地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第43回総会

先にお知らせしましたように第43回総会を6月8日(土)に神戸大学百年記念館(六甲ホール)において開催します。なお総会欠席の方は、委任状を必ずお送り下さい。

地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞

地中海学会では今年度の地中海学会賞および地中海学会ヘレンド賞について、慎重に選考を進めた結果、以下の通りに授与することになりました。

地中海学会賞:大高保二郎氏
大高保二郎氏は、日本における本格的なスペイン美術史研究のパイオニアのひとりであり、長年にわたって教育および多方面での普及活動に従事されてきた。エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤ、ピカソ等をめぐる研究については、多くの論文、著書、翻訳書の成果が公にされ、近年の主な著作は、『ベラスケス 宮廷内の革命者』岩波書店(2018 年)、『スペイン美の貌』ありな書房(2016 年)等であり、『ゴヤの手紙──画家の告白とドラマ』岩波書店(2007 年)他によって「会田由翻訳賞」を受賞(2011 年) している。また日本での多くの国際的美術展覧会(プラド美術館展、ピカソ展等)企画に携わり、広く日西の文化交流に貢献した。一方、大学での教育の他、スペイン・ラテンアメリカ美術史研究会を主導して、スペイン美術史研究者の育成に尽力してきた。地中海学会においても、長年にわたり、常任委員、監査委員などとして学会の運営に多大な貢献をしてきた。以上の功績により、大高保二郎氏に地中海学会賞を授与する。

地中海学会ヘレンド賞:樋渡彩氏
樋渡彩氏の『ヴェネツィアとラグーナ 水の都とテリトーリオの近代化』は、共和国時代の中世からバロック時代ばかりが注目されてきたヴェネツィアに関して、共和国崩壊以後に焦点を合わせて19世紀から20世紀前半における近代化と後背地であるラグーナ(潟)という二つの視点から、魅力ある水都としてのヴェネツィアが現代へ継承され、発展してきた過程を解明しようとする意欲的な研究である。多くの都市において近代化は鉄道や道路の整備に代表される陸の論理で進められ、ヴェネツィアでも19世紀における運河の陸化「リオ・テラ化」や本土とヴェネツィアを結ぶ鉄道橋の架橋、さらに新港湾の建設による都市構造の変化など陸の論理に基づく近代化が進んだが、本書では鉄道橋の開通によって舟運の変化、蒸気船である水上バス(ヴァポレット)の登場、新運河の建設や観光業と結びついた舟運の発展、水辺に立地したホテルや水上テラス が建設されるなどの水の論理が描かれる。ラグーナに関しても、最新の研究成果や冠水「アックア・アルタ」、ラグーナに浮かぶ多くの島々の役割、リゾート地リドの開発史、新港湾の建設に伴う工業地帯や 道路橋建設による居住地拡張などラグーナ周縁部の 開発が述べられ、ラグーナという特異な自然環境に築き上げられた人々の生活が解明されている。
以上のような本書は、中世以来の地中海文化圏における政治・通商の要衝として栄えたヴェネツィア が、いかにして近代化する都市空間の中でその文化的魅力を変質させながら維持してきたかを明らかにした点、ラグーナという特異な自然環境の中で人々が築き上げてきた都市とテリトーリオの有機的な関係について明らかにした点で、地中海世界における他地域への展開も期待できる優れた研究として高く評価できる功績であり、ここに地中海学会ヘレンド 賞を授与する。

『地中海学研究』

『地中海学研究』XLII の内容が、以下のように決まりました。5 月中にお手元にお届けする予定です。
《論文》「アントニオ・ダ・モンツァの写本装飾── ロンバルディアおよびローマ教皇庁周辺での活動に関する問題」永井裕子/「ロッソ・フィオレンティーノとタピスリ──《ラウラの死をめぐるペトラルカの幻影》について」小林亜起子/「古代小麦の再評価におけるシチリア州小麦栽培試験研究所」牧みぎわ/《研究動向》「イタリア・ヴェネトにおける小都市および風景研究」福村任生/《書評》「篠塚千恵子著『死者を記念する──古代ギリシアの墓辺 図研究』」福本薫/「髙田京比子著『中世ヴェネツィアの家族と権力』」高見純/「越宏一編『ヨーロッパ中世美術論集 5 中世美術の諸相』」水野千依

第43回地中海学会大会のご案内
佐藤 昇

第43 回地中海学会大会は、令和元年6月8日(土)・9 日(日)に、神戸大学(六甲第二キャンパス)百年記念館六甲ホールにおいて、神戸大学文学部・大学院人文学研究科と共同で開催することとなりました。神戸大学は、1902年に創設された神戸高等商業学校およびその後身の神戸商業大学を母体としており、1949年の改組を経て、現在の11学部14研究科を擁する総合大学・大学院となりました。2019年は新制大学成立からちょうど70年目にあたり、このときに設置された文学部(当時は文理学部)も創立70周年を迎えることになります。これにあわせて文学部では、さまざまなイヴェントを企画しており、国内外の諸機関と連携しながら活発な学術活動・文化交流を行うとともに、地域社会への還元にもよりいっそうコミットしてゆくことになりそうです。今回の地中海学会大会では、そうした神戸大学文学部の取り組み、それから神戸という場の魅力を、地中海学の枠組みの中でお楽しみいただくとともに、神戸という土地の事例を奇貨として地中海学に新たな光を投げかける、そんな大会になって欲しいと願っております。

まず初日、大会のはじまりを告げるのは、武谷なおみ氏(大阪芸術大学元教授)による記念講演です。演題は、「神戸で想う、ピランデッロのカオス・シチリア」。シチリア出身のノーベル賞作家ピランデッロを手掛かりに、シチリアの魅力をたっぷりと伝えてくれる興味深い講演になりそうです。2014年に地中海学会賞を受賞されたイタリア文学研究者の武谷氏は、出身地神戸との関わりも大変深く、そうしたところもきっと今回の講演に反映されることでしょう。

続いて行われる地中海トーキングは、神戸大学大学院人文学研究科・海港都市研究センターと連携し、「港町: 交流と創造」という共通論題で実施することになりました。パネリストとして樋口大祐氏(神戸大学・国文学)、宮下遼氏(大阪大学・オスマントルコ文学)、河上眞理氏(京都造形芸術大学・イタリア美術)に、私、佐藤昇(神戸大学・古代ギリシア史)が登壇いたします。多種多様な人々が行き交う港町において、いかなる文化交渉が織り成され、それによりいかなる文化が紡ぎ出されてきたのか。港町が文化を創り、育む力について、それぞれ専門の立場から報告し、議論を交わしたいと思います。地中海の港町(アテナイ、イスタンブール、パレルモ)をめぐる議論と港町神戸をめぐる議論が、どのように響きあうのかも興味深いところです。

授賞式および総会後の懇親会は、瀧川記念学術交流会館で行います。眼下には神戸の街並みと神戸港、瀬戸内の海原が広がり、食事とともに美しい夜景も楽しんでいただけることでしょう。

二日目午前は、専門研究者による研究報告が行われます。それぞれ先史時代のエーゲ海における土器と交流、古代末期北アフリカのモザイク画、現代コルシカにおける民族音楽を主題としたもので、力のこもった報告となりそうです。地中海学会らしく、多分野にわたる多角的かつ生産的な討議が期待されます。

昼食時間には、山口誓子記念館ツアーを行います。同記念館は、近代俳句に大きな足跡を残した俳人、山口誓子の旧邸(一部)を神戸大学内に復元したもので、誓子や俳句俳諧関連の資料が各種展示されています。港町神戸と文学の関わりを、建物や書を通して垣間見ていただけましたら幸いです。

午後は、シンポジウム「文化遺産と今を生きる」を開催いたします。登壇者は、奥村弘氏(神戸大学・日本近世史)、松田陽氏(東京大学・文化資源学)、深見奈緒子氏(カイロ研究連絡センター・イスラム建築)、山形治江氏(日本大学・古代ギリシア劇)の4 名です。本シンポジウムは、神戸大学大学院人文学研究科・地域連携センターと協力して行われます。1995年、阪神・淡路大震災により神戸および周辺地域は甚大な被害に見舞われました。その経験を踏まえ、同センターはこれまで被災史料の修復・保存活動、地域歴史遺産の活用、人材育成などに取り組んできました。地中海世界の各地でも同様に、古代以来の遺跡や歴史的建築物、あるいは各種の無形文化財が、戦争や不況、自然災害といった数々の困難を経験しつつ、現代の地域社会に息づき、活用されています。本シンポジウムでは、神戸、イタリア、エジプト、ギリシアの事例から、それぞれの実情、問題、取り組みなどが具体的に紹介され、相互に活発な対話が展開されることと思われます。

大会参加費は無料となっておりますので、皆様お誘い合わせの上、お気軽にご来場ください。エクスカーションはありませんが、神戸の街とともに本大会をぜひご堪能していただければと願っております。

古代地中海人はホッキョクグマを見たか
大谷 哲

古代ローマ時代のキリスト教徒の殉教を研究していると、円形闘技場での見世物とするために、古代ローマ人は実に遠方から、エキゾチックな動物をかき集めていたのだなと思うことがある。有名な皇帝ネロと同時代人であった大プリニウスの『博物誌』をひもとけば、アフリカその他から象やカバのような大型動物を苦労もいとわず首都まで運んでいることがわかる。

時には、動物の描かれ方にも驚きや疑問を抱くこともある。新約外典文書に収められている『パウロとテクラの行伝』は2世紀までに成立していたと思われる初期キリスト教テキストであるが、使徒パウロに帰依する乙女テクラが闘技場に設置された人喰いアザラシの泳ぐ堀に飛び込んでも、奇跡によりアザラシが彼女を襲うことはない(34章)。ギリシアやモーリタニアにはアザラシの大群が現在も生息し、地中海世界で珍しい動物ではないようだが、さて果たしてアザラシは人を食うのであろうか。アザラシに関連して興味を引くのが、ネロ帝期に書かれたと推測されているカルプルニウス・シクルスによる詩『牧歌』第7 歌である。首都ローマの闘技場で壮大な見世物を観て帰った男が、田舎の仲間にその様子を語って聞かせる一節に、「もちろん見たものを順に語ろう。俺が見たあらゆる種類の野獣たち。ほら、雪のように白い野ウサギと角の生えた猪を見た。ほら、ヘラジカも見た、そいつが生まれた森でだって滅多に見られないやつだ。雄牛どもも見たぞ、高く首筋をいからせて、肩甲骨から醜いコブを突きだしたやつ。毛深いたてがみが首の周りに揺れて、荒々しいヒゲが顎を覆い、固い喉袋には逆立った毛が震えている。俺が見たのは森の化け物どもだけじゃない。アザラシどももじっくり見たぞ、熊どもがそいつらに襲いかかるのだ。」とある。ここでもアザラシの存在が目を引くが、さらに注目したいのは、そのアザラシに襲い掛かるという熊である。古くは1922 年に、イギリスの動物学者ジョージ・ジェニソンが、Classical Review vol. 36 に投稿した短い論考で、海洋動物のアザラシを襲うという行動から、この熊はホッキョクグマのことであろうと述べている。

カルプルニウス・シクルスはこの熊の体毛が「白い」であるとか、水中を泳ぐなどというホッキョクグマとしての特徴を述べてはいないが、ともにあげられるヘラジカやヨーロッパバイソンを思わせるコブのある牛についての描写から、北方から連れてこられた熊であるように思われる。3世紀の詩人オッピアノスはアルメニアやティグリス河流域で猟師たちが熊を生け捕りにする方法を『猟師訓』に謳っているが、見世物に珍しい動物を用いて威信を増したいローマ貴顕たちの貪欲さは、北方文化圏にまでも交易の枝を伸ばしていたのであろうか。

実は、明確に「白い熊」に言及している古代地中海の 史料も存在している。2世紀末のローマ皇帝コンモドゥスの同時代人であったらしいアテナイオスという人物が 記した『食卓の賢人たち』と呼ばれる長大な対話篇は、 宴会で交わされた知識人たちの蘊蓄話の集成という形式 をとっているが、ギリシア世界の有名人たちの催した宴 会や祭礼を語る第5巻では、紀元前3世紀のプトレマイオス朝エジプト王、プトレマイオス2世・フィラデルフォスがその都アレクサンドリアで催したディオニュソス神 の祭礼行列に、たくさんの動物たちと並んで「大きな白い熊一頭」が含まれていたと述べる(5.201.C)。アテナイオスはフィラデルフォスの行列についての情報は、ロドスのカリクセイノスの手になるアレクサンドリアについての著作の4 巻に書いてあるというので、これが正しければ、この「白い熊」についての記述情報は紀元前3世紀末ころまで遡ることになる。ちなみに『食卓の賢人 たち』のLoeb版英訳者であるチャールズ・バートン・ギューリックはこの「白い熊」がアルビノであった可能性を示唆するが、特に根拠は示されていない。フィラデルフォスの行列に登場する様々な他の動物は、インド、 エチオピア、カスピ海沿岸などなど遠方からもたらされたものであることが言及されているから、この「白い熊」も北極圏からもたらされたホッキョクグマのことではないかとついつい期待をしてしまう。筆者の知るヨーロッ パ文化圏の最も古いホッキョクグマについての確実な記 述は、11世紀にアウズンなるアイスランド人がデンマーク王にシロクマを献じたことを歌うサガ(ただし13世紀成立)である。ついつい、これに先んじること約1,200年、古代地中海人もすでにホッキョクグマを見たのか否かと思いを馳せてしまうのである。

サン・ダミアーノ聖堂でのエピソード
池上 公平

2013年3月13日、第266代ローマ教皇に選出された枢機卿ホルヘ・マリオ・ベルゴリオは、フランチェスコ(日本ではフランシスコ)を名乗った。その名の選択には、新教皇の強い意志が感じられる。言うまでもなく、フランチェスコとは13世紀の信仰刷新運動をリードすることになったアッシジの聖フランチェスコのことであり、新教皇がその名を選んだのは、教会改革の先頭に立つ意志を明確に示すためである。

アッシジのフランチェスコの方は最初から改革者であったわけではない。それまで享楽的な青年だった彼の回心にまつわるエピソードの中で、サン・ダミアーノ聖堂で彼が一人で祈っている際、キリストの《磔刑像》が彼に「行って私の教会を建て直しなさい」と語りかけたというものはとりわけ印象深い。1206年とされるこの出来事は、チェラーノのトマスによる『魂の憧れの記録(第二伝記)』が初出である。この時、フランチェスコがその前で祈っていたとされる《磔刑像》は、アッシジのサンタ・キアーラ聖堂にある。

さて、ある時、私の脳裏をふと一つの疑問がかすめた。一体なぜ、フランチェスコは絵の前で祈っていたのだろう。今日、絵や彫像の前で祈ることはめずらしくない。しかし一見あたりまえの習慣も、実は最初からそうだったのではなく歴史的に形成されてきたのだということは、よくある。

「なぜフランチェスコは絵の前で祈っていたのか」という疑問には複数の問題が含まれている。第一は受肉したキリスト、特に受難のキリストに対する信仰である。これは回心後のフランチェスコの生涯を通じて揺るがなかったもので、聖痕拝受のエピソードに明らかであるが、そもそもなにゆえフランチェスコはそこまで受難のキリストに対して篤い信仰心をもちえたのであろうか。彼をそのような信仰へと促した要因は何であろうか。

第二に、一人で祈ることである。近代ならば不思議でも何でもない。一人で祈ることは、個人の内面に降りてゆくことを意味するが、13世紀初頭にそれはどの程度一般的な習慣だったのだろうか。識字率が低く、聖書を持つこともない民衆は、一体何をどのように祈っていたのだろうか。それはフランチェスコと同じなのだろうか。第三に、絵の前で祈ることは当時一般的な習慣だったのだろうか。西欧では、12世紀までは絵画とは主に壁画、ステンドグラスそして写本画であり、タブローは必ずしも一般的ではなかった。GarrisonのItalian Romanesque Panel Paintingを見ても、掲載作品の大部分は13世紀以後のものである。イコノクラスム以後の正教世界では、イコンを飾り、その前で祈り、イコンに接吻する習慣があったが、イタリアをはじめ西欧では異なっていたようである。壁画やステンドグラスは祈るためのものではない。写本の挿絵なら祈るためのものかもしれないが、それを見ることができるのはもちろんわずかな人々に限られる。さらに、偶像崇拝への恐れがなおも残っていたようであり、11世紀にエルサレムを訪れたイタリア人が、描かれたキリストの磔刑像を見て偶像崇拝ではないかと思ったという例をベルティンクが紹介している。このあたりの状況は正教世界とカトリック世界とではかなり異なっていたようである。

第四に、これは第一の問いと重なるが、なぜキリストの磔刑像の前で祈っていたのだろうか。12世紀の聖ベルナルドゥスには、磔刑像の前で祈っているとキリストが彼を抱擁したというエピソードがある。ここで聖人を抱擁するのは彫刻であって、絵画ではない。このエピソードは、12世紀に絵画の前で祈る習慣が一般的ではなかったことを示唆しているように思われる。その一方で、聖ベルナルドゥスが祈りを捧げていたのは、磔刑のキリストに対してであり、その点では聖フランチェスコに通ずるものがある。磔刑のキリストに対する信仰は、復活と相俟ってキリスト教の中核であり、もちろん、初期キリスト教時代から存在した。しかし、オータンやヴェズレーの聖堂を飾る《最後の審判》が示すように、12世紀までは世界の終末と審判が人々の主な関心の対象であった。受肉したキリスト、磔刑のキリストに対する信仰が盛んになるのは中世も半ばに至ってからと言われている。聖アンセルムスの『クール・デウス・ホモ(神はなぜ人となったか)』が、キリストの受肉、人となった神を正面から論じた初期の例とされている。このようなキリストの人性に対する信仰が、フランチェスコへと受け継がれていなければ、フランチェスコが《磔刑像》の前で祈ることはなかったのではないだろうか。

こうしてみると、サン・ダミアーノ聖堂でのエピソードの背後には、中世のキリスト教と美術の非常に大きな流れを見て取ることができるようである。その仔細を知りたいというのが私の目下の望みである。

テロワール
土地の味をつくるもの 赤松 加寿江

「土地の味」を食することは旅の楽しみのひとつである。地球の裏側の食材も手に入るようになったとはいえ、風土や作り手とふれあい、そこにしかない味を堪能することは、至上のよろこびだ。ところでこうした「土地の味」は何から作られているのだろうか。

土地の味には自然環境のみならず生産者の工夫など、 多様な条件が関わっているわけだが、味をつくり出す背 景要因を示す言葉に「テロワールterroir」というワイン用語がある。狭義には土壌を指す言葉だが、ワインの味を決める地形、日照、気温などの耕作環境の特性に加え、広義には産品をとりまく生産者の思想など人的要因を含む。テロワールは「天(気候)地(土壌)人(人間)」からなるともいわれ、産品をめぐる土地と人との長い歴史を映し出す概念でもある。最近では「テロワールを感じる逸品」というように地域産品が紹介されることもあるから、徐々に市民権を得つつある言葉かもしれない。 このテロワールを広義な見方で捉え、土地と文化を領域史的に読み直してみようという試みを2015年から始めている。歴史学、経済史学、地理学、建築史・都市史学のメンバーによるテロワール研究会である。どのようにテロワールを考えようとしているのか3つほどあげてみよう。まず1つには、自然環境が全てを決めるという環境決定論に立つのではなく、テロワールをつくりだす要因を発展的に解釈し、土地所有や生産体系、流通条件や消費文化といった人為的要因をくみとりながら産品の 領域史を読み解くことにある。2つ目には、テロワールが土地の価値をつくってきたという事実に着目し、産品と大地の価値変化を歴史的に読み取ろうとすることにある。良質な産品をつくりだす土地には高い経済価値がついてくる。ヴォーヌ・ロマネの土地が1ヘクタール5億円するという背景を考えても産品の質によって土地が格 付けされてきた歴史空間のダイナミズムがテロワールには映し出されているといえる。3つ目には、テロワールの見方をワイン以外の産品に照らし合わせることで比較 領域史としてのケーススタディができるおもしろさにある。現在我々はワイン以外にもお茶と竹のテロワール研究を進めている。たとえば宇治茶は傾斜地の露地茶園に育つ煎茶と、水はけの良い砂質土壌の畑に覆いをして作られた玉露とでは、土壌だけでなく生産流通体系にも違いがあり、茶の味を人間がコントロールしてきた。竹の産地である京都の嵯峨も、酒樽用の竹を運搬しやすい立地条件ゆえに産地として定着したと考えられる。このように産地の形成には、自然条件を巧みに活用してきた人間の知恵と工夫が大きい。その一方で人が超えられない自然境界があるのも事実で、土壌に直結するキノコのような産品には自然の恵みそのものの領域が映し出されている。

世界に存在するキノコの種類は推定150万種といわれる。キノコには2 種類あり、倒木や落ち葉に育つ「腐生性」と、生きた樹木の根と共生して育つ「菌根性」がある。日本で人工栽培が可能になっているのは腐生性の20種類程度で、マツタケやトリュフのような菌根性のキノコは人工栽培が難しい。イタリアのトリュフのなかでも特に珍重されるのはピエモンテの白トリュフであろう。1723年ルイ15世はサヴォイア家ヴィットリオ・アメデオにトリュフハンターとトリュフ犬を送るよう依頼しているし、1766年に刊行された料理本『パリで修業を終えたピエモンテの料理人』でもピエモンテのトリュフはアオスタのチーズと一緒に食するものとして推奨されている。日本のマツタケも寺社が贈答品として用いた歴史は長く、土地の旬の恵みであるキノコは、土地の味として歴史的に珍重されてきたようである。

ある秋、ピエモンテ州アルバのトリュフ祭初日に偶然訪れたときのことである。町にはトリュフの露店が林立し、赤い布地の上にはトリュフが宝石のように並んでいた。次々に香りのテイスティングを進めていくうちに、1つ30ユーロのトリュフを5つも買ってしまった。翌日以降、ホテルの部屋にはトリュフの芳香が日々充満し、またたびをかいだ猫のように満足にひたる。しかし3日後からどうもおかしい。くるまれたガーゼのなかで徐々に黒ずみ、菌としての相貌を強める様子に不安がつのる。帰国しスーツケースをあけると3つのトリュフは黒い液体と化し、形をとどめた2つのトリュフも香りはただようほど。消えてしまったトリュフを前に、自然の恵みを遠くへ持ち帰ろうとした冒涜を恥じるとともに、自然への無力感と飽くなき食欲こそが、人の創意工夫を鼓舞させ、テロワールを作りだしてきたのだろうと実感させられたのである。自然だけでなく、人間が共につくってきた味と土地の「らしさ」を読み解くこと、それがテロワールの課題なのである。

ボローニャ音楽国際博物館・図書館所蔵
音楽家肖像画コレクション 園田 みどり

フランチェスコ会士ジャンバッティスタ・マルティーニ(ボローニャ、1706~1784)は、当時としては先駆的な五巻組の音楽史執筆・出版を志した人物として名高い。著述家としてのみならず、教師、作曲家としても優れていた「マルティーニ師 padre Martini」は、当代屈指の知性としてヨーロッパ中の尊敬を集め、大バッハの最後の息子で「ロンドンのバッハ」として日本の音楽ファンにも親しまれているヨハン・クリスティアン、あるいはモーツァルト父子など、多くの音楽家が彼の許を訪ね、教えを乞うた。

マルティーニの『音楽史』は、古代ギリシアまでの最初の三巻が出版(1757~1781)されるに留まったが、続巻については手稿が残されており、また第五巻は著名音楽家の伝記を収録し、個々の伝記の前に肖像画を置く予定だった。

今日、ボローニャ音楽国際博物館・図書館で展示されている音楽家肖像画コレクションは、まさにこのマルティーニが『音楽史』のために収集した肖像画を核として発展したものである。昨年11月に待望のカタログが出版され(Lorenzo Bianconi, Maria Cristina Casali Pedrielli, Giovanna Degli Esposti, Angelo Mazza, Nicola Usula, Alfredo Vitolo, I ritratti del Museo della Musica di Bologna. Da padre Martini al Liceo musicale, Firenze, Olschki, 2018)、以後ボローニャでは関連諸機関において出版記念講演会が計4回も開催された。筆者はその最終回(ボローニャ大学芸術学科主催)に立ち会う幸運を得た。

カタログの巻頭に置かれたアンジェロ・マッツァの論考によれば、マルティーニはヴァザーリ『美術家列伝』第2 版(1568)を念頭に置いて、世紀半ばから素描と印刷された肖像画の収集を始めた。同様のコレクション は、同時期に大バッハの次男で、音楽における「疾風怒濤」様式を代表する人物としても知られるカール・フィ リップ・エマヌエルも行っていた。だがバッハとは異な り、マルティーニは1770年代初めから油彩の収集に方向転換する。本格的に展示するためである。ボローニャには1666年に設立され、現在でも活動を続けている楽友協会がある。18世紀のヨーロッパにおいて、このアカデミーの授与する資格免状はあらゆる音楽家の垂涎の的であったから、アカデミーの重鎮マルティーニの周囲にはイタリアのみならず外国からも前途有望な音楽家たちが集結していた。マルティーニが楽譜や図書、楽器だけでなく肖像画も収集していることは当時から広く知られていたので、自分で依頼したものだけでなく友人や知人からの寄贈も受けるうちに、わずか10年足らずで油彩肖像画コレクションは300点を数えるまでになった。その中には、印刷による肖像画をカンバスに描きなおしたものも含まれている。

マルティーニは、絵画としての出来栄えよりも肖像としての信頼性、つまり本人に似ていることを重視していたので、画面上に書き込まれるべきは、画家の、ではなく、むしろ描かれている人物の名前だった。黄金拍車勲章をつけたモーツァルト21歳の肖像画は、お世辞にも優れた絵画とは言えないが、父曰く息子に「そっくり」であり、そのためにこそ価値があった。

無論、魅力的な肖像画もある。トマス・ゲインズバラ(1727~1788)によるヨハン・クリスティアン・バッ ハの肖像画は、この画家のイタリアで公的に収蔵されて いる唯一の作品とのことだが、そのニヒルな表情はまる で政治家を思わせる。カストラートの肖像画はとりわけ興味深い。コッラード・ジャクィント(1703~1766) の描くファリネッリ(カルロ・ブロスキ)の、胸郭を高く保った美しい立ち姿を始め、フランツ・ハーゲン(1665 頃?~1734)による舞台衣装姿のフィナリーノ(ジュ ゼッペ・マリア・セーニ)、18 世紀後半オーストリアの画家が描くジュゼッペ・ミッリコの肖像は、日頃カストラートの絵姿と言えばピエル・レオーネ・ゲッツィ(1674~1755)とアントン・マリア・ザネッティ(1680~ 1767)のカリカチュアばかりを見慣れている目にとっては非常に新鮮で、ペン画からは決して聞こえてこない音楽が、カンバスから立ち昇ってくるような気がする。

マルティーニの音楽家肖像画コレクションは、音楽学校開校(1804)に伴いボローニャ市に移管された後も、増加する。楽友協会会員、音楽学校の教師と附属図書館 司書、あるいはボローニャゆかりの音楽家たちの肖像画 が追加され続けたからである。1942年に音楽学校が音楽院に転換した後もこの伝統は失われず、例えば1953年には、フェリーチェ・カゾラーティ(1883~1963) の描いたボローニャ出身のヴァイオリニスト、アッリー ゴ・セラートの肖像画が寄贈された。

このコレクションは、ボローニャ音楽国際博物館・図書館の開設(2004)によってはじめて相応しい居場所を得た。さらに今回のカタログ出版によって、その全容がついに遺漏なく示されたことを、かつてボローニャ大学で音楽学を学んだ一人として心から喜びたいと思う。

表紙説明

地中海の〈競技〉3:メドック・マラソン/加藤 玄

冒頭から私事で恐縮だが、勤務先から1年間の海外研修の機会をいただき、4月1日からフランスのボルドーに滞在している。このことを伝えると、たいていは「美味しいワインが飲めて良いですね」という反応が返ってくるのだが、なかには「いつかはメドック・マラソンに参加したい」という人もいた。

メドックは、ボルドー市の北から河口に至るまでのジロンド河左岸地域で、世界的なワインの銘醸地として有名である。メドック・マラソンの起源は1984年に遡る。この年、現地のマラソン愛好会とボンタン騎士団(ワインの振興愛好団体)の協力で「メドック・シャトー・マラソン協会」が設立され、翌年から同協会の運営の下、マラソン競技が始まったそうだ。

レースは毎年9月に開催される。ポイヤックからスタートし、サン・ジュリアン、サン・テステフ、メドック、オー・メドックなど50ヵ所以上のブドウ畑とシャトーを巡り、再びポイヤックに戻ってくるコースが設定されている。全長42.195km のフルマラソンであり、制限時間の6時間半以内にゴールすれば完走となる。

メドック・マラソンが通常のマラソン競技と異なるのは、次の2つの特徴による。まず、90%以上のランナーが仮装する。2005年に筆者が観戦に行った時には、皆が思い思いの仮装をしていた。目立ったのは出身地に因んだ仮装で、由緒正しい(?)重装歩兵姿のギリシア人ランナーあり、カウボーイ姿のアメリカ人ランナーあり、ちょんまげに法被姿の日本人ランナーあり。表紙の上の写真は山車を曳くチームで、戦闘機とパイロットたち。下の写真のステッキに山高帽と付け髭という英国紳士風の出で立ちの一団のように、仲間と仲良く横一列に並んでのゴールも見られた。近年は、年ごとに仮装のテーマが設定されるようになり、2018 年は「移動遊園地」、2019 年は「スーパーヒーロー」とのこと。

次に、給水所だけでなく、給ワイン所(!)が設けられていることである。補給ポイントは22ヵ所あり、有名シャトーのワインも堪能できる。ワインを補給しすぎて、ゴール前にへべれけになってしまわないか傍目にも心配である。さらに、パン、生牡蠣、ステーキ、チーズとデザートまでが順番に提供され、ちょっとしたランチコースさながらである。レース以外にもパスタパーティーの前夜祭、競技翌日のシャトー巡りなどが企画され、ワインを愛して止まないランナーにとってはまさに夢の祭典と言える。

日本でも参加ツアーが組まれるなど、外国人を含めた参加希望者が年々増えているそうだが、運営方針として、規模を拡大することなく、参加登録者数を8,500人に限っている。そのため、3月初頭にWeb上で登録サイトが公開されると、世界各地から応募が殺到し、即座に締め切られるらしい。コースの至る所で楽団による応援演奏が奏でられ、和気藹々とした雰囲気で進行する本番のレースの裏で、より熾烈な前哨戦が展開されているのである。