地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第44回大会の延期について

地中海学会は、2020年6月13、14日開催予定の地中海学会第44回大会の日程を2020年11月21、22日に延期することを決定しました。
コロナウィルスの感染拡大による外出自粛、イベントの自粛、さらに緊急事態宣言を受けて、2019年度第4回常任委員会をメール審議の形で開催し、大会の開催の可否を検討した結果、予定通りに大会を実施することは難しいと判断に至り、延期を決定いたしました。新たな日程は、既に開催延期を決めた関連学会の日程及び開催校である関東学院大学の行事日程を考慮して決定いたしました。
何とぞご理解をお願いいたします。

第44回総会について

大会中開催予定の第44回総会については、決算・事業報告、予算・事業計画などのご承認をいただく必要あるため、議案書を送付する書面審議にて行うことが常任委員会にて決定されました。
6月中に議決権を持つ会員の皆様の手元に議案書が届くように、手配いたします。

地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞

2019年度地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞について、慎重に選考を進めた結果、以下の通りに授与することとなりました。

地中海学会賞:受賞者なし

地中海学会ヘレンド賞:伊藤拓真氏

伊藤拓真氏の『ルネサンス期トスカーナのステンドグラス』(中央公論美術出版、2017年2月25日)は、先行研究を真摯に検討した上で、ルネサンス期のイタリア・トスカーナで制作されたステンドグラスの現存作品と文書資料を様々な観点から綿密に分析し、その展開を編年的に把握して考察した研究書である。第一部では、ガラスの製造と調達、人物像と背景と装飾枠の色彩選択やグリザイユ技法、ステンドグラス師と下絵を提供した画家、そして注文主の関係、また聖堂空間におけるステンドグラス装飾など、制作手順や表現上の特性が絵画とは著しく異なるステンドグラス芸術を理解する上で不可欠な諸問題について、北方との比較を含め、論じている。第二部では、フィレンツェ大聖堂をはじめトスカーナ各地、プラート、ピサ、ルッカ、アレッツォなどに現存するルネサンス期のステンドグラス各作品を編年的に検討し、聖人像の背景の様式的変化やステンドグラス師と工房の問題も扱っている。
イタリアのステンドグラスについては、これまで一部の著名な作品に関する個別研究が主流で、包括的な研究はほとんど行われておらず、また日本では類例のない貴重な研究となっている。多くの研究では、ドナッテッロ、ギベルティ、フィリッポ・リッピなど著名な画家が下絵を提供したステンドグラスについて、画家の素描を軸とした議論しかなされず、ステンドグラス特有の表現やステンドグラス師の役割といった視点を欠いてきた。下絵を提供した画家とステンドグラス職人が互いの技法に習熟するという共同制作の深化につれて新たな様式が成立したとの指摘は、旧来の研究方法では見落とされており、高く評価できる功績である。よってここに地中海学会ヘレンド賞を授与する。

『地中海学研究』について

『地中海学研究』XLIIIの内容が、以下のように決まりました。近日中にお手元にお届けする予定です。
《論文》
「古代ローマの皇帝親衛騎馬部隊騎士の墓碑──その身分と浮彫馬事図像──」中西麻澄
《研究ノート》
「ギリシアの初期鉄器時代における車輪付き土製品とその社会的背景」髙橋裕子
《書評》
「ランシスコ・パチェーコ『『絵画芸術』三書概要・抄訳、図像編全訳、論考』」木村三郎
《大会シンポジウム要旨》
「地中海学会第43回大会シンポジウム『文化遺産と今を生きる』」奥村弘・深見奈緒子・松田陽・山形治江

アテナイの疫病と名演説の妙
佐藤 昇

このところ、日々の情勢を伝える各国の記事に目を奪われてしまう。数値や政策を伝える報道に加え、人文系を含む各方面の「専門家」たちの論説、番組などにも目が向いてしまう。過去の疫病を紹介し、そこから道徳論的に論を結ぶものも少なくない。職業柄、古典古代、中でもアテナイの疫病に触れる記事に対しては、どうしても敏感になってしまう。紀元前5世紀後半、ペロポネソス戦争開戦直後のアテナイを襲った疫病である。

歴史家トゥキュディデスは著書『歴史』の中で、感染拡大の様子を詳細に描き出している(2巻47-58節)。エチオピアで発生したという前代未聞の病が東地中海を襲い、ペイライエウス港からアテナイ市内へと拡大する。健康な人々が突如病に侵され、高熱、目の充血、咽頭痛、咳、嘔吐に苦しみ、熱と渇きで眠ることもままならず、多くが高熱により8日前後で死亡し、さもなくば更なる苦痛の末に衰弱して息絶えた。感染を警戒して看病や葬儀も満足に行われず、市内は死屍累々。社会秩序も崩壊し、人々は礼節を守らず、人目を憚らずに恥ずべき行為に手を染め、法も神をも畏れずに刹那の享楽を求めた。

この凄惨な記述から、今何を読み取るべきかは、各人に委ねたい。しかし、作者自身はそもそも如何なる意図で疫病流行の記事を作品に編み入れたのだろうか。死亡者数が戦局に与えた影響でも考慮したというのだろうか。この点を探るべく、まずは作者が疫病の記事を如何なる文脈に配したのか、考察を試みたい。疫病の記述が始まる直前に配されているのは、世に名高いペリクレスの葬送演説である。前431/0年、ペロポネソス戦争勃発初年度にアテナイでは慣例に従い戦没者に対する国葬が催された。当代随一の政治指導者ペリクレスは、演説を通じて戦場で落命した兵士たちを追悼し、遺族や住民らを慰撫、鼓舞した(2巻35-46節)。この演説がペリクレス自身の言葉をどれほど如実に反映しているのかは、些か判断し難い。少なくともペリクレス本人、そして彼の演説に対する作家トゥキュディデスなりの理解が、ある程度反映されていることは間違いないだろう。

ペリクレスはこの演説を緒言と祖先称賛で始めたのち、アテナイ民主政の理念、美徳を高らかに称揚する。曰く、自国の体制は他を追従するものではなく、他の範となるものである。誰であれ国に資する力があれば、貧窮に妨げられることなく、自由に公事に携わることができる。私事においては互いに猜疑心を持つこともなく、隣人が快楽を享受しようとも立腹しない。しかし公事に関する限りは法を遵守し、指導者に従う。厳格な訓練を課さずとも市民は勇武の気質を保ち、危難に怯むこともない。行動の前には理性ある審議を重ねる。徳にも優れ、損得ではなく、ただ友人に貢献することを重んじる。これほど理想的な国を兵士たちは命を賭して防衛したのだと言って、ペリクレスは戦没者を称揚し、遺族を慰撫した。

これに先の疫病とそれに続く秩序崩壊の描写が続く。戦役、農地荒廃、そして疫病に苦しむ住民たちは、やがて怒りの矛先を指導者ペリクレスに向ける。敵国スパルタへの譲歩を主張する者さえあったという。トゥキュディデスによれば、ペリクレスは民衆を鼓舞し、憤懣を取り除き、彼らを落ち着かせようと民会で登壇し、再び演説を行ったという。この演説と先の葬送演説の違いも興味深いのだが、ここでは深入りせずに先を急ごう。

この民会演説の後、アテナイ市民は尚も怒りを抑えられず、ペリクレスを罰金刑に処した。しかし、トゥキュディデスによれば、大衆というものは定見を欠くのか、やはりペリクレスこそ最高の適任者であるとして、すぐにまた彼を将軍に選出したという。史家自身はと言うと、平時にも戦時にも傑出した有為の政治家であったと、ペリクレスに極めて高い評価を与えており、長所を論ずるに当たっては、彼の高い民衆統制力に言い及んでいる。民衆に媚びることなく、反論もでき、分を弁えずに振舞う市民を叱責し、不安に慄く市民を鼓舞したのだと。

こうしてみると『歴史』における疫病及び社会混乱の叙述は、ペリクレスの卓越した指導力・統制力とアテナイ民衆の不定見・感情的反応の対称性を鮮明に浮かび上がらせるために描かれているかの様に感じられる。この対称性はどうも爾後の展開を読者に予感させるベく、作家が巧みに配置し、描き出したように思われてならない。と言うのも、『歴史』はおよそ年毎の事件を記す年代記方式で叙述されているのだが、トゥキュディデスはここでその方針を突如翻し、上記の民会演説に続いて約2年後のペリクレスの死に触れ、その後の戦局について語り始めるのである。ペリクレス以後、無能の指導者たちは民衆に諂い、民衆の恣意に国政の舵を委ね、結果、幾度も過ちを重ね、十数年後ついにシケリア遠征の如き大破局を迎えるに至ったと。不世出の指導者の見事な演説、そして疫病流行によりその指導下ですら無秩序に陥った市民の姿を思い浮かべてしまうと、その後の戦局を我々はあまりに容易に想像できてしまいはしないだろうか。歴史家トゥキュディデスは、自らが思い描く戦争物語の全体像を読者が予め共有できるよう、作品の中に名演説と疫病の描写を巧みに配置したのではないだろうか。

「松山=ポリス」私(試)論と「お接待」
齋藤 貴弘

筆者が松山を初めて訪れたのは現職の公募面接の時で、同時にそれが初四国でもあった。多少余った時間で街中を歩き松山城見学をしたりして、漠然と感じたのは「松山はポリスだ」ということ。言うまでもなく、ポリスとは古代ギリシア人が地中海中に建設した小さな都市国家のことだ。そしてまた、松山市もコンパクトシティを標榜する人口50万規模の都市だ。荒唐無稽と言うなかれ。もう少し視野を広げて、瀬戸内海と地中海という視点に移せば、その類似性は安藤弘氏が『古代ギリシァの市民戦士』の冒頭でスペインの哲学者L・D・D・コラールの訪日(1961年)の際の言葉を引いて紹介している。

ポリスと人口規模こそ違えど松山は小さな都市だ。地勢的にもアテナイを彷彿とさせる。街の中心に聳える松山城、その南麓には様々なイベントに活用される城山公園、県庁や県立美術館といった公共施設が位置する。南東の大街道界隈は、市最大の繁華街。アクロポリスとアゴラのようだ。また、西に7キロほど向かえば三津浜港に出る。その先は多島海(アーキペラゴ)の瀬戸内海。アテナイ中心市とペイライエウスの距離もほぼ同じ。小豆島ではオリーヴ生産も有名だ。どうだろう、まんざらでもない気はしてこないだろうか。

さらに、そういう目で・・・・・・見てみれば、他にも興味深い類似が見えてくる。松山城を戴く勝山の東側中腹には東雲神社があって、ここでは毎年4月初めに能が上演されている。三之丸御殿の能舞台やこの神社所蔵の能面・能装束は、「十五万石には過ぎたるもの」と言われた名品として知られる(松山市「第5次 松山市総合計画/基本構想」より)。いわんや、アテナイでもアクロポリス南麓のディオニュソス劇場で春には大ディオニュシア祭が開かれ、悲・喜劇が上演された。どちらも仮面劇であり、両者の比較・類似は夙に指摘されているところである。加えて上演の場から、両者が共に「神楽」の性格を持つことをも指摘できる。では、その宗教面ではどうだろう。

以前、この「月報」の396号(2017年1月)には、四国遍路と世界の巡礼との比較考察の視点から、古代ギリシアの「巡礼」について書かせていただいた。そこでも触れたが、私自身は、古代ギリシアに「巡礼」pilgrimageという概念を適用することに半ば懐疑的である。むしろ、表層的な類似性で事足れり、とするような比較研究から脱却し、ポリスにも似たここ四国・松山で、四国遍路を介在させることで、いわゆるpilgrimageと古代ギリシアの「巡礼」の差異を浮かび上がらせることができるのではないかと考えている。それはまた他方で、古代ギリシアと日本の宗教観について独特の繋がりを見出すことになるかもしれない。

四国と言えば遍路。外せない特徴の一つとして「お接待」がある。札所をめぐるお遍路さんに地元の人が、ちょっとした食べ物やもてなし(時には少額の金銭授与)をするというものだ。(特に)歩き遍路をしている人たちは、「お接待」を受けることが往々にしてあるらしい。ところが、(私自身は遍路も「お接待」もした経験がないのだが)初めて「お接待」を受けたお遍路さんは戸惑うらしい。時には、申し訳ないとの思いから断ろうとすることもあったりする。だが、「お接待」は断ってはいけないものとされている。その理由の一つに、お遍路その人にではなく、お大師様――すなわち四国遍路の開祖・弘法大師――への「お接待」という意味合いがあるからだとも言われる。(竹川郁雄「現代四国遍路における『お接待』の一考察」(1)および(2)『人文学論叢』(愛媛大学人文学会)17(2015)、23-33; 21(2019)91-102参照)。実際、遍路が纏う白装束や菅笠には「同行二人」の文字がある。これは、一人遍路であっても、常に「お大師様と共にいる」ということを意味している。

古代ギリシアにも、見知らぬ訪問者をもてなす歓待文化があった。みすぼらしい老人に身を窶した主人オデュッセウスをそれとは知らずもてなす豚飼いエウマイオスは、感謝の言葉を伝えるオデュッセウスに、こう応える。「客人よ、たとえおぬしよりももっと見すぼらしいお人が来られたとしても、客を軽んずるのはわしのしてはならぬことなのだ。他国からくる人も物乞いも、みなゼウスの遣わされるものだからな」(『オデュッセイア』14.56-58〔松平千秋訳〕)。ここで言及されているゼウスとは、ゼウス=クセニオス「歓待の守護神ゼウス」のことだ。そしてまた、時には神自身が人間のもとを訪れるとも考えられていた。「実際、神々は遠方からの異国人に身を変え、いかなる姿にもなって、人間の無法な振舞い、正義の行いに目を光らせつつ、町々を巡られるものなのだ」(同上、17. 485-87)。

「お接待」から窺う遍路の姿は、日本の客人(まれびと)信仰の一変奏と言えよう。そしてまた、奇しくも時空遠く隔たる古代ギリシアの歓待文化と響き合う。瀬戸内と地中海、松山とポリスの類似は、表層的な共通項の羅列に留まらぬ、もう少し深いものとの繋がりへと思索を誘う――そんな気がしている。

若き日のティツィアーノ
──ベルガモ、アッカデミア・カッラーラ所蔵の≪聖母子≫をめぐって── 久保 佑馬

北イタリアのロンバルディア地方には、ベルガモという風光明媚な町がある。町は、城壁に囲まれた丘の上の旧市街と、近代以降に整備された丘の下の新市街に分かれており、2つの市街地はケーブルカーで結ばれている。新旧市街から北東へ足を延ばすと、ベルガモの美術収集家ジャコモ・カッラーラ伯爵(1714-96年)の遺産コレクションより発展したアッカデミア・カッラーラという美術館があり、イタリア絵画の傑作が良好な保存状態で1,800点以上所蔵されている。いずれ劣らぬ力作揃いで、特に私の専門とするヴェネツィア・ルネサンス絵画では、1513-26年にベルガモで活躍したロレンツォ・ロットの傑作群が目を惹くが、その脇にもう1枚、眩いばかりの色彩を輝かせて来訪者を魅了する小絵画がある──ティツィアーノ筆≪聖母子≫。美術館のキャプションには、「1507年頃」という制作年が記されている。

この作品に見るティツィアーノの早熟ぶりには、驚くばかりである。この画家の生年は正確な記録が残っていないが、1488-90年頃だろうと推定されている。「1507年頃」という制作年が正しいとすると、彼は20歳にも満たない若さで、この美しい≪聖母子≫を描いたことになる。色相を限定して対照性を強調したり(聖母の衣服の赤と、彼女のマントや空の青が織り成す色彩の対比)、風景描写の中へ巧みに深い陰影を忍び込ませたりする手法は、すでに熟練の域に達している。この絵画の鮮烈な印象をいっそう強調しているのは、輪郭線をはっきり描かず、グラデーションで色面を構成していく描法である。これにより、画面全体に燃え立つような華やかさが生まれている。こうした描き方は、一般的によく知られている1511年以降のティツィアーノの初期作品では殆ど見られず、むしろ彼の中後期の様式を先取りしている。

もっとも、このベルガモの≪聖母子≫の制作年には複数の説がある。ティツィアーノの初期作品であることに異論はないが、「1507年頃」という年代推定は、1980-90年代に提唱されたアレッサンドロ・バッラリンの説に基づいている。1510年にジョルジョーネが夭折する以前のティツィアーノは、ジョルジョーネの助手ないし共作者としての活動が多いため、彼自身の独立した歩みは捉えがたい。そこでバッラリンは、晩年のジョルジョーネに多大な影響を与えた2人の画家を柱に据え、青年ティツィアーノの成長の軌跡を辿ろうとした。1505-07年にヴェネツィアに滞在したアルブレヒト・デューラーと、1508年にヴェネツィアへ来訪したフラ・バルトロメオである。晩年のジョルジョーネは、1507年頃に顕著なデューラー的写実主義と、1508年以降のフラ・バルトロメオ的古典主義の間で揺れ動いており、ティツィアーノも親方の様式変遷と同じ過程を辿っていただろうと想定したのである。バッラリンはこの想定のもと、制作年が確定できないティツィアーノの初期絵画について、写実主義と古典主義の両極の間に位置づけながら、1枚1枚に制作年を割り当てていった。ベルガモの≪聖母子≫は、色面を1つの色で平坦に塗っていく古典主義様式とは一線を画した写実主義様式に分類され、ティツィアーノ=ジョルジョーネがデューラーの影響下にあった1507年の作だと見なされたのである。アッカデミア・カッラーラやイタリア各地の展覧会で、ベルガモの≪聖母子≫が「1507年頃」の作とされることが多いのは、バッラリンの年代推定が、今日でも幅広く受け入れられているという事情を反映している。

バッラリンの説は大いに好奇心をそそるものの、図式的に捉え過ぎているのではないかという批判も可能だ。多感な10代を過ごしていたであろうティツィアーノが、ジョルジョーネ、デューラー、フラ・バルトロメオの3名だけを手本にして、果たして満足できたであろうか?絵画作品を写実主義、古典主義と分類し、1年単位で制作年を割り当てていくという手法は、本当に有効だろうか?例えばマウロ・ルッコは、同じくジョルジョーネの弟子となっていたセバスティアーノ・デル・ピオンボが、青年ティツィアーノに与えた影響を無視すべきでないと指摘する。ティツィアーノより年長で、早くから革新的な作風を示したセバスティアーノは、フラ・バルトロメオの古典主義とは異質の陰影感や立体感を、1510年頃以降のティツィアーノに伝えていた。ルッコの指摘を含め、バッラリンが提示した「物語」を解体しようという試みが、今日では少なくない。ベルガモの≪聖母子≫も、1510-11年頃の作品に位置づける説が増えている。

一つひとつの年代推定には、当時のヴェネツィア絵画界で誰が革新的なインパクトをもたらし、次の時代の潮流を作っていったかという問題について、それぞれの研究者の捉え方が反映されている。では、私の考えは?ルッコらの指摘に理があるように思うが、1510年頃のヴェネツィア絵画界について、独自の見解を打ち出せるほどには研究が進んでいない。私にとって、若き日の天才の秘密を探る旅は、まだまだ始まったばかり。考えが纏まれば、また稿を改めて論じてみたい。

映画『プラド美術館 驚異のコレクション』
貫井 一美

毎年、プラド美術館(以下、プラド)の前に立つと、「さあ行くぞ」という気持ちになる。30年以上前、初めてプラドの正面でベラスケスの銅像を見上げて感じた武者震いの延長であり、私にとってそれはもう一つの儀式である。そして帰国前の最後の日には大抵はできるだけ人の少ない閉館時間前に、≪ラス・メニーナス≫とベラスケスに別れを告げに行く。そのプラド美術館が映画になった。

毎年300人以上が訪れると言われるスペインの美の殿堂、国立プラド美術館は昨年、2019年11月19日に開館200周年を迎えた。王立美術館として開館したのは1819年、ゴヤの時代、悪名高き国王フェルナンドⅦ世の治世である。その創設には国王の2度目の王妃イサベル・デ・ブラガンサ(1797-1818)が貢献したと言われているが、残念ながら王妃はその開館を見ることはなかった。当時の王室コレクションは、「カトリック女王」と呼ばれたイサベル女王に始まり、1868年のイサベルⅡ世の治世までのものであった。奇しくもプラドはイサベルという名前と関係が深いようだ。

“prado”とは牧草地を指す。現在マドリード観光の中心であるプラド通りからアトーチャ駅の周辺は、ハプスブルク王家の時代には中心部からはかなり離れたマドリードの郊外であった。この「牧草地」にカルロスⅢ世の治世にすでに自然科学博物館として建てられていた建物を美術館として開館したのである。そのコレクションはのちに国家財産となり国立美術館として現在に至っている。

カールⅤ世、フェリペⅡ世、フェリペⅣ世へとハプスブルク・スペインの絵画蒐集はスペインの歴代国王の嗜好をそのまま反映している。ハプスブルク家の歴代の王たちによって受け継がれた美術品蒐集の伝統は、その支配がブルボン家に変わっても脈々と受け継がれていった。スペインでは国家の衰退期に芸術が花開き打ち上げ花火のように巨匠が現れ、王たちは彼らの作品をコレクションに加えた。スペイン絵画を知るためにはプラドを出る必要がないと言われるスペイン絵画の貴重なコレクションである。さらにスペインだけにとどまらず、総督領ネーデルラント、ナポリ副王領のようにイベリア半島以外のスペイン領の画家たちの作品、フラ・アンジェリコ、ボッシュ、ブリューゲル、デューラー、ルーベンスをはじめ、巨匠たちの作品であふれている。プラドは、歴代の国王たちの嗜好をそのまま反映したコレクションであり、まさに王たちが自らの懐を痛めて蒐集した傑作ぞろいである。王家の嗜好がこれほどまで際立っている美術館は世界にそうはない。また略奪品が皆無であることもプラドが唯一無二と言える所以である。

映画には、カールⅤ世の隠棲したユステの僧院が登場する。ティツィアーノはカールⅤ世、フェリペⅡ世と二代に渡る庇護を受けた。ルーベンスはフェリペⅣ世の寵愛を得るが、そのコレクションはプラドの需要な柱である。そしてゴヤはカルロスⅣ世、フェルナンドⅦ世に仕えた。20世紀の内戦はプラド200年の歴史にとって最大の危機であった。このように、映画プラド美術ではスペイン史を追いながら作品と芸術家たちが紹介され、プラドの様々な魅力が圧縮されている。館長を筆頭にプラド美術館の各部門の現役学芸員、修復家たちの他に建築家、写真家、舞踏家も登場し、自らのプラドについて語る。案内人は、アカデミー賞俳優ジェレミー・アイアンズである。また、この映画は今までの歴史、そして現在のプラド美術館のコレクションの紹介にととどまらず、その未来も語られる。フェリペⅣ世の趣味の館ブエン・レティーロ宮殿の『諸王国の間』の復元である。玉座を有する唯一の広間であった『諸王国の間』──El salón de los reinos──は、ベラスケス作5点の王家の騎馬肖像と《ブレダの開城》のほか、12点(現存作品は11点)の戦勝画とフランシスコ・スルバランのヘラクレスの12功業をテーマとした作品(いずれもプラド美術館所蔵)によって装飾されていた。宮殿は19世紀初頭の対仏独立戦争によって建物の一部と庭園が残るのみとなり、『諸王国の間』はその後、軍事博物館として使われていたが、後にそれはトレドに移されて当時の『諸王国の間』の装飾が再現されるはずであった。しかし、経済の低迷などの諸事情から、その建物の扉は閉じられたまま時が過ぎた。映画には復元に関わる建築家も登場し構想を語っている。ブエン・レティーロ宮殿の『諸王国の間』が実際の作品によって装飾され、当時の姿が甦るとしたらそれはプラドにまた新たなスペインの歴史の証が加わることになる。

プラド美術館にはスペインの歴史そのものが反映されている。映画『プラド美術館 驚異のコレクション』は美術作品の紹介というだけではなく、壮大な歴史ドラマを見ている感がある。そこには約90分というわずかな時間の中に美術作品を通してスペインの過去と現在、そして未来が集約されている。

サイード・シュライビの思い出
松田 嘉子

少し時間が経ってしまったが、モロッコの偉大なウード奏者、サイード・シュライビの思い出を書きとめたい。

サイード・シュライビ、2016年3月3日カサブランカで逝去。2月2日に65歳の誕生日を迎えた直後に倒れ、ご家族や友人はじめ多くのお弟子さんやファンの祈り空しく、そのまま帰らぬ人となった。

あれは2015年11月初旬のこと。研究調査の一環として、カサブランカのサイード・シュライビ宅を初めて訪問した。紹介してくれた知人でモロッコ芸術文化連盟会長のロトフィ・シュライビ氏に、同じ姓なのでご親戚かと尋ねると、父親同士が従兄弟との話だった。「世界に優れたウード奏者はたくさんいるけれど、私はやはりサイード・シュライビが一番だと思う」と言う彼の言葉は、あながち身内贔屓とも思えない。私にとってももちろん、尊敬するアーティストの一人だった。

サイード・シュライビは1951年マラケシュ生まれ、音楽の都フェスで育つ。1986年バグダッドにおいてウードの「黄金の撥(ばち)」賞を受賞し世界的な名声を得て以後、多くの国際フェスティバルで賞を獲得。アラブ世界のみならずヨーロッパ、アメリカでも公演を多数行った。録音も多く、作曲した楽曲は数百曲に上る。ソロの即興演奏でも、その律動的で知的なフレーズは聴衆を魅了した。

シュライビ邸は吹き抜けの高い丸天井、大きな円柱、装飾タイル、螺旋状の階段、繊細なランプなど、モロッコ工芸の粋を集めた小美術館のようだった。おしゃべりで活発な夫人が出迎えてくれ、またロトフィ氏はモロッコの代表的女性歌手フェルダウスを同伴して来たので、やがてそこは一晩中、夜が白々と明けるまで、美味しいワインと食事の時間をはさんでなお歌やウードが鳴り響く、賑やかな音楽の館となった。

颯爽と現れたサイード・シュライビは、背が高く、少し伸びた髪の毛を後頭部できっちり留めて、麻のジャケットを羽織っていた。首に薄緑色のスカーフ。右手首にピースマークをあしらった皮のブレスレット。物静かだが、クリクリと動く少年のような目と、優しい微笑みが印象的だった。

自ら楽器製作をする人だったので、一般的なオリエンタルウードの他、ベースウード、ソプラノウード他、アンダルスの地で発達した様々な弦楽器を作っていて、私にも弾かせてくれた。

最新CD「De l’Assyrie à Ahwache(アッシリアからアフワーシュへ)」(2014)を一緒に聴く。厚みのあるオーケストラのアレンジが効いた、斬新なアルバムだった。1曲目Ghazi Al Qoloubを出しながら、「サマイだよ」と、リズムをとって見せる。確かに10拍子サマイ・サキールだが、動きのある多彩なメロディ。「変わってるだろう?」と、瞳を輝かせた。2曲目Nuit d’été冒頭で、「ギターが入っていますね。」と言うと、「私の息子だよ。」と優しい表情になった。5曲目Achourのフレーズは「モンゴル風」だと言い、草原で馬頭琴でも弾いているような仕草をする。想像力豊かで、とてつもなく器の大きな人を感じた。

次々とCDをかけて、時折り急に、「このマカーム(旋法)は何? 」と訊く。「サバ」と答えると、満足気にうなづく。名盤「La Clef de Grenade(グラナダの鍵)」vol.1とvol.2をいただいた。

「グラナダの鍵」の「鍵」は音楽の「キー」という意味だが、家族にまつわる話が含意されていた。シュライビ邸の玄関ホールには、金糸銀糸の刺繍をあしらった豪華な革製の馬の鞍が飾られている。祖先はグラナダで馬具を製作する職人だったそうだ。お祖父さんが毎年自分の誕生日に子供や孫たちを集めて、革の小箱から一つの鍵を取り出して見せたという。それはグラナダにあった家の鍵で、彼は涙を流しながら、グラナダを忘れるなと子供たちに言い聞かせたそうである。お祖父さんにとってグラナダは、いにしえの栄華と夢に満ちた理想郷なのだった。

その理想を叶えるべく、サイード・シュライビは、モロッコに伝わるアンダルス由来の音楽、美術、建築、工芸等、包括的な芸術の保護育成を目的として「サイード・シュライビ財団」を立ち上げようとしていた。翌年3月に発足式を行うのだと言う。その演奏会に私も誘われた。心から感謝し、再会を固く約束して、夫妻の両頬にキスをしてお別れした。

この出会いのインパクトは大きく、日本に帰ってすぐ私は立て続けに2曲を作曲した。フレージングにおいてとくに影響を受けた「サマイ・フザム」を、自分では「サイード・シュライビへのオマージュ」と呼んでいる。

再会を楽しみにしていた矢先に、突然の入院のニュースと訃報は、本当にショックだった。いただいたガゼルの角製の撥を取り出してみると、力強い撥使いから生まれる躍動的なウードの調べが聞こえてくるようだ。

表紙説明

地中海の〈競技〉12:ヴェネツィアのレガータ/和栗 珠里

気候変動の影響もあってか残暑厳しい9月の第1日曜日、ヴェネツィアでは毎年「レガータ・ストリカ」(歴史的ボートレース)の祭りが催される。午後4時、盛大なファンファーレとともに豪華な水上パレードが大運河で繰り広げられ、それに続いて、数部門に分かれたレースが順次行われる。

部門によって、使われるボートの種類は異なる。素人目にはすべてゴンドラに見えるのだが、青年の部で使われる「プッパリン」、6人漕ぎの「カオルリーナ」、女性のレースで使われる「マスカレータ」など、大きさや形が少しずつ違うのだ。いずれにおいても、漕ぎ方は「ヴェネツィア式」、つまり、立って前を向く漕ぎ方である。レガータ・ストリカのクライマックスは、男性2人で漕ぐ「ゴンドリン」のレースだ。スピードが出るようにゴンドラをほんの少し小さくしたこの舟は、レガータ・ストリカ専用に開発された。「ゴンドリン」の覇者となることは、ヴェネツィアの男にとって最高の栄誉である。

英語でもボートレースのことをレガッタ(regatta)と言うが、語源はヴェネツィア語のレガータ(regata)である。その由来には諸説あるが、rigata説または aurigata説が有力で、いずれにしても「競争」を意味すると考えられている。ラグーナに生きるヴェネツィア人にとって、ボートは日々の暮らしに欠かせない乗物であり、気晴らしのため、あるいは有事に備えた鍛錬のために、ボートレースは古くから行われていたようだ。regataの語は、文献上1274年まで遡ることができる。

ルネサンスからバロックの時代には、ヴェネツィアは祝祭都市となり、ことあるごとにレガータが行われた。とくに、ヴェネツィアを訪れる外国君侯の歓待には、レガータが付き物だった。レガータを伴う歓迎を受けた賓客は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世、ミラノ公妃ベアトリーチェ・デステ、ハンガリー王妃アンナ、デンマーク=ノルウェー王フレデリク4世、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世など、枚挙に暇がない。

なかでも盛大だったのは、フランス王として即位するためポーランドから帰国する際にヴェネツィアを訪れたアンリ3世の歓迎式典(1574年)である。当時、ヴェネツィア共和国の迎賓館になっていたのは、15世紀のドージェ、フランチェスコ・フォスカリが建てた館だった。ヴェネツィア滞在中にアンリ3世が寝泊まりしたのも、このフォスカリ館(カ・フォスカリ)で、レガータのゴールはこの館の前に設置された。現在、フォスカリ館は国立ヴェネツィア大学の本部となっているが、レガータ・ストリカのゴールは当時と同じく、この館の前である。

1797年にヴェネツィア共和国が滅んだ後も、レガータは行われ続けた。むしろ、国を失ったヴェネツィア人にとってレガータは、かつて地中海随一であった海洋共和国の誇りを確認するための最後の拠り所だったのかもしれない。レガータに「ストリカ」の呼称をつけて年中行事として行うようになったのは、1899年のことである。以来、レガータ・ストリカは、夏の終わりを告げるヴェネツィアの風物詩であり続けている。