地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第41回地中海学会大会

第41回地中海学会大会(学会設立40周年記念大会)を2017年6月10日(土),11日(日)の2日間,
東京大学本郷キャンパス(文京区本郷7-3-1)において下記の通り開催します。

6月10日(土)
13:00~13:10 開会宣言・挨拶   青柳 正規氏
13:10~14:10 記念講演
   HOW TO WRITE THE HISTORY OF THE SEA   デイヴィッド・アブラフィア氏
14:25~16:25 地中海トーキング 「地中海学会の40年」
      パネリスト:樺山 紘一/木島 俊介/陣内 秀信/武谷 なおみ/司会:末永 航 各氏
16:30~17:00 授賞式    地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10~17:40 総会
18:00~20:00 懇親会

6月11日(日)
9:30~12:30 研究発表
「古代エジプト,クフ王第2の船の船体上部における木造技術について」柏木 裕之
「古代末期美術におけるエジプト・トレードマーク図像の可能性――ヴィア・ラティーナ・カタコンベ壁画の図像生成」宮坂 朋
「レモンから見る中世地中海世界の食生活の特質――12 世紀アイユーブ朝サラディンの宮廷医イブン・ジュマイウ『レモンの効能についての論考』を中心に」尾崎 貴久子
「モデナ大聖堂ファサード彫刻図像――古代の大理石再利用と図像の関係をめぐって」桑原 真由美
「アルテミジア・ジェンティレスキとトスカーナ」川合 真木子
「『朝の歌』mattinataの魅惑」横山 昭正
13:30~16:30 シンポジウム 「地中海学の未来」
     パネリスト:新井 勇治/片山 伸也/貫井 一美/畑 浩一郎/藤崎 衛/司会:小池 寿子 各氏

新年度会費納入のお願い

2017年度会費の納入をお願いいたします。
不明点のある方,領収証を必要とされる方は,事務局までご連絡下さい。
会費自動引落日:4月24日(月)
会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
        郵便振替 00160-0-77515
        みずほ銀行九段支店 普通 957742
        三井住友銀行麹町支店 普通 216313

常任委員会

第1回常任委員会
日 時:2016年10月15日(土)
会 場:首都大学東京秋葉原サテライトキャンパス
報告事項:第40回大会及び会計に関して/研究会に関して/企画協力講座に関して 他
審議事項:第41回大会に関して/財務委員の留任に関して/学会誌頒布拡大に関して/役員候補推薦委員会の設置に関して 他
第2回常任委員会
日時:2016年12月17日(土)
会 場:首都大学東京秋葉原サテライトキャンパス
報告事項:『地中海学研究』XL(2017)に関して/研究会に関して 他
審議事項:第41回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して 他

寄贈図書紹介

HP(http://www.collegium-mediterr.org/)内に,寄贈いただいた図書を紹介するページを設けました。
トップページのメニューバー「図書紹介」よりご覧下さい。

宗教画の誘い
荒木 成子

初期ネーデルラント絵画の宗教性に興味をもっている。当時の人々は宗教的イメージをどのように受容していたのか,そこには信仰の実践と密接に結びついた接し方があったはずである。その点に関しての記録は皆無に近いようだ。信仰を深めるための手立てとして,イメージを解読しようとするのは可能だろうか。

初期ネーデルラント絵画の特質は人間とその周辺にあるものすべてを詳細に描写するところにある。人物とものは等価の重さをもって構図の中で渡り合っている。とりわけ,聖なる人物の周辺を飾るものたちは強い関心を呼ぶ。それら(家具や静物や自然の風景など)がどういう意図でそこにあるのか,現実をそのまま写し取ったというよりも,意図して配置されたようにも思われるそれらには象徴的意味が込められているのではないか。パノフスキーはただそこにあるように描かれたものが象徴的意味を隠れもつと考え,幾つかの作品を詳細に分析した。「隠された象徴主義」という解釈は広く受け入れられ,彼に続く研究者たちは過剰なまでにものの象徴的意味を特定しようと努力してきた。聖書やさまざまな宗教思想家のテキストがその根拠として提示された。しかし,最近はそのような傾向は弱まりつつあるように見える。象徴的意味があるとしたら,それは容易に分かるものであって,隠されてはいないだろう。ただものたちがあまりに詳細に描写されているので,現代の私たちは象徴性を思い至るのに時間がかかるのである。

見事なしつらえの部屋に場面が置かれる「聖母子」や「受胎告知」はものに象徴的意味を込めるのに最適であった。ロベール・カンパン(フレマルの画家),ヤン・ファン・エイク,ロギール・ファン・デル・ウェイデンはとりわけそのような読み取りを誘う室内を繰り返し描いている。何気なく置かれた果物は原罪を,水差しや水盤は聖母の処女性を象徴する(と言われる)。百合は昔から聖母の花で,解読に苦労はない。しかし椅子の上に置かれたクッションのように,純粋に居心地の良い部屋の調度として描かれているとみなされ,過剰な解釈から逃れるものもある。実際,象徴的意味を解読できないモティーフも少なくない。むしろ聖母の部屋はこうもあったであろうと実感しつつ,当時のブルジョワの家とそれほど隔たってはいなかった居室の家具調度を詳細に眺め,聖母の存在を身近に感じることが,信心業となったのではないだろうか。私たちが鑑賞する場合もそれぞれのモティーフを追って全てを確認するにはかなり長い時間を必要とする。一目で全体を確認するに終わるだけではなく,深く執拗に眺めるように強要される表現とも言えよう。

寄進者は具体的な意図に基づき作品を注文する。主題を選び,しばしば自らの姿や家族の姿を描かせる。しかし,周辺のものたちの選択や描写にまで詳しい指示を出したのだろうか。例えばロランと聖母の背後に広がる風景,そこにはロランの意図が反映されているかもしれない。しかし,イメージを創出するのは画家である。ロランとともに観者は広大な風景を眺め,一つ一つのディテールをある種の驚きを持って確認する。宮殿の中庭の花花の美しさをゆっくりと味わう。柱頭の彫刻には何が描かれているかを詳しく見ようとする。要するに全ての細部を眺める長い時間は信心業の時間でもあると考えられないだろうか。それは幼な子キリストと聖母の存在を身近に感じながら過ごす時間でもあり,祈祷書を開いた書見台の前に跪くロランは観者の信心業の手本となるであろう。

「信心のよすが」となる特別なモティーフも見いだすことができるように思う。例えば涙。ロギール・ファン・デル・ウェイデンの〈十字架降下〉の登場人物のほとんどが涙を流している。悲しみの涙はやがてキリスト自身の苦悶の涙となって,聖母のコンパッションの涙とともにバウツ父子の二連画(例えば国立西洋美術館の〈荊冠のキリスト〉と〈悲しみの聖母〉)を形成する(アーヘンで3月9日から6月11日まで『涙と血─アルブレヒト・バウツの「受難のキリストの顔」』展が開催されている)。見る者を深く打たずにはいない涙の詳細な描写。瞼から溢れ出て頬を伝い顎まで流れ落ちるのを目で追いつつ,観者もまた,自ら涙を流すよう促される。先述したようにイメージの中の人物は聖人であれ,寄進者であれ,聖なる書物を開いて読んでいることが多い。ここにも信仰の手引きとなるべき祈祷書を読むという行為自体への観者の誘いが見出されるように思われる。

イメージの中に現代の日本人が見る「信仰のよすが」は15世紀の人々にとってもそうであったのか。繰り返し現れるモティーフや人物の所作を想像に任せて読み解き,15世紀の宗教画を捉えようとする試みにとらわれている。

セルバンテスの思い出
吉田 彩子

『ドン・キホーテ』や『模範小説集』のなかでセルバンテスは,モリスコ(改宗イスラム教徒)やヒターノ(スペインに居住するロマ)などの迫害された社会の周縁の人びとに光を当てている。ときにはバルセロナの山賊のような反社会的な犯罪集団のリーダーや,ガレー船に送られる漕刑囚さえ共感を込めて描いている。セルバンテスが生きた16世紀後半から17世紀初頭にかけて,世界はめまぐるしく動いていた。日本に目を転じれば,長い戦国の世が終り,安土桃山時代を経て,家康が江戸に幕府を開いている(ちなみにセルバンテスは家康と同じ年に世を去っている)。室町中期から戦国にかけての社会風潮といえば「下克上」である。スペインと日本を同じ時代ということだけで,いたずらに関連づけて論じることは危険であるが,運命と秩序を受け入れていた中世が終ると,自由意志と実力で自らの人生を築きあげる希望の時代が来た。大航海時代のスペインでは,一攫千金を夢見て多くの貧しい若者が新大陸をめざした。与えられた境遇に甘んじる人生は敗北であった。そして,そのような時代の風潮こそが,書斎のドン・キホーテを悲劇の主人公に変えたのである。

『美しいヒターノの娘』,『ビードロ学士』,『嫉妬深いエストレマドゥーラ男』という『模範小説集』に収められたセルバンテスの代表的な三つの短編をつぶさに読むと,自分の意志で運命(境遇)と戦う者には悲劇的な結末が訪れ,自らの境遇を受け入れて生きる者に幸福な結末が訪れる構図になっている。

『美しいヒターノの娘』の主人公プレシオサは,卑しい生まれを受け入れ,踊りと歌で誇り高く暮らしている。しかし,彼女に恋した貴族の息子は,名家を捨て,ヒターノのキャンプで暮らす。運命を受け入れる女と,運命を切り開く男。いつでも悲劇に転じかねない恋愛物語が,どうにか幸福な結末を迎えるのは,プレシオサが誘拐された貴族の娘であるというどんでん返しがあるからだ。

『ビードロ学士』は,都会で学問を修めて立身出世することを夢見た,貧しい村の神童の挫折の物語である。社会の腐敗に失望した清廉な学士は軍隊に戻り,勇敢な戦死で不朽の名を残すが,それは自由意志の悲劇そのものである。

『嫉妬深いエストレマドゥーラ男』でも,典型的な運命と自由意志の対立が描かれている。ビードロ学士は貧しさから抜け出そうとしたが,富裕な貴族のフェリポは,村を出て放蕩息子のようにさすらい,遺産も使い果たす。フェリポは新大陸に渡り,ペルーで巨万の富を築いて帰国し,70歳近い年齢にもかかわらず美少女レオノーラと結婚する。ここまではフェリポの自由意志による人生は勝利したかにみえる。彼は幼い妻を男子禁制の屋敷に監禁することで平穏な結婚生活を維持した。彼を苦しめているのは激しい嫉妬の感情である。嫉妬がなにに起因するかといえば,愛情の深さによるものと言うより,人間の自由意志に対するフェリポの恐怖に基づいている。その恐怖・不安こそが,自由意志を信じて生きる者たちが支払う代償なのである。

難攻不落の要塞と思われた屋敷に,ドン・フアンのように邪悪な若者ロアイサが使用人を騙して忍び込み,退屈しのぎにレオノーラと一夜を過ごしてしまう。ロアイサが象徴するのは,倫理のない自由意志のむごたらしさと不毛である。レオノーラはロアイサと取引した性悪の女中頭に口説かれて,ロアイサに身を任せたかのように書かれているが,それはセルバンテスのひっかけである。レオノーラは,貧しい貴族の娘という境遇を受け入れ,老いた金持ちの夫にも不満を持たずに暮らしていた。屋敷は暗黒の中世の隠喩であり,性悪な女中頭の誘惑のささやきは,レオノーラにとって自由と解放の息吹であるがゆえに抗し難いのである。ロアイサという美しい若者を目にして,レオノーラは初めて自由意思で人生を選択したのである。だから,抵抗したために性的な関係は持たなかったにもかかわらず,フェリポに弁明しなかったのである。妻の不義を目にして悲嘆のあまり病床についたフェリポの遺言は,寛大なものであった。妻に莫大な財産を残し,ロアイサと結婚するように求めた。死に臨んでフェリポは自由意志(自己)を離れ,目の前の現実(運命)をまるごと受け入れたのである。

レオノーラが俗世を捨て,戒律の厳しい修道院に入ったのは,罪の重さを悔いたためというより,彼女には自由意志で切り開く人生が過酷すぎたからであろう。ロアイサは恥じて新大陸に旅立つが,そこに幸福な未来は見えない。

『ドン・キホーテ』は喜劇でありながら,同時にハムレットよりも深刻な悲劇として読むことが可能である。騎士物語の読み過ぎで,自分を遍歴の騎士だと思い込んだドン・キホーテに読者は笑い転げるが,自由意志を信じている時代には,希望や思い込みを否定する方法がない。

読者が笑っているのは,希望というものの愚かさではないだろうか。

トリエステの強制収容所
山﨑 彩

トリエステ。国境の町,坂の町,青い海が輝く町。サーバの,ズヴェーヴォの,ジョイスの町。一方で,ここは,ナチスの強制収容所があった町でもある。

リジエーラ・ディ・サン・サッバは,19世紀末に米の脱穀施設として作られた。1943年から強制収容所となり,1944年には焼却炉も増設された。ここで処刑され,焼却炉の中へ消えた人は3千人とも5千人とも言われ,その全貌は明らかでない。1945年4月29日夜,撤退前のドイツ軍は書類など戦争犯罪の証拠となるものを焼却炉ごとダイナマイトで爆破したのである。

リジエーラに収監され死を目前にした人々は,監房の壁や扉に自分の名前,出身地,生年月日などを刻んだ。それらの「落書き」は,すべてを奪われた人々がかろうじて残すことのできた生の痕跡であった。にもかかわらず,それは戦後のどさくさの中きれいに消されてしまう。けれども,その前にある人物が多くを自分のノートに書き写していた。

書き写したのは,ディエーゴ・デ・エンリケという稀代の収集家である。彼は「平和のための戦争博物館」を作るという強い信念のもとに,戦争中から,戦車,Uボート,大砲,そして軍服からチラシまで,とにかく戦争に関係したありとあらゆるものを集めていたが,物ばかりではなく,戦争中に自分が見聞したことをそのまま自らの「日記」に記録し,蒐集した。終戦後まもなく,デ・エンリケはどのようにしてか行政府の許可を得て,リジエーラに立ち入った。そして,壁に書かれていた「落書き」をそっくり彼の「日記」に写し取ったのである。

1974年,彼は原因不明の火事により謎の死を遂げる。その後,「日記」の何冊かが行方不明になっていることが明らかになる。「日記」はなぜ消えたのか? 何が書かれていたのか?「日記」に写された「落書き」の中に,戦争犯罪の協力者を特定できる情報があったのではないか? それは誰だったのか? さまざまな憶測が飛び交ったが,すべてはうやむやとなって闇に葬られた。

昨年カフカ賞を受賞したクラウディオ・マグリスの2015年の小説『公訴棄却』Non luogo a procedereは,このトリエステの深い傷に正面から向き合ったものだ。この小説は,他のマグリス作品と同様に,虚実の入り交じったエピソードが緊密につながって,ひとつの壮大な物語を作り上げる。けれども,全体像は読み終わるまでわからないように仕組まれていて,だから読んでいる間,読者は常に迷宮の中にいるような感じを抱かされる。それはまるで,戦時下の人々が経験した先の見えない不安感を読書によって追体験させようとするかのようだ。

小説は,架空の,いまだ準備中の博物館「平和のための戦争博物館」として想定される。戦車から,野外炊飯用の鍋,パルチザンの履きつぶされた靴まで,マグリスはデ・エンリケの蒐集物をひとつひとつ取り上げ,その解説から始めて,その物体が内包する物語を語る。それは,時代も場所も出来事も,一見したところ互いに関係のない雑多なエピソードの寄せ集めである。だが,実は,それらはすべて,過去に暴力によって命を落とし,忘却の中に消えていった人々,リジエーラの囚人のように,存在した痕跡をほとんど残せなかった人々のものである。マグリスは忘却の淵に沈みかけたこれらの人々の記憶のかけらを掬い上げ,そこに言葉を添えて,想像力(と綿密な資料調査)によって失われた物語を蘇らせる。

さらに,無数の小さな挿話と考察の外側には,それらを「メモ」の形で残した故人の「彼」(後書きでそれがデ・エンリケのこととわかる)と,それを読む博物館職員の「ルイーザ」の物語が展開される。その中で,リジエーラで起きたこと,デ・エンリケの死の謎が少しずつ解き明かされ,また「公訴棄却」により自由の身である「犯罪者」の姿も徐々に明らかにされる。

ここで糾弾されるのは,だが,リジエーラでの非道な行いに直接関わった個人ばかりではなく,むしろ,戦争犯罪に直接関わらず,戦争法廷に引き出されなかった多くの一般市民たちだ。彼らはリジエーラの存在を知りながら口をつぐみ,戦後にはリジエーラの「落書き」を真っ白く塗り,負の記憶を消去した。それは無知のせいだったかもしれない。だが,「無知は罪を軽くしない。逆に重くする」と書くマグリスは,自らを含むトリエステの人たちが,リジエーラの加害者でもあったという事実を告発せずにはいられない。

小説『公訴棄却』は,イタリアの日刊紙『コリエーレ・デ・ラ・セーラ』で2015年の「ブック・オブ・ザ・イヤー」に選出された。ところで,デ・エンリケの膨大な蒐集品はというと,それは長い間,市の倉庫にしまわれていたが,2014年,コレクションを展示する博物館が「平和のための戦争博物館“ディエーゴ・デ・エンリケ”」として開館している。

アテネの楽器製作者ディミトリス・ラパクシオス氏
佐藤 文香

昨年8月に1通のメールが届いた。件名は「Kokuu虚空 με πανσέληνο και θάλασσα」,本文はなくファイルが1件添付されているのみだ。思わずスパムメールかと見紛ってしまうが,ディミトリスさんからだ。「Koku Skiathos」と書かれたファイルをおそるおそる開いてみると,少々息づかいのあらい尺八の古典本曲《虚空》の演奏が約9分つづく。ことばによるメッセージは何もない。つまるところ,夏の休暇を過ごしに行ったスキアトス島の海辺で満月の夜に《虚空》を吹き,その録音を送ってくれたわけだ。なんとも粋なこころみだが,挨拶文を書くのももどかしいくらいにはやく,この体験を分かち合いたかったのか,まったくディミトリスさんらしい。

ディミトリスさんはふだん弟のヤニスさんとアテネ市内で楽器工房を営んでいる。エヴァンゲリズモス駅からほど近い閑静な路地裏の一画に工房をかまえて10年以上になり,いまやギリシア内外で定評のある楽器製作者として活躍している。製作する楽器はラウート(リュートの一種)やブルガリ(トルコのバーラマ・サズよりも小型の長棹撥弦楽器),ウティ(ウード),ブズーキ(1950年代にマノリス・ヒオティスが1弦足し,装飾も華美になったが,もとはバーラマ・サズに似て簡素)やバーラマ(ブズーキの小型版)などで,彼の言葉を借りれば「装飾が簡素で伝統的な」ものである。ラウートと言っても地域によって形や大きさが異なり,なかでもクレタ島(クリティコ)とエピロス地方(エピロティコ),イスタンブル(ポリティコ)のものが現在普及しているが,そのどれをも手がける。ウティについても同様で,調弦や共鳴孔,共鳴板の細工の違いによって特徴づけられるトルコやイラクのウードなど扱う幅は広い。

修理依頼があれば,手がける楽器はもっと多彩だ。タンブール(ビザンツ記譜法の改革者クリサントス(1832)が旋法エコスの学習に適しているとした長棹撥弦楽器)やカノナキ(台形のツィター),リラ(膝の上に直立させて奏する短棹擦弦楽器)など,ギリシア一帯に見られるほぼすべての弦鳴楽器に対応してくれるから,遠方から工房を訪問する依頼者も少なくない。客の注文に応じて共鳴胴はキタラ(ギター),棹はブルガリといった新たな楽器も製作する。製作した楽器は,音楽学者フィヴォス・アノヤナキスがギリシア全土で収集した楽器を展示する楽器博物館の隣接店に置かれていることもあってか,ギリシア国外からの依頼も引っきりなしにある。バレンシア大聖堂の修復作業の際に天使たちが楽器を演奏するフレスコ画が発見されたとき,記念コンサートのためにバレンシア・ウードの復元を担当したのもディミトリスさんだ。

たしかな腕前をもったディミトリスさんが楽器製作者への道を志したのはかれこれ20年以上前のことで,パトラスの大学で化学工学を専攻していたころ,どうしても欲しかったバーラマを独学で仕上げたことがきっかけだ。のみ1本でくる日もくる日も木を刳り貫いて作ったバーラマはいまでも彼の手元に大切に保管されている。私がディミトリスさんと知り合ったのは2009年秋,政府給費留学生としてアテネに滞在して間もないときのことだ。ギリシア伝統音楽界の裏舞台を支える立役者が大の親日家だったおかげで,この種の音楽に関心をもち,博士論文執筆のための資料収集をしていた私は本当に幸運だった。

ギリシア伝統音楽(パラドシアカ)にはそもそも「ギリシア音楽」の範疇に入っていなかった音楽が含まれる。たとえばポリティコ・ラウート(通称ラフタ)は「コンスタンティノープルのリュート」を指し,19世紀末から20世紀初頭の領土拡張戦争のなかでギリシア本土に渡った旧オスマン帝国領出身者と関係が深く,ハードウェアとしては博物館に展示されるなどして残っているものの,ソフトウェア面の伝承は途絶えてしまった。それが1990年代以降,音楽教育方針の改定とその後の伝統音楽の範疇の拡大により,こうした楽器に注目が集まり,演奏技法やレパートリーの修得のためにこの種の音楽に従事する関係者がトルコに留学する,といった動きが現在につづく。パラドシアカ復興の経緯についてはKallimopoulou 2009に詳しいが,まだまだ未開拓の研究領域であったのだ。

当時ディミトリスさんが熱中していたのは津軽三味線だ。一日の仕事を終えた後に工房で左利き用に特注した三味線を奏でる。そこに広がる景色は一面の雪のなかに凛と聳え立つ青森の郷土富士,岩木山だ。たしかにそれをひしと感じて三味線を奏でるのだ,そうすると疲れも何もかもがすっと消え去るんだ,そう語っていた。《虚空》を吹く彼の前には一体どんな景色が広がっているのだろう。満月を仰ぐ海はスキアトス島を遠く離れていたのかもしれない。

追憶のファティマ・メルニーシ
宮治 美江子

私にとって最近の衝撃的出来事は,モロッコの社会学者で,北アフリカきってのフェミニストとして活躍して来たファティマ・メルニーシ(ファーティマ・メルニーシー)の急逝である(2015年11月30日,享年75歳)。そのニュースは衝撃を持って受け取られ,同日の仏紙ル・モンドは2頁の特集記事を組み,「アラブの美しい星が消えた」と悼んだ。2014年10月,23年ぶりに訪れたモロッコのラバトで彼女に再会を果たした時には,元気で相変わらず内外の様々なプロジェクトに参加し,若い人たちに慕われながら活躍していた。

メルニーシと初めて会ったのは,彼女が国際交流基金の招聘で1988年1月に2週間日本に滞在した時で,在モロッコの日本大使館の要請で,その日程を彼女の希望に沿ってコーディネートしたからである。日本の活躍する女性として東京家政大で同僚だった樋口恵子さん宅訪問や『法女性学』をジェンダー視点で書いた金城清子さん(高校の同期)と吉祥寺でしゃぶしゃぶを食べながら話をした。我が家にも招待し,マグリブ研究者や女性の多摩市議会議員に紹介したり,朝日新聞の論説委員だった故松井やよりさんにも会い,公文塾やコンピューターやロボット工場見学,能の鑑賞。関西訪問では,国立民族博物館,松下電気技術館見学,京大の故米山俊直先生にお願いして,上野千鶴子さんや嘉田由紀子さんたちと,うどん鍋をかこみながら懇談。帰京後,森英恵さんとの食事会や国際交流基金のレセプションと目まぐるしい滞在であった。翌年には国連大学の評議員に選ばれた5人の第3世界の女性の一人として再来日した。その時も一緒に京都を旅行した。私が1989,90,91年にモロッコに行った時には,90年に東京家政大の同僚とモロッコの服飾文化の研究旅行をし,社会学者で作家のA.ハティビ宅訪問やモロッコの衣装制作や刺繍家宅訪問。メルニーシの海辺の別荘に招かれたりした。91年に日本学術振興会の科研費による海外学術調査,京都大学「アフリカ・イスラームにおける都市─農村関係の動態的研究」(代表米山俊直)でモロッコの「古都フェス地域の女性文化の変容と女性労働」の調査を夏に約1か月半やった時にも,フェズ市長さんたちに紹介して頂き,彼女の従兄弟に3階建ての生家を見せて頂いたりお世話になった。

彼女は1940年モロッコの古都フェスの旧家に生まれ(自著『ハレムの少女ファティマ』ラトクリフ川政祥子訳,未来社,1998),進歩的な父親の勧めで市立の共学校で教育を受け,ムハンマド五世大学で社会学学士号を取得し,フランスで学んだ後,米国のブランダイス大学で博士号を取得した。帰国後ムハンマド五世大学の社会学講師となり,社会学研究所教授としても長く活躍した。彼女の博士論文に基づく,Beyond the Veil: Male-Female dynamics in Modern Muslim Society,ヴェールを超えて:現代ムスリム社会における男女関係(1975年出版),以降のイスラームと女性に関する数々の著作で世界的に注目され,その多くは欧米や中東,アジアでも翻訳された。

彼女の著作の中心テーマの第一は,モロッコの女性たちの事例を中心に,イスラーム世界の女性たちを抑圧する父権的なジェンダー・イデオロギーを,クルアーンはもちろん,ハディースその他の宗教的・歴史的文書を渉猟して検証し,現在の男性に見られる女性蔑視的,抑圧的言説は,預言者ムハンマドの意図したものではなく,その後の女性嫌いの権威主義的神学・法学者たちの誤った解釈に基づくものであると糾弾し,預言者による当時としては革新的な女性観を取り戻そうと努めたことである。イスラームとフェミニズムは矛盾しないと彼女は強調。また男女の言説の違いに深く関わる政治・社会的条件と,階層関係を書いていく中で,特に発言の機会のない農民女性や都市下層の女性たちをインタビューして彼女たちの力強い声を人々に届けた(Le Maroc raconté par ses femmes 女たちの語るモロッコ,1988)。

第2は,女性の問題は時代の政治状況と深く関わり,その解決のために自国も含めた政治・社会の不公正で非民主的な状況の告発へと向かうことになる(『イスラームと民主主義』私市正年,ラトクリフ川政祥子訳,平凡社選書2000年)。彼女の書く事へのこだわりと覚悟は称賛に価する。

2014年に23年ぶりに訪れたモロッコでは,1989年に我が家に招き,90年に厚生大臣になった時にはインタビューし,その後国際機関のモロッコ大使も務めた社会心理学者のアーイシャ・ベラルビーたちとメルニーシの自宅に呼ばれた。彼女はこれから出版する本の題名は,Corruption of Masculinity (男性性の崩壊)だと話していた。メルニーシは,アラブの市民革命の原動力にもなったIT革命が,男女の壁をも崩すとみていたのだろうか。彼女はラバトの下町を散歩して,私にモロッコ庶民の生活を見せ,まだやりたいことは一杯あるのよと話していたが,本当にまだまだ活躍して欲しかった。スペインのアストリア賞(2003),オランダのエラスムス賞(2004)を受賞。

表紙説明

地中海世界の〈城〉4:マドリード,「アルカサル」(旧王宮)/ 貫井 一美

スペインの首都マドリードの王宮は,1736年に発案され1764年に完成した端正な美しい建物で,“alcázar”(王城,城塞)というより“palacio”(宮殿)という響きが相応しい外観である。以前,ここには「アルカサル」と呼ばれる旧王宮が存在した。

「アルカサル」の起源は,イスラムの城塞であったとされている。9世紀後半,アル・アンダルスの北限を守るための砦がムハンマドⅠ世によって建てられた。この城塞は11世紀後半にカスティーリャ王アルフォンソⅥ世によって奪取され,次第に町が造られた。マドリードである。

やがてスペイン国王カルロスⅠ世は,このイスラム起源の要塞の大改築を命じ,「アルカサル」とした。フェリペⅡ世以前には,スペインには首都という定まった場所がなく,その時々に王がいるところに宮廷が営まれるという,いわゆる移動宮廷であったが,カルロスⅠ世の息子,フェリペⅡ世は,1561年にこの地を首都とした。その中心となったのが「アルカサル」である。マドリードが首都となった事で「アルカサル」はスペイン王家の居城,そしてハプスブルク宮廷が営まれる場となった。フェリペⅡ世,Ⅲ世,Ⅳ世,カルロスⅡ世の治世をとおしてスペイン・ハプスブルク家の政治拠点であり,同時に王室の美術品の宝庫でもあった場所である。

「アルカサル」の各部屋は王室の美術品コレクションによって飾られていた。現在,プラド美術館が所蔵する絵画作品の多くを私たちはアルカサルの財産目録に見いだすことができる。ベラスケス作《ラス・メニーナス》の舞台となったのもこのアルカサルの一室である。[皇太子の間]と呼ばれていたこの部屋はその主人であった皇太子バルタサール・カルロス亡き後,画家ベラスケスのアトリエとして使われており,《ラス・メニーナス》の画面からも壁面が絵画作品によって埋め尽くされていた様子がうかがえる。1648年,ベラスケスは二度目のイタリア旅行へ出発するが,これもアルカサル改築に際しての美術品購入を目的としていた。このように内部は美しい絵画,彫刻で装飾されていた「アルカサル」は,歴代国王たちによって増改築が繰り返されていたが,残された資料などから推測するに,現王宮と比較するとイスラムの城塞の面影を残し,簡素で質実剛健な外観を持ち,厳格な宮廷儀礼が支配していたハプスブルク王家の居城に相応しい「王城」の印象である。

表紙の上図は,Juan Gómez de Moraによるアルカサル南側ファサードの復元模型,下図は,Nicolas Guérardによる,フェリペV世がポルトガルへ向けて「アルカサル」を出発する様子を描いたものである(いずれもマドリード歴史博物館蔵)。

イスラム支配,レコンキスタ,そしてハプスブルク家によるスペイン帝国の歴史の証人であった「アルカサル」は,1734年12月24日,聖夜に焼失する。ハプスブルク家は断絶し,ブルボン家がスペインを統治して間もない頃であった。ハプスブルク王家の最後を見取り,後を追うように消えていったのである。「アルカサル」の火災では多くの美術品が失われた。そして統一国家スペイン帝国初の王朝であったハプスブルク王家の記憶もまた,その多くがこのアルカサルと共に灰燼に帰したのである。