地中海学会月報 215
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        1998|12  




   -目次-

学会からのお知らせ

*1月研究会

 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集ください。

テーマ:サンティアゴ巡礼路のロマネスク美術−−英雄と聖人−−

発表者:浅野ひとみ氏

日 時:1999年1月30日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館3階311教室

参加費:会員は無料,一般は500円

 12世紀末、アラゴンのロマネスク彫刻作例には、レコンキスタを象徴する主題が好まれた。シャルルマーニュは『偽テュルパン年代記』の冒頭で聖ヤコブより国土回復を命じらが、この挿話は、シャルトルのステンド・グラスに表される。また、それ以前のルナのサン・ヒル教会の装飾にも聖アエギディウス伝中の別の挿話が採択されている。本研究会では、聖人伝形成過程での英雄伝挿話の導入に焦点をあて、新知見を含めて考察する。

 
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*第23回大会研究発表募集

 来年6月26日・27日(土・日)の二日間、大阪芸術大学(大阪府南河内郡河南町東山469)にて開催する第23回 地中海 学会大会の研究発表を募集します。

 発表を希望する方は,2月12日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局 へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。

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*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

 地中海学会では第4回「地中海学会ヘレンド賞」(以下ヘレンド賞,第3回受賞者:澤井繁男氏)の候補者を下記の通り募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(50万円,その他)が授与されます。授賞式は第23回大会において行なう予定です。応募申請用紙を希望する方は事務局までご連絡ください。

ヘレンド賞

一,地中海学会は,その事業の一つとして「ヘレンド賞」を設ける。

二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。

三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その  業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。

募集要項

・自薦他薦を問わない。

・受付期間:1999年1月11日(月)〜2月12日(金)

・応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

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*会費口座引落・家族会費割引について

 先にお知らせしました通り,来年度から会費に関して下記の通りになります。今年度会費を未納の方は,至急お振込みくださいますようお願いします。

会費口座引落:現在,年会費等を「郵便振替」等で実施していますが,1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施することになりました。

 「口座振替依頼書」については本号に同封してお送り致しますので,お手元に到着次第ご返送下さいますようお願い申し上げます。

 会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,会費請求データは学会事務局で作成し,個人情報は外部に漏れないようにします。

・会員のメリット等

 振込みのために金融機関へ出向く必要がない。

 毎回の振込み手数料が不要。

 通帳等に記録が残る。

・事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。

・「口座振替依頼書」の提出期限:

 1999年2月26日(金)(期限厳守をお願いします)

・口座引落し日:1999年4月23日(金)

・会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。

家族会費割引:1999年度会費より家族会費割引の制度が実施されます。適用を希望する方は,会費を一括して納入する会員の「口座振替依頼書」に添付して事務局までご連絡ください。

 受付期限は同じく1999年2月26日(金)です。

「家族会費割引」 他の会員と同居する会員(家族,配偶者,その他)が機関誌,刊行物,名簿等の配布を希望しない場合には,常任委員会の承認を得た上で,正会員会費13,000円から5,000円,学生会員 会 費6,000円から2,000円の割引を受けることがで きる。ただし割引を受ける者は通常の配布を受ける他の会員を一名指定し,その会員が割引会費も一括して納入することとする。

 

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事務局冬期休業期間:

1998年12月26日(土)〜1999年1月7日(木)

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春期連続講演会「地中海:善悪の彼岸」講演要旨

悪徳と恥辱にまみれたローマ人?

本村 凌二

 われわれはローマ人についていかなるイメージをいだいているだろうか。ときには純朴で実直な農民であったり,あるいは質実剛健な軍人であったり,さらには享楽的な市民と退嬰的な貴族が入り乱れていたりする。とりわけ,最後のイメージは「ローマの平和」に甘んじ「パンとサーカス」にうつつをぬかす泰平の世の象徴としてとりあげられることが多い

 この世は恥辱と悪徳に満ち満ちている。かく人々がしばしば自嘲気味に語るとき,泰平の世のローマ人はまさしくその典型とも言えるものであった。なぜ,ローマ社会はこのように語られるのであろうか。また,ほんとうにローマ社会は恥辱と悪徳にあふれていたのであろうか。

 タキトゥスやスエトニウスなどの史料をひもとけば,このようなイメージが形成される事例に事欠かない。アウグストゥス帝の娘ユリアのあきれるほどの放蕩,カリグラ帝の陰惨きわまる放縦,売春皇妃メッサリーナのけがれた淫乱,ネロ帝の親族殺しと際限のない淫蕩などなど。こうした事例を並べれば,「恥辱と悪徳に満ち満ちたローマ人」という紋切型の印象ももっともだという気がする。しかし,この印象はほんとうに歴史の実態にそくしたものであるのだろうか。

 このような疑問をいだくとき,ローマ帝政初期の風刺詩人たちの作品は何らかの手がかりを与えてくれそうである。

 紀元前1世紀末のホラティウスにあっては,人妻を追いまわしたりするような性行為は何の役にも立たない。姦通は名誉も財産も危険にさらしかねない愚行にすぎない。詩人はそうした場面を突き放しながら滑稽に描き出す。そこには「冷笑」の感性とでもいえるものがある。

 紀元1世紀末のマルティアリスにあっては,性をめぐる事象が人間の身辺を脅かしているごとく感じられる。とりわけ,優位であるべき男性の尊厳を傷つけるような性行為がはびこっているのが腹立たしい。こうした現実にたいして,詩人は「男らしさ」「女らしさ」といった理念・嗜好をよりどころに滑稽な対象を笑いとばす。そこには「嘲笑」の感性とでも呼べるものが息づいている。

 紀元2世紀初頭のユウェナリスになると,性をめぐる言動はもはや男性や女性といった次元を超えて,人間の尊厳そのものを脅かしている感がある。それらは追い払っても追い払っても人間の周辺に付きまとってくる。それらをのがれるためには,ただ憤るだけではすまない。詩人は激情にかられて憤りながらも,しっかりと道義を見据え人間の尊厳を回復しようとする。こうした姿勢を「義憤」の感性と呼んでおきたい。

 このようにして三人の風刺詩人に注目すれば,「冷笑」から「嘲笑」を経て「義憤」にいたる詩人たちの感性の変質をたどることができる。この変質とはいかなるものであるのだろうか。おそらく,そこには「性」にまつわる事柄を「汚らわしい」ものとして忌み嫌う意識が次第に強くなっているような気がする。言い換えれば,性的事象を日常生活から排除する意識,あるいは異常なものと見なす意識が徐々に現出しているかのようである。

 ローマ社会が恥辱と悪徳に満ち満ちているという印象は,現実の出来事がますます爛熟し淫蕩をきわめるようになったと理解すべきではない。むしろ現実を見つめるまなざしが変わったのである。風刺詩人たちの性意識をたどれば,その変質の様相がはっきり浮かびあがるのである。

 いかにして性を「汚らわしい」ものとして感じる意識が萌してきたのか。それを問うことは世界史上の大問題であろう。それは今日「古代末期」といわれる時代に,性を忌避する傾向が禁欲倫理へと昇華されたと指摘されることに通じている。やがて聖者や隠遁者がもてはやされるキリスト教の時代が訪れる。しかし,その予兆はキリスト教がほとんど認知されなかった時代にすでに感知されていたのである。

 ニーチェは,宗教的神経症の特徴として孤独,断食,性的禁欲をあげながら,「宗教的神経症のもっとも通例の症状として,なお放埒きわまる淫蕩のまことに突発的な現われが見られ,これがやがて同じように突如として懺悔の痙攣や世界否定・意志否定に転化する」(『善悪の彼岸』)と洞察する。ローマ人の経験はその格好の事例なのだろうか?

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研究会要旨

シトー会建築とパッラヴィチーノ家

−−北イタリア・エミリア地方におけるシトー会建築と

  ゴシックの受容(12〜13世紀前半)−−

児嶋 由枝

10月24日/上智大学

 碩学パウル・フランクルは,名著『ゴシック建築』の中で,イタリアのゴシック期建築を論じながら,こう自問している「Is this Gothic really Gothic?」。確かにイタリア のゴシック期建築は,イル・ド・フランスに見られるような所謂ゴシック建築とは全く趣を異にする。

 イタリアには地方色豊かなロマネスク建築の伝統がある。そこに伝えられたフランス・ゴシックは,各地方の独自の伝統のなかに取り込まれ,咀嚼されていったのである。とはいえ,イタリア・ゴシック期建築の研究の歴史は浅い。また,各地方によってゴシックの受容の状況が著しく異なることもあり,全体を総観する体系的な枠組みが提示されるにはまだ程遠い状況である。

 イタリアのゴシック期の建築を論じる際に必ず問題にされるのは,シトー会の役割である。他の西欧諸国と同様にイタリアにおいても,シトー会を介して種々のフランス・ゴシック建築の要素が受容されたからである。北イタリア・エミリア地方も例外ではない。この地方には,1134年頃に聖ベルナール自身によってキアラヴァッレ・デッラ・コロンバ修道院が創建され,その後幾つかの娘修道院も設けられた。そして,これらのシトー会建築を通じて同地方にゴシックが伝播された。しかし,同地方でのシトー会修道院教会の造営経過,さらにフランスのシトー会建築やゴシック建築の受容の経過については未だ詳らかでない。その背景には,研究の遅れに加え,同地方のシトー会修道院造営を直接伝える同時代の文書資料が現存していないことが指摘される。

 この問題に関し,発表者は,12世紀から13世紀中庸にかけてのエミリア地方の,シトー会以外の建築をも,−−世俗建築や,当時の遺構が僅かしか現存していないものも−−視野に入れて,現地調査,古文書調査を行った。そこから,以下の3点が明らかとなった。先ず,同地方の12世紀中庸のシトー会建築は,フランスの所謂シトー会建築のプランと同地方の伝統的クーポラ架構技術とが融合したものであったこと,そして,12世紀末から13世紀初頭にかけて,同地方にシトー会を通じてフランス・ゴシックの要素が導入されたことである。これは,従来の説が設定していた年代を約半世紀遡らせるものである。これまでは,12世紀中庸にはフランスのシトー会建築に倣って尖頭形半円筒ヴォールトが計画され,それが同世紀末にこの地方の伝統的工法であるクーポラ状4分ヴォールトに変更された,また,フランス・ゴシックの要素は13世紀半ばに伝えられたと考えられていた。次に,12世紀中庸の,シトー会の規範に従った幾何学的な建築装飾は,地元の工人たちの手がけたと考えられることである。そこには,この地方にしか認められない独特の自由な造形感覚が窺われる。第3に,シトー会を介して伝えられたゴシックの要素が,同地方固有の建築の伝統のうちに消化されたことである。変形されたクロケット柱頭,尖頭形となったクーポラ状4分ヴォールト,クーポラ状傘型ヴォールトなどが挙げられる。ヴォールトをクーポラ状にすることで,飛梁や大掛かりな扶壁が避けられている。そして、内部空間には、フランス・ゴシックにおけるような垂直感ではなく、古典的とも言える調和と均衡が与えられている。因みに,これらが12世紀末から13世紀初頭のものとすれば,エミリア地方は,イタリアで最も早くゴシック建築の要素が取り入られた地方の一つとなる。

 ところで,発表者は,様式分析を手掛かりに,この時期のエミリア地方には,シトー会という枠組みを超えて建築に従事する地元の工人集団が存在していたと想定している。この工人集団がシトー会修道院造営に参加することによって,シトー会によってに伝えられたフランスのシトー会建築及びゴシック建築はこの地方の伝統と融合したのであり,さらに,そこから生まれた固有の建築は,彼らの手によってシトー会以外の建築にも広められたと考えられるのである。

 この工人集団に帰される建築は全て,同地方の封建領主パッラヴィチーノ家と関係するものである。恐らくこの工人集団は,パッラヴィチーノ家のもとで建築に携わっていたのであろう。ここで注目されるのは,パッラヴィチーノ家が,シトー会修道院を自身の勢力圏内に創設することに尽力したことである。この時期パッラヴィチーノ家は,強大化する周辺都市国家に対抗し,神聖ローマ皇帝を後ろ盾に勢力の伸張を図っていた。そうした状況のなかで,パッラヴィチーノ家は自身の勢力圏の経済的,さらに宗教的安定のために,シトー会を活用しようとしたと考えられる。当時シトー会は,治水や開墾の技術の優秀さで知られ,また,新たな理想を唱える修道会として広く受け入れられていたのである。そして,パッラヴィチーノ家のもとで活躍していた工人集団がシトー会修道院造営に参加することによって,同地方の建築の新しい展開に寄与したと考えられるのである。

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秋期連続講演会「芸術家の地中海遊歴―15世紀から19世紀まで―」講演要旨

        やはり放浪好きな近世の芸術家たち

           小佐野重利

 まともに結婚し,立派な職を持ち,一戸を構えて平穏に暮らしている町人四人の男が夕方になって酒を酌み交わし,飲み過ぎ頭が葡萄酒でかっかとしてくる。唐突に一人が,「俺が好きなら一緒にどうだ...ガリシアの聖ヤコブ様までお参りにいくぞ」と言い出す。 するともう一人がすっと立ち上がって,「この俺はサンティヤゴ・デ・コンポステーラにゃ行かねえ,ローマに行くぞ!」。残る二人が宥めにかかる。まず最初はガリシアのはてなるサンティヤゴへ行こう。そこからローマへ回ろうじゃないか...俺たちも行くぜ。そ こで四人は大杯になみなみと葡萄酒を満たし,回し呑み,固めの杯を交わす。定法通りに誓いが立てられた以上,後へは退けぬ。...そこで一同は出発した。さてこの四人の巡 礼のうち,一人はイスパニアで死んでしまい,もう一人はイタリアで死ぬ。三人目はフィレンツェで重病の床に臥す,彼と別れた最後の一人だけが一年後に,疲労困憊し,老け込み,尾羽打ち枯らして戻ってくる...(二宮敬訳/リュシア ン・フェーヴル著『フランス・ ルネサンスの文明』  ちくま学芸文庫)

 1522年バーゼルのフローベン書店から新版として刊行されたエラスムス『対話集Colloquia』に初出の話「向こう見ずな願掛け」をこのように要約してから,歴史家フェーヴル は,「空想ででっち上げたクロッキーと読者はお考えになるかもしれないが,断じてしからず,これこそ当時の−−われわれとは遠く離れてしまった当時の慣わしなのだ」と付言する。

 都市経済が成熟に向かい,ヨーロッパ各地で王や領主が華やかな宮廷を営んだ15世紀以後にも,中世同様に,旅行への衝動やその日暮らしの気軽な放浪癖はヨーロッパ人の大半の心を捉えて離れなかったようである。もちろん,芸術家もその例外でない。

 1428年10月から翌年12月まで,ブルゴーニュ公フィリップ善良公の侍従兼宮廷画家ヤン・ファン・エイクは,ポルトガル王ジョアン1世の許にフィリップ公より自身の3度目の公妃候補に挙がったイザベッラ姫との婚約交渉のため派遣された使節に随行して,現在の見合い写真に相当する同姫の肖像画を描いた。実は,その交渉経緯を公に伝える使者にその肖像画を届けさせ,公からの婚約の諾否を待つ間に,使節一行はサンティアゴ・デ・コンポステーラに巡礼を敢行している。これは,いわゆる君主のための代理巡礼を兼ねていた。1436年ヤンの行った,恐らく聖地への密命旅行も従来考えられているような十字軍派遣のための下見調査というよりも,公および公妃のための代理巡礼ではなかったか?

 アルプス山脈などを越えて,あるいは地中海航路によって地中海地域へ向かう旅行には15世紀になっても生命を危険に晒す幾多の難儀が伴い,旅篭も十分には整っていないし,旅費その他の経費も相当に嵩む。そこで,芸術家も聖年のためのローマ巡礼などの集団の旅,使節への随行や遠征軍への従軍といった,生命を危険に晒す機会が少なく,路銀その他を倹約できる,いな,稼ぎ出せるような旅行をしたようだ。しかも,純粋に芸術的な目的よりも,やはりまだ中世的な巡礼という宗教感情と糊口を凌ぐ生活の必要から行った。

 まず,ロヒール・ファン・デル・ウェイデンによる1450年の聖年のローマ巡礼旅行とフェッラーラ滞在について紹介する。次いで,フィラレーテ『建築論』(1460〜67)やフランチェスコ・フィオリオの書簡形式の『トゥール市へのエレジー』(1477)よりローマはサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂に,時の《教皇エウゲニウス4世と二人の側近》(教皇の肖像部分からの版画のみパリ国立図書館に現存)を描いたトゥールの画家ジャン・フーケのイタリア滞在を再考する。特に彼の手に帰されるフェッラーラ侯ニッコロ3世・デステの《道化師ゴネッラの肖像》(ウィーン美術史美術館)の制作背景に関連して,カルロ・ギンズブルグが提示したエステ家関係の新出史料から,ジャン・フーケが1446年フランス皇太子宮廷総裁ラウール・ド・ゴクールの随臣としてフェッラーラに滞在し追い剥ぎに遭うが,フェッラーラ侯の施しのお蔭で「ガリシアの聖ヤコブの墓所」に参拝に出かけようとしていることが判明する。最後に,1535年末もしくは翌年春にネロ帝の黄金宮の廃墟に入り,「Volta neraの間」に落書き署名を残した北方の3画家のうち,そこにHer[man] Postmaと刻みながら,4世紀半近く忘却されていた画家Hermannus Posthumusの1984年新 出作品,サインおよび年記を伴う《廃墟の ある風景》(リヒテンシュタイン公国ファドゥーツ城)を採り上げる。ニコール・ダコスによる画家の画歴の再構成によれば,彼は1535年7月から9月まで神聖ローマ皇帝カール5世の対トルコ遠征軍に従軍して,スペイン経由で戦場テュニスに赴き,帰路にローマ,マントヴァと仕事を求めながら遍歴した。

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       ヴェネツィアの宮廷劇

      −−モマリアについて−−

           和栗 珠里

 ヴェネツィアは商業オペラ発祥の地と言われる。フィレンツェの宮廷で生まれ,その後もマントヴァなどの宮廷の中でだけ上演されていたオペラが,切符を買った一般大衆に初めて公開されたのは1637年,ヴェネツィアのサン・カッシアーノ劇場においてであった。

 この画期的な出来事がヴェネツィアで起こったのは,ここが商人の都市だったからだというのが通説である。しかもヴェネツィアは君主のいない共和国であり,権力と結びつく宮廷文化とは異質の文化をはぐくんだ土地柄であったと考えられている。だからヴェネツィアでは宮廷オペラと軌を異にする商業オペラが生まれたのだというのである。

 ヴェネツィア共和国に宮廷はなかった。これは事実である。しかしそのことは,宮廷的な文化の不在を必ずしも意味しない。少なくとも15・16世紀,いわゆるルネサンス期のヴェネツィア貴族たちは,フィレンツェやフェッラーラなど周辺都市で隆盛しつつあった宮廷文化にかなり傾倒していたのである。舞踏会や馬上試合(ただし,たいていは人足が担ぐ作り物の馬に乗って)や饗宴を催したり,アカデミアを形成したり,といったことが盛んに行われたが,なかでも特筆すべきは,モマリアmomariaと呼ばれた無言寓意劇の流行 であろう。なぜならこれは,オペラの前身とみなされる宮廷劇の一種に他ならなかったからである。

 モマリアは,語源的にも内容的にも,古代ギリシア・ローマのパントミムスにルーツを持つ。これは仮面を付けた役者が身振りによって演じる無言劇で,音楽や歌を伴っていた。古代ギリシアでは日常生活に題材をとったコミカルな社会風刺劇としての性格が強かったようだが,古代ローマでは神話的色彩も加わり,帝政期に大流行した。中世になるとこのジャンル自体は姿を消すが,民衆劇や聖史劇,あるいは国王の入城式の中に形をとどめて生き続け,ルネサンス期からバロック期にかけてヨーロッパ各地で宮廷劇として華々しく復活するのである。

 フィレンツェではインテルメッツォ,フランスではバレエ・ド・クール,イギリスではコート・マスク,ヴェネツィアではモマリアなど,様々な名称を持ち,またイタリア各地でしばしば単に劇(ラップレゼンタツィオーネ)と呼ばれた宮廷劇は,大筋において全て同じものと言ってよい。これらに共通した最大の特徴は,王侯や貴族が催す祝祭での様々な出し物のうちのひとつであったこと,大がかりな舞台装置や豪華な仮装を伴う大変贅沢なスペクタクルであったことである。また,劇は台詞よりは身振りや踊りによって進行し,音楽や歌も重要だった。演じられる内容は主に神話に題材をとったアレゴリカルなもので,アポロンやミネルヴァやネプチューンといった神々,四季や諸美徳を表す人物,牧人やニンフなどが登場した。

 他の国々では君主の絶対的権力の誇示や賛美と結びつく傾向の強かった宮廷劇がヴェネツィアでも見られたことは,当時のヴェネツィア貴族社会に起こりつつあった変化を考えれば驚くに値しない。モマリアが流行した15世紀から16世紀にかけて,ヴェネツィアの貴族,とりわけ上層の人々は,商業を棄てて本土に広大な土地を買い,領主として生きるようになった。同時に,貴族共和政内部での寡頭支配化が進み,一握りの有力家門が政治の実権を握るようになった。そして,貴族の中でも生え抜きのエリートたちは,自らの富と権力,さらには祖国ヴェネツィアの威信を示すため,モマリアを含む絢爛豪華な祝祭を繰り広げた。そこには,君主制をとる他の国々に類似した社会文化的なコンテクストが見出されるのである。

 ヴェネツィアがオペラの一大中心地となったのは,もともとモマリアが貴族の間に定着していたからである。いや,貴族だけではない。モマリアはしばしば,大運河や広場などのオープン・スペースでも上演され,庶民たちも目にすることができた。しかも,すでに16世紀の前半に料金制の観客席が設けられた例さえ見受けられるのである。たとえば,1526年の謝肉祭にサン・マルコ広場で上演されたモマリアの場合がそうである。このモマリアを主催したのは,他ならぬヴェネツィア政府であった(Sanudo, Diarii, XLIV, 171-172)。

 ヴェネツィアのモマリアが持っていたこのような公衆性の背後には,いわゆる「パンとサーカス」の政策原理もあったように思われる。商業離れと寡頭支配,言い換えれば保守化に向かって柔軟性を失っていくヴェネツィア社会で,貴族共和政府が最も恐れたのは大衆の不満であった。安定した食糧供給や賃金の高水準維持と並んで,庶民に絶えず娯楽を提供することが共和国の政治的「平穏」の鍵だったのである。

 

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クリスティアーヌ・クラピッシュ・ズベール教授の来日

亀長 洋子

 数年前,出身研究室の院生有志で発行している同人誌『クリオ』で,歴史学を学んでいる大学院生を対象に行われたアンケートに返答した。その中に,「これまでの研究生活の中で,特に感銘を受けた書物・講義は何ですか」という質問項目があった。何をあげようかと迷ったのち,米国人ディヴィッド・ハーリイとフランス人クリスティアーヌ・クラピッシュ・ズベールの共著『トスカーナ人とその家族』(David Herlihy et Christiane Klapisch-Zuber, Les Toscans et leurs familles. Une etude du catasto de 1427, Paris 1978)を選んだ。同書は膨大な徴税台帳の分析にもとづく,西洋中世歴史人口学の最大の成果といえる大著である。

 その著者の一人で,中世イタリア家族史・女性史・支配層研究の大家であるクラピッシュ教授(フランス国立社会科学高等研究院研究部長)が,さる10月に来日し,東京と京都で研究会が催された。東京での研究会は,比較都市史研究会,日仏女性研究学会,周縁・媒介・アイデンティティ研究会の共催で行われ,数多くの研究者が参加した。研究会のさい通訳を務められた藤田朋久氏のご厚意で,筆者は研究会前日の都内観光にも同行させて頂き,教授とより長くお話しする機会を得た。ここでは教授の二日間の印象と雑感を述べたい。

 研究会は,「ルネサンスのイタリア都市における公の空間と女性」という演題で行われた。コムーネの庁舎といった政治的・司法的空間に女性が立ち入り禁止であったことや,祝祭や儀礼への女性の関わり方,さらには婚姻,財産等,実に多くのテーマについて,中世後期フィレンツェの社会構造のなか,女性がどのような論理で公の場から排除されていたかが,豊富な事例の積み重ねによって精緻に論じられた。女性固有の狭い問題にとどめず,女性がおかれている社会構造から議論を展開するという教授のスタイルが十分に発揮された発表であった。

 このときとりわけ私の印象に深く残ったのは,質疑応答のさいの教授の受け答えである。列席者の性格上,例えば「ここで説明なさった親族構造は,違う時代においてもイタリアの特徴といえますか」等,大きな問題を問いかける方が多かったのだが,教授は,自分の研究対象である中世後期トスカーナという限定された枠組みを崩さず,前述のハーリイが,イタリア的な特徴を初期中世にまで遡って論じたことをさりげなく批判した。このほか「当時○○なことはありえたでしょうか」という趣旨の質問も多くみられたが,そのたびに教授は,報告の論旨を再確認させつつ個別事例をあげて丁寧に説明し,憶測で語ることを避けられた。

 雑談の場面で交わすさりげない会話でも,教授の堅実さを好む姿勢は貫かれていた。「あなたが目下取り組みたいと思っておられるテーマは何ですか?女の歴史(教授は翻訳が藤原書店から刊行された『女の歴史』の編者の一人でもある)ですか?」という筆者の質問に対し,教授は間髪を入れずに「いいえ」と答えたあと,一瞬困った風に考え込み,「かたい,統計的な(duro e statistico)」仕事が好きだといった。家族史には,社会学や人類学の理論を用いた推論で議論をごまかすような著作が少なからず存在する。この返答により,クラピッシュ教授の論考の堅実さが,数ある家族史研究のなかで私自身を引きつけた一因であったことに,そのときはっと気がついた。

 教授にとって,歴史人口学も家族史も「流行もの」ではなく,堅実な研究を行う対象であったことは,二日間を通じて実感されたことの一つである。「フランスの研究者達は,歴史人口学のブームが過ぎ去ったあとも,自分がこのテーマに関心をもっていることを不思議に思っている」という台詞を何度か教授は口にした。学問に流行があることは避けがたいものであり,そのなかで,学問の堅実さと流行とは一致するとは限らない。また,大家になればなるほど,本意とは別に「流行へのおつきあい」の学問も余儀なくされよう。教授の名著・名論文をいくつか話題に出したとき,教授はしばしば「もう何年も前の仕事だわ」とやや寂しそうに微笑み,またアルキヴィオに通い詰めた日々を遠い夢のように語り,さらに,自身の最初の研究テーマである美術経済史研究への郷愁を冗談めかして口にした。

 大家になるまでの幸福な研究生活と,大家ならではの疲労感。研究とは何か,また,幸福な研究生活とは何か,を考えさせられた二日間だった。ある研究者が「クラピッシュ教授は決してブルクハルトをめざさない人だ」とつぶやいた。大文明家になるもよし。ならなくてもよし。教授の研究範囲は必ずしも広いものではないが,ブルクハルトよりも極東の女学生をはるかに魅了しましたよ,とふいに伝えたくなった。

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表紙説明 地中海:祈りの場4

       ローマのプロテスタント教会/末永 航

 イタリアの町を歩いていると,いったいどうしてこんなにたくさんの教会があるのだろうと思うことがある。ことに教皇のいる「聖なる都」ローマには,桁違いに多くの実にさまざまな種類の聖堂がそこここにある。

 その中で意外に多いのが異邦人のための教会である。宗教上の大使館のような意味をもつこともあるそうした教会はフランス,スペイン,ドイツと挙げ出せばきりがないほどで,外国人のプロテスタントのための教会だって立派に存在する。

 今回表紙に掲げたのは,アメリカ聖公会のセント・ポール・ウィズイン・ザ・ウォール聖堂である。聖公会はイギリス国王を首長と戴く英国国教会からはじまった宗派だがアメリカにも有力な信徒が多い。教会は大通りヴィア・ナツィオナーレに面し,ローマに行けば誰もが前を通っているはずなのにここに気づく人はまずいない。

 ローマとは一見場違いな取り合せだが,1873年にできたこの教会の建築と美術は,聖公会の本家イギリスで当時新しい流れをつくりつつあった重要人物たちが手がけたものだった。

 建築全体は後に華やかなゴシック調でロンドンの王立裁判所をつくるジョージ・エドムンド・ストリートが,中世イタリアの感じを強調して設計している。内部の壁に使われているタイルはアーツ・アンド・クラフツ運動の指導者ウィリアム・モリスのものである。そして内陣を中心に3層にわたるモザイクをデザインしたのはラファエル前派を代表する画家エドワード・バーン=ジョーンズだった。盟友ともいえる3人だが,それぞれ旧来の古典主義に反発しながらイタリア美術に学んだところは大きく,ローマとも縁浅からぬ人たちである。

 この宗教画の一部ではルネサンス絵画に倣って同時代の人物の顔を描いている。聖アンブロシウスは1913年このローマで亡くなることになるアメリカの大富豪J.P.モルガン(モーガン)だという。

 日本人では,札幌農学校でキリスト教に目覚め,アメリカでも厳格な新教の大学に学びながらやがて教会から離れていく有島武郎が,1906年10月留学の帰途ローマに滞在して二度もこの教会を訪ねている。

 イギリスから送られた下絵をもとにイタリアで制作されたモザイクはバーン=ジョーンズの意図したとおりにはならなかったらしい。そのせいもあってこの画家の研究ではこの作品はそれほど重視されていないし,モリスやストリートについてもほぼ同じことがいえる。しかし他ならぬローマで多様な人々の思いが交錯するこの祈りの場は,夥しい異邦人を惹き付けてきた地中海の近代を象徴しているといえるのではないだろうか。

 

 

 

 



地中海学会事務局
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