴くことなく,証言や資料に依拠しつつ空想をまじえて制作した。しかし,若干の例外を除けば,ほぼ1830年前後から実際にオリエントの地に足を運んで,絵画の主題を見つける画家たちの数が増え始める。ただし,こうして19世紀前半にドゥカン,ドーザ,マリヤ,ドラクロワ,シャセリオー,ヴェルネ,グレールらの行った旅というのは,旅行家(ローウェル)や探検隊(テロール男爵,ヒューゲル男爵),外交使節団(対モロッコ)や遠征軍(対アルジェリア)などに,記録画家として随行する場合が大半であった。たとえば,ドラクロワは1832年にモルネー伯爵率いる外交使節団にお供してモロッコ,スペイン,アルジェリアの土を踏み,そのときの体験を基に《アルジェの女たち》や《近衛兵に護られたモロッコのスルタン》を結実させた。ドラクロワにとっては,北アフリカのエキゾチックな風俗,明るい光や鮮烈な色彩が大きな刺激になったのは言うまでもないが,さらに興味深いのは,「ホメロスの時代のようだ」というに言葉が示すよう,西洋では失われた古典古代の生きた美と尊厳をこの地に再発見した(と感じた)ことであろう。

 19世紀後半になると,オリエンタリズム絵画の流行とともに,画家が個人的に東方に旅行する場合が多くなる。彼らの作品には,西洋にとって望ましい異国趣味的なイメージという枠組みが残存しつつも,さらにオリエントの現実に根ざした表現が目につくようになる。すなわち,対象のより正確な再現,土着性や地方性の把握など,相手方に密着した制作態度であり,この大きな流れをロマン主義的な位相から写実主義的な位相への変化と捉えることもできよう。

 その過渡期を生きた画家デオダンクは,毎年モロッコのタンジールへ行っては人々の風俗をスケッチし,土地の持つ匂いのようなものまで表現しようとしたが,作品の評価を得られず最終的に自殺する非運の道をたどった。三度のアルジェリア滞在で南方の砂漠地帯にまで足を延ばしたフロマンタンの場合には,独自の新鮮な感覚でその地の自然と住民を描き出す意欲を持っていたが,他方で既存の絵画形式に呪縛されつつ現実を再構成した作品も見受けられる。アカデミックな画家ジェロームは,オリエンタリズム絵画がイデオロギー的な批判の対象になる際に,まず槍玉に挙げられる人物である。写真を思わせる微細な描写力によって客観性を装いながら,西洋人の欲望と好奇心を満足させるようエキゾチックな(時にエロチックな)風俗場面を入念に組み立て,表象していくその手法は,確かに商品としてのオリエンタリズム絵画の量産体制と呼応している。しかし,通俗化されたオリエントのイメージの流布に積極的に加担する画家たちだけではなかった。「オリエンタリストのミレー」とも言われたギユメは,アルジェリア南部の砂漠地帯に生きる住民の単調で厳しい生活や,彼らを取り巻く苛酷な自然を淡々と描き出してみせた。そこには,他者との距離と他者への共感の間で絶妙の均衡をとったまなざしがある。アルジェリア南部のブー・サアダを第二の故郷とし,イスラム教に帰依までしたディネに至っては,失われつつあるものを描き留めようとする意図と,植民地における絵画の商業的側面との間の矛盾や亀裂をより露に示しているようである。

 

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大塚国際美術館

−−複製が可能にした西洋美術史のヴァーチャル空間−−

 

桜井  烈

 

 世界の名画を一堂に集め鑑賞する。夢ともいえる空想の美術館が日本に実現した。昨年春,瀬戸内海鳴門海峡を見下ろす公園の一角に複製絵画のみを展示する大塚国際美術館がそれである。モザイクやフレスコ画を含む西洋絵画史上の傑作をほぼ網羅し,古代ギリシアから現在にいたる美術史を通覧できるという世界でも例の無い美術館である。しかも全て原寸大というのが大きな特徴である。1,000点を超える作品の中にはミケランジェロの 《天地創造》《最後の審判》を複製したシスティーナ礼拝堂やジョットのスクロヴェーニ礼拝堂など建築空間を丸ごと再現した作品もある。複製の素材はセラミックである。

 ではこの美術館がどのようにして出来たのか,実務に携わった一人として主に複製制作の実際を紹介しよう。

 日本六古窯の一つ,信楽にある大塚オーミ陶業は世界に先がけ大型の陶板技術を開発し,印刷と同じように美術品の写真を使い陶板に焼き付ける技術を完成させていた。陶板は耐久性に優れその上褪色することがない。唯一不安に思われたテクスチャーの再現技術もかなりのレベルまで達していた。この技術を背景に空想美術館のプロジェクトはスタートした。

 「1,000点の西洋名画を陶板で原寸大の複製を作り展 示する」途方もないこの計画が動き出したのは1991年のことであった。経済的支柱となった企業の大塚グループ,作品の選定を担当した6人の美術史家,陶板制作に当った大塚オーミ陶業,この三者がプロジェクトの推進者である。

 陶板複製の工程は入手した作品のポジフィルムをスキャニングするところから始まる。次に原寸大の分解フィルムを作りシルク印刷によって転写紙を作る。これを別工程で焼き上げられた陶板に張り付け700〜1,000度の熱で焼き上げる。必要に応じてレタッチを施し焼成を繰り返す。前半は印刷の工程,後半は焼きもの独特の工程である。最終的に6人の選定委員が検品して完成するが,この工程に2,3ヵ月かかる。しかし,ここまで進むのには様々な問題が横たわっていた。

 まず,原寸大の複製を作るためには良質かつ大型のポジフィルムが必要であるが,物理的な問題として3メートルを超える作品は8×10インチの大判フィルムでも1枚では間に合わない。そこで特別に撮影することになる。ルーヴル美術館蔵のダヴィッド《ナポレオンの載冠》は複製した中で最大のタブロー画だが8×10のフィルムで絵を6分割撮影した。今回の美術館の特色の一つ「環境展示」と呼ぶ建築空間の立体展示は更に大がかりな撮影が行なわれた。事前に設計担当者を交えた現地の実測調査はもちろん,撮影許可交渉などにもかなりの時間が費やされた。

 さて,一方で陶板には大きさの制約がある。重量や強度また焼成炉の大きさのため陶板の最大寸法が300×90 センチである。そのため作品によっては2枚3枚と陶板を繋がなければならない。この繋ぎ目を目立たなくすることもクリアーすべき課題であった。ちなみに上記の《ナポレオンの載冠》は34枚の陶板が使われている。

 こうして完成した陶板複製を美術館で展示するためにはやはり額縁が必要である。しかしこれを作るのも大事業であった。全ての時代に適合した額を作る技術は日本にはなく主にイタリアとフランスで作ることになった。特筆すべきはバロック時代の祭壇画衝立の制作である。バロックの作品選定に当った神吉敬三教授はスペインのアラゴン学院にあったエル・グレコの祭壇衝立を復元する案を出し自らその制作指導のためスペイン,イタリアを往復された。12メートルを越す木造の祭壇衝立が金箔も鮮やかに完成した時は制作地ヴィチェンツァでは町中の教会にこれが展示され祝賀会が開かれた。古くから続く世界有数の額縁製作地でもこの規模の仕事は数百年ぶりの出来事であったという。残念なことに直前に他界された神吉教授がその完成を見ることはなかった。こうして大塚国際美術館のプロジェクトは開館前から世界を巻き込んだ動きをすることになった。

 陶板複製の許可交渉で生じた難問などを解決しながら欧米24ヵ国の200の美術館,博物館,80の教会,聖堂, 宮殿,遺跡から選ば れた1,000点 を越す複製は徐々に出来上がっていった。

 開館してほぼ1年,新しいタイプの美術館として運営などに戸惑いはみせながらも客足は上々のようである。かつてアンドレ・マルローは“空想美術館”のなかで複製を評して「写真が美術品の新しい側面を見いだした」と語ったが,この美術館の原寸大の複製から美術における新しい価値が発見されることを期待したい。

                   (編集者)

 

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トリノの詩人 ゴッツァーノ

 

大崎さやの

 

 トリノの郊外30qほどのところに,アリエ(Aglie) という農村がある。ここは今世紀初頭の詩人グイド・ゴッツァーノの,通称メレート(Meleto)と呼ばれる,果樹園に囲まれた屋敷があることでつとに有名である。

 グイド・ゴッツァーノは1883年12月19日,トリノのブルジョワ家庭に生まれた。ゴッツァーノは多少田舎臭いが,文化を愛する地方のブルジョワ的環境の中で育つ。彼が7歳の時父親が亡くなる。トリノ大学法学部に入学するが,結局法学で卒業することはなく,もっぱら文学サークルにいりびたり,そこで出会った様々な友人たちとの交流を通じて,文学に対する広い視野を養う。1907年,24歳の時に結核であることが判明,この病は後の彼の作品に大きく影を落とす。同年に文学仲間だった女流詩人アマリア・グリエルミネッティと恋に落ちるが,最終的に彼女との関係を拒絶,一人で生きていく道を選ぶ。彼女との仲は再び「友人関係」に戻るが,それは1916年の彼の死まで続く。

 ゴッツァーノ詩に特徴的なのは,常につきまとうその死の影である。結核によって死と背中合わせの生を,しかし彼は「生きよう」とはせず,大まじめな生に対してアイロニカルな視点で接することで,その重みから逃避をはかる。1907年に第一詩集『逃避の道La via del rifugio』,1911年に第二詩集『対話I colloqui』を出版するが,彼はそこで19世紀の詩人(とくにダヌンツィオ)の詩をパロディー化,大見得切った「生」を冷めた視線で見つめるという図式をとっている。

 死のテーマは,後の1914年に発表された『蝶々Le farfalle』という連作詩集の中の一 つ,『アケロンツィア・アトロポスAcherontia Atropos』で,不気味な存在である夜の蝶を死の使者と位置づけ,死を具象化するところでその頂点を迎える。生のよりどころを求め続けたゴッツァーノは,1910年の『八月の雨Pioggia d'agosto』の中でそれを「自然」に求めると宣言している。だが,その「自然」もやはり「死」を生み出すものでしかないのだ。

 生,そして死からの逃避は,ゴッツァーノの作品に表れる「現実には生きられなかった生」によって,一層明確化される。

 

  生からすべての約束は取り下げとなってしまい,

  彼は何年も来ることのない「愛」を夢見た,

  女優や王女に命を捧げることを夢見た,

  そして今じゃ十八歳の料理女を愛人にしているのさ。

 

 ここで引用した詩『トト・メルーメニToto Merumeni 』冒頭では「読書用の本に出てく るタイプの」昔なが らのメレートの屋敷と,それを取り巻く環境の変化のさまが描写されているが,そこには19世紀的な雄大な夢を抱くことができる過去のロマンチシズムと,工業化の波が押し寄せつつあるトリノの近代化の間で揺れ動く,詩人の姿がある。

 トリノとアリエの屋敷にあって,古くさい環境からの脱出を夢見ていたゴッツァーノは,1912年にはとうとうインドへの旅行を果たすのであるが,そこで詩人の心を占めるのはトリノへの郷愁,過去の記憶ばかりであった。

 

  陽気な土地,花々のあいだで,

  海の上,帆船のロープのあいだで,

  何度おまえの雪,黒いシナノキ,

  路面電車の轍きらめくまっすぐな道,

  婦人帽子仕立て師の小気味良い愛想を夢見たことか,

  ああ悦楽にこと欠くことなき都よ!

               (『トリノTorino』)

 

 常にそこから逃避したいと思いつつ,戻ってきてしまう場所トリノは,詩人の中の「ゆれ」のメタファーであり,またその中心点である。新しい詩を求めての詩人の冒険は,ゴールに達することはなかったものの,その生と死,現在と過去の間を揺れ動く視点は,19世紀詩から20世紀詩への改革の先鞭をつけるものであったことは間違いないだろう。

 

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学会からのお知らせ

 

*会費口座引落について

 すでにお知らせしておりますように,現在,年会費等を「郵便振替」等で実施していますが,1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施することになりました。

 「口座振替依頼書」については月報の215号(前 号)に同封してお送りしています。まだ事務局へ返送されていない方は,下記締切までにお送り下さいますようお願い申し上げます。

 会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,会費請求データは学会事務局で作成し,個人情報については外部に漏れないようにします。

・会員のメリット等

 振込みのために金融機関へ出向く必要がない。

 毎回の振込み手数料が不要。

 通帳等に記録が残る。

・事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。

・連絡事項

 「口座振替依頼書」の提出期限:

 1999年2月26日(金)(期限厳守をお願いします)

 口座引落し日:1999年4月23日(金)

 会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。

 

 また,「家族会費割引」の適用を希望する方は,会費を一括して納入する会員の「口座振替依頼書」に添付して事務局までご連絡ください。

 受付期限は同じく1999年2月26日(金)です。常任委員会で審査のうえ,結果をお知らせします。

家族会費割引:他の会員と同居する会員(家族,配偶者,その他)が機関誌,刊行物,名簿等の配布を希望しない場合には,常任委員会の承認を得た上で,正会員会費13,000円から5,000円, 学生会員会費6,000円から2,000円 の割引

を受けることができる。ただし割引を受ける者は通常の配布を受ける他の会員を一名指定し,その会員が割引会費も一括して納入することとする。

 

 なお,両制度とも来年度会費から実施しますので,今年度会費を未納の方は,至急,お振込みくださいますよう,お願いします。

 

 

 

 



地中海学会事務局
〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201
電話
03-3350-1228
FAX 03-3350-1229




 
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