地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

地中海学会では第21回「地中海学会ヘレンド賞」(第20回受賞者:水野千依氏,山本成生氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第40回大会において行う予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求下さい。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2016年1月7日(木)~2月10日(水)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

第40回地中海学会大会

第40回地中海学会大会を2016年6月18日,19日(土,日)の二日間,首都大学東京(八王子市南大沢1-1)において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する会員は2月10日(水)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

2月研究会

下記の通り研究会を開催します。
テーマ:フランチェスコ・ボッロミーニによる
    『オプス・アルキテクトニクム』とオラトリオ会の建築計画
発表者:岩谷 洋子氏
日 時:2月20日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス法文1号館2階215教室
参加費:会員は無料,一般は500円

ローマ・バロック期の中心的な建築家フランチェスコ・ボッロミーニの建築書『オプス・アルキテクトニクム』について,基本史料を紹介し,その研究史を概観する。また,その主題であるオラトリオ会の建築を,ボッロミーニによる他の建築と計画時期やデザインについて照合し,その設計過程を読み取っていく。さらに,修道会としてのオラトリオ会自体の特徴を考慮しながら,その建築計画と建築書の構成・内容を考察する。

会費口座引落について

会費の口座引落にご協力をお願いします(2016年度から適用します)。
会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報384号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月19日(金)です。ご協力をお願い致します。なお依頼書の3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。

会費納入のお願い

今年度会費を未納の方には振込用紙を月報384号に同封してお送りしました。至急お振込み下さいますようお願いします。ご不明のある方,学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へご連絡下さい。
会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313

事務局冬期休業期間:12月28日(月)~1月6日(水)

フリードリヒ2世のカリフ観
橋爪 烈

一寸したきっかけで,アラビア語史料に描かれるローマ教皇のことを調べている。あまり多くの記述に巡り合わない。イスラームとヨーロッパの接触を扱っていそうな史料を繙けば何か出てくるのではないかと頁をめくっているが,捗々しくはない。そんな折,ある記事にたどり着いた。教皇にも関わりがあるが,どちらかというと筆者が主として研究対象にしているカリフに関する記事である。まずはその記事を引用しよう。

私(イブン・ワースィル)の許に以下の話が届いている。すなわち,皇帝(フリードリヒ2世,以下「皇帝」)がアッカーにいた際,彼はアミールであるファフル・アッディーン(以下「ファフル」)に「汝らのカリフについて私に教えてくれ。その根本は何であるのか」と問うた。そこでファフルは「カリフとは,我らが預言者ムハンマドの叔父の子孫であり,父からカリフ位を継承し,またその父も父よりカリフ位を継承します。従って,カリフの位は預言者の家の内部で継承され,その外に出ることはないのです」と答えた。皇帝は「それは何と素晴らしいことであろうか。それに引き換え,知性少ないこれらの者共,すなわちフランクの人々は,血縁においてもその他の結びつきにおいてもメシアとなんら関係のない無知で愚鈍な人物を掃き溜めから連れてきては,彼らのカリフとして,またメシアの地位を占める者として据えるのである。ところが汝らは,そのカリフは汝らの預言者の叔父の子孫であるという。それ故に,その人物は人々の中でその地位に最も相応しい者であるだろう」と述べた,と。

上記の引用は,イブン・ワースィルの歴史書『悲しみの除去』第4巻251頁に収録された逸話である。中世西欧世界の「カリフ」に対する認識の一端を伝える貴重な証言ではないだろうか。ただし,この認識が皇帝のものであるか否かは,検討を要する。

この逸話の要点は,世襲の肯定およびカリフと教皇を同様の存在とする認識である。皇帝の発言には,教皇がメシア(キリスト)との血縁関係を有さない,どこの馬の骨ともわからない人物であることへの非難が込められている。アッバース家は代々カリフ位を世襲してきた,という,単に歴史的な事実を伝えただけのファフルの回答を聞き,その世襲を高く評価していることから,世襲への肯定的姿勢が読み取れる。この逸話の前には,皇帝の「自分は皇帝の息子であり,最もその地位と王冠にふさわしい」という発言を含む,帝位獲得までの苦労話が収録されており,世襲こそが彼自身の地位獲得の正当化の根拠であったことが分かる。このように,皇帝がアッバース家のカリフ位世襲を肯定する背景はそれなりに存在し,引用文に示されたような認識を有していた可能性は大いにあるだろう。

さらに,件の逸話を伝えるイブン・ワースィルに焦点を当てて考えてみよう。1208年生まれ,1298年没のこの歴史家が『悲しみの除去』を執筆したのは1272-85年で,件の逸話が1229年のことであるから40年以上後のことになる。時間的隔たりがあることは否めず,用語の精確度合は下がるだろう。また1229年当時,彼はまだ宮仕えの身ではなく,従って直接見聞の可能性もない。ただその後,ファフルと同じアイユーブ朝主君に仕え,マムルーク朝に出仕していた際の1261年には,皇帝の子でシチリア王であったマンフレッドの許へ使者として赴き,彼と交流している。こうした経歴から考えて,ファフルからは直接,皇帝についてはその関係者から,逸話に関する情報を入手することが可能であっただろう。よって彼の伝える皇帝の「アッバース家のカリフ位世襲」への肯定評価は当人のものと考えてもよさそうである。

一方,カリフと教皇を同様の存在とする認識については,イブン・ワースィル自身にもそうした認識があったようである。例えば,教皇は「彼ら(フランク)の許で,メシアのカリフ」であり,「メシアの立場に立つ者」である,と説明している。こうした指摘がいくつかある。従って,件の逸話だけで,皇帝がカリフと教皇を同様の存在と認識していたと判断するのは早計である。

そこで,別の史料に頼ることにする。同時期に著されたイブン・ナズィーフ(1240年歿)著『マンスール史』に,皇帝が自ら認めたファフル宛のアラビア語の書簡が収録されている。そこに,教皇を「宗教のイマームであり,使徒たちのカリフである」と表現している件がある。この書簡の真正性を受け容れるならば,先の逸話の内容と併せて,皇帝がカリフと教皇を同様の存在と認識していたと考えてもよいのではないだろうか。

さて,皇帝のこうしたカリフ観が中世西欧世界の一般的なものであったのか,今後も頁をめくる日々は続く。

『レ・ミゼラブル』考
田口 亜紀

大学の模擬授業で,ミュージカル『レ・ミゼラブル』でガヴローシュの歌う「ヴォルテールのせい」を紹介しようと思い,原作を読み返した。

二年前にミュージカル映画がヒットしたことで,少なくともタイトルは有名になった。ところが,アダプテーションに比べてユゴーの原作は長大かつ複雑な話である。冒頭から百頁,ジャン・ヴァルジャンに銀の燭台を与えることになるミリエル司教の生い立ちと生活について語られる。まだジャン・ヴァルジャンは出てこない。すると謎の人物が登場する。「誰もこの男を知らなかった。(…)七ヶ月前に,ナポレオン皇帝がカンヌからパリにのぼって行ったときと同じ道を通って,彼はディーニュに入った。」これこそヴァルジャンではないかと,読者が推測しはじめると,ヴァルジャンとナポレオンが重ねられる,かなり奇妙で不自然な記述が続く。「一七九六年四月二十二日,パリではモンテノッテの勝利が伝えられた。それは,革命暦第四年花月二日の,五百人会議にあてた速達で,ブオナパルテと呼ばれているイタリア軍総司令官によってもたらされた勝利である。その同じ日,多くの囚人がビセートルに繋がれた。ジャン・ヴァルジャンもその中に入っていた。(…)彼はトゥーロンに出発した。」ユゴーはヴァルジャンをナポレオンと同い年にし,同じ旅程を設定した。ヴァルジャンは,地中海に面したトゥーロンにあった徒刑場で,窃盗罪に脱獄の罪が加わって,十九年間,徒刑囚の務めを果たすことになる。一方,ナポレオンはトゥーロンで反革命勢力の包囲から町を解放したことで名を上げた。このようにユゴーは,ナポレオンの「光」とヴァルジャンの「影」を,対照的に描いている。

『レ・ミゼラブル』は十九世紀フランス社会を舞台とした壮大な歴史小説であり,読みこなすには相当の努力と根気がいる。また,ユゴーの政治的,あるいは人道主義的主張が強く,読者は圧倒されるに違いない。登場人物は型にはまっていて,話には偶然が多い。勧善懲悪のきらいがあるが,登場人物は皆,個性が光っている。だからこそミュージカルに向いているとも言えるのだが。文体論の視点から小説を分析すると興味深い。神のようにすべてを見通す語り手がいるかと思えば,人物の身元は伏せられてミステリー風になる。あるいは語り手は登場人物の心の奥底に入り込んで,感情の揺れ動きを逐一報告する。比喩を用いることもある。例えば徒刑囚ヴァルジャンの心中を描写する際の「海」だ。「一人の男が海に落ちた! かまうものか。船は止まらない。風が吹いている。(…)夜の帳がおりてくる。もう何時間も泳いでいる。力が尽き果てる。彼はひとりぼっちで黄昏の恐ろしい深淵の中にいる。彼は沈み,(…)ぎこちなくなり,身をよじる。体の下には,見えない世界の,はっきりしない怪物を感じる。彼は叫ぶ。もう人間はいない。神はどこだ」。

「神」同様,「海」はユゴー作品に繰り返し現れるモチーフである。海だけではなく,水にまつわる場所─川,雨,下水道─も小説で象徴的に使われる。ジャベール警部が投身自殺する場所はセーヌ川である。また,ヴァルジャンが怪我したマリユスを担いで彷徨うのは下水道だ。筆者が訪れたパリ下水道博物館では,本作を取り上げてパネルで当時の様子を説明していた。

そして,上述の「ヴォルテールのせい」の歌詞には「汚水(どぶ)」が出てくる。一八三二年の六月暴動で,浮浪児ガヴローシュが政府軍に撃たれる直前に口ずさんでいた歌だ。

「僕は公証人じゃない/そりゃ,ヴォルテールのせいだ 僕は鳥の子/そりゃ,ルソーのせいだ/陽気なのは俺の生まれつき/…/みじめなのは僕の身なり/…」

「俺は地面に倒れた/そりゃ,ヴォルテールのせいだ/汚水(どぶ)に鼻をつっこんだ/そりゃ,ルソーの…」

フランス語では韻を踏んでいるので,音の響きがよい。仏語版ミュージカルではそれを見事に聴かせていた。ちなみにガヴローシュは,この小説以降,「パリの浮浪児」という意味の普通名詞になったほど,存在感がある。韻のために言葉の意味より音を取ったとはいえ,歌詞は謎めいている。「ヴォルテールのせい(FAUTE A VOLTAIRE)」という言い回しは,もともと十九世紀の流行歌のもじりだが,フランス語に定着した。フランス革命の思想的支えとなったヴォルテールとルソーを信じたものの,革命は思わぬ方向に進んでしまった。この世に正義はない,とも解釈できる。

ついでながら,この言い回しは2000年にアブデラティフ・ケシシュ監督の映画のタイトルにもなった。映画では,チュニジア人青年がアルジェリア出身と偽って,パリで職を探す。偽装結婚を試みるも失敗,心に傷を負って,入院。そこで一筋の光を見いだすが……移民を取り巻く厳しい社会状況にもかかわらずフランスには疎外された者への扶助と連帯の精神が息づいていた。だが最後には青年は地中海の向こう側に戻らなければならない,という筋である。この話はまたの機会に。

絵画の中の建築
岡北 一孝

昨年はブラマンテ没後500年だった。2019年はレオナルドの,その翌年はラファエッロの没後500年であり,それにあわせた展覧会やシンポジウム,研究書の出版などが期待される。両名ともに画家としての功績はさることながら,建築の分野でも重要人物であり,建築家としての活動に焦点をあてた研究書がいくつか出版されている。レオナルドは集中堂式教会堂の素描を多く残し,理想都市の計画にも関心を示していたし,ラファエッロはローマやフィレンツェでの建築作品,サン・ピエトロ聖堂の主任建築家としての仕事,絵画や素描での建築描写,書簡の中での建築オーダーに関する記述など,トピックにはこと欠かない。

両者に共通する建築史的な分析対象のひとつに,建築図面・素描や絵画での建築描写,すなわち描かれた建築が考えられる。これは古くから研究が展開してきたテーマではあるが,とりわけ「絵画の中の建築」は,近年大きく取り上げられている。ここ数年においても,プリンストン大学美術館,マドリッドのティッセンボルネミッサ美術館やロンドンのナショナル・ギャラリーで,絵画の中の建築に関する企画展示が行われた。

こうした研究潮流に誘われるかのように,15世紀イタリアの絵画の中の建築について思考を巡らせる日々が続いている。アルベルティの建築書や建築作品を長く研究対象としていたこともあり,絵画をどう扱えばよいのか途方に暮れつつも,手探りで始めた試みであった。そもそもルネサンスの絵画史の知識さえも十分ではない。資料を渉猟し,作品集ではなかなか確認できない細部は,現地での観察がすべてだと,あちこちの美術館に気負って出かけた。つい最近になってのことだと思うのだが,ほとんどの美術館や教会堂ではフラッシュなしであれば自由に撮影可能であり,絵画の詳細を画像データとして保存できたのは何よりだった。

多くの絵画を調査していく中で目に留まったのは,マンテーニャ(1431-1506)の絵画である。そこに描かれた建築の細部と空間構成は,どれも当時の流行の建築作品に比肩し,古代性や量塊性においては凌駕する点もある。オーダーの詳細や使用法,空間構成,古代建築の翻案が多く試され,当時の建築創作と切り離すことができない迫真的な建築空間がそこにはある。

その中の一つであるオヴェターリ礼拝堂の壁画(すべてがマンテーニャによるものではない)は,1944年,世界大戦の戦火により大きく破壊された。壁面からがされて別で保管されていた部分は被害を免れたが,ほとんどが木っ端微塵になった。いま壁画の全体像を知るためには,戦争前に撮られた写真やいくつかの複製画を手掛かりにするしかない。

マンテーニャが描いた壁画は,プルーストが「最も愛する絵画の一つ」と評していた。その中の聖ヤコブと聖クリストフォロスに関する物語画(1450-55)に関する先行研究を繙くと,ここでもアルベルティに出会うことになった。一連の壁画の中で描かれた凱旋門,オーダーの柱頭や都市表象には,その万能の天才の建築書や建築作品からの影響が見られるというのである。

その絵画の中の建築は,アルベルティの建築とその理論ぬきには確かに語り得ない。しかしそれは,アルベルティから若き画家への一方的な助言という関係性だけで片付けることもできないように思える。マンテーニャが描いた建築と空間構成をアルベルティが参考にした可能性もまた検討する必要があるはずだ。

例として,アプシスに向かって左側の壁面に描かれた《聖ヤコブの殉教の道行》を見てみよう。そこには荘厳でダイナミックな半円筒ヴォールトと量塊性を備えた凱旋門が描かれている。鑑賞者である我々が,その凱旋門の下に身を置いているような感覚さえもつほどの迫真的な表現だ。これがアルベルティのサン・タンドレーア聖堂(1470年着工)を想起させるのは確かである。アルベルティはマントヴァの聖堂に結びつく建築的アイデアをすでに持っていて,それをマンテーニャに伝えたにすぎないと考えることもできる。しかし,付け柱や円柱を持たない重厚な記念門には典拠が見当たらず,マンテーニャの自由な作意を感じる。むしろマンテーニャの先駆的な表現が,アルベルティに影響を及ぼしたのだと解釈することも,十分に可能だ。

その相互影響関係を解きほぐすためには,オヴェターリ礼拝堂以降のマンテーニャの作品もふくめ,考察していくつもりである。1460年にマンテーニャはマントヴァへと移り住む。そこでは,アルベルティとより親密な関係を築き,多くの絵画作品だけでなく自邸も手がけた。特にゴンザーガ家の宮殿の《夫妻の間》は,マンテーニャの絵画の中の建築の頂点を示す作品といってもよいだろう。そのくらくらするようなイリュージョニズムの部屋は,修復工事が長く続いていて,この4月にようやく一般公開となった。改めてじっくり観察する機会が待ち遠しい。

フィレンツェの記念碑
――司教聖ゼノビウスの痕跡―― 金原 由紀子

フィレンツェの旧市街を歩いていると,初期キリスト教時代のフィレンツェの聖人である聖ゼノビウスがこの地に確かに実在したことを示そうとするモニュメントに出会うことがある。最も有名なのは,サン・ジョヴァンニ洗礼堂の北側に建つ「楡の奇跡」を記念する円柱だろう。これは聖ゼノビウスの死後の奇跡で,聖人の遺骸をサン・ロレンツォ聖堂からサンタ・レパラータ聖堂に移葬した際に,その棺が触れた枯れた楡の木に不意に緑の葉が芽吹いて花が咲き乱れたのだという。また,サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂に近い人通りもまばらなクローチェ・アル・トレッビオ広場には,かつて聖ゼノビウスとミラノ司教聖アンブロシウスが十字架を建てたと伝えられる場所に14世紀の円柱が聳えている。さらには,旧市街の中心の共和国広場からコルソ通りを東へと進み,その先のアルビツィ通りを少し奥へ進むと,左側にあるパラッツォ・ヴァローリアルトヴィーティの地階の窓の下に埋め込まれた古い碑板に目が留まる。銘文にはまずギリシア語で「神の助力により」と記され,次にラテン語で以下のように刻まれている。「聖ゼノビウスは恩寵の年の400年に,ローマへ向かうガリア人の母親から預けられてその間に没した少年をこの場所で十字のしるしによって蘇生させた。戻ってきた母親が嘆きながら彼を訪ねようと町を歩いている時に。」これは「楡の奇跡」に次いで有名な奇跡を記念する碑板で,11世紀前半にアマルフィ司教ロレンツォが執筆した同聖人の伝記にも語られている。15世紀末にクレメンテ・マッツァが編纂した伝記によれば,ローマ巡礼の途上のガリア人女性がフィレンツェに立ち寄り,衰弱した息子を聖ゼノビウスに預けてローマへ向かった。使徒ペテロとパウロの祝日に母親がフィレンツェに戻ると息子は世を去った。絶望した母親が息絶えた息子を抱えていると,サン・ピエル・マッジョーレ聖堂から行列をして市内へ戻る途中の聖ゼノビウスに出会った。母親が聖ゼノビウスに懇願すると,彼は十字を切って少年を蘇生したという。

フィレンツェでは13世紀後半から1358年まで,新しく叙任された司教が初めて同市に入る際に入市式adventusを執り行なっていた。13世紀末にはフィレンツェの貴族階級出身の司教が司教区の財産を横領するなどの不祥事が頻発したことから,コムーネはフィレンツェの豪族が司教の座に就くことを禁じ,さらにはフィレンツェ人が司教になることも禁じた。こうした状況の中で,ローマで祝聖を受けた司教が初めてフィレンツェに入る際に2日間にわたる盛大な入市式を行なうようになったのである。その行程で,新しい司教がこの碑板のある場所に立ち寄ったことが知られている。

M.C.ミラーの研究によれば,新しく叙任された司教は入市式の前日にフィレンツェ近郊のチェルトーザの修道院に宿泊してコムーネの役人らと会合をもった。入市式の第1日目,司教はフィレンツェ最南部にあるサン・ピエトロ・ガットリーノ門でコムーネの高官や大聖堂の聖堂参事会員や聖職者や市民に迎えられ,司教の空位期間に司教区の管理を慣例により代行していたヴィスドミニ家のメンバーを随員として連れながらサン・ピエル・マッジョーレ聖堂へ向かった。6人の随員は司教の頭上に錦の天蓋を掲げ,その棹には当時のローマ教皇,新しい司教,コムーネ,ポポロ・フィオレンティーノ,グエルフィ党,ヴィスドミニ家の紋章のついた旗が飾られた。同聖堂では使徒ペテロの祭壇で祈りを捧げ,それからサン・ピエル・マッジョーレ女子修道院を訪問した。修道院では,司教が女子修道院長に金の指輪を贈る「結婚の儀式」が執り行なわれ,司教はその晩はそのまま修道院に宿泊した。第2日目は,麻布が敷かれたアルビツィ通りを司教が裸足で歩き,聖ゼノビウスがガリア人女性巡礼者の息子を蘇生させた奇跡を記念する石碑のある場所で祈りを捧げてから,プロコンソロ通りを経て大聖堂へと向かった。大聖堂では内陣奥の聖ゼノビウスの祭壇で祈り,それからサン・ジョヴァンニ洗礼堂で最初のミサを挙げた。次に司教館へ入り,司教の空位の間の管理簿と司教館の鍵をヴィスドミニ家の者から受け取った。ミラーはこの入市式が,しばしば外国人が就任した司教に「結婚の儀式」を通じてフィレンツェ市民の忠実な伴侶となるよう誓約を求め,聖ゼノビウスに縁のある場所を裸足で巡礼することで初期キリスト教時代のフィレンツェ司教に対する敬意を表明するよう求めることを目的としていたと指摘している。つまり,地元のコムーネ政府と司教の間の複雑で曖昧な権力関係を可視化する儀式だったのである。11世紀のロマネスク聖堂だったサン・ピエル・マッジョーレ聖堂は1784年に取り壊され,現在は同じ場所に建つ世俗の建物にファサードの名残りを見ることができる。

ヴィクトル・ユゴーと講談
園田 みどり

「ファンティーヌの一生」は,昭和十八年生まれの女性講釈師,神田翠月(すいげつ)師の得意とする読み物である。ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』の中から,ファンティーヌが娘コゼットをテナルディエ夫婦に預けて工場勤めをするものの解雇され,闇の女に身を落とし,雪の夜にマドレーヌ市長と出会うまでが一席(三十分)の講談になっている。吉澤英明編著『講談作品事典』(平成二十年刊)によれば,『レ・ミゼラブル』は明治三十年にはすでに本郷の寄席で講釈として読まれていたようだが,翠月師の台本は彼女の二人目の師匠,二代目神田山陽の手によるもののように思われる。

私の知る限り,『レ・ミゼラブル』の中から彼女が読むのはこの一席だけである。講談(かつての講釈)は,軍談,戦噺(いくさばなし)をその起源とするため,主要な読み物は女性の読み手には適さない。二代目山陽は女性の入門を積極的に許していたので,自分も高座にかけていたユゴーの小説から,女性が読んでこそ映えるこの場面を選んで,弟子に与えたのだろう。

翠月師の台本では,明治期のいわゆる「探偵講談」とは異なり,エポニーヌがエポニン,ジャヴェールがジャベル,モントルイユ・シュル・メールがメールとなる以外は,登場人物の名前と地名は原作に忠実である。もっとも,寄席の客層は様々であるから,テナルディエの女将は寄席文化に合わせて「ちゅうちゅうたこかいな,蛤は虫の毒,山伏の法螺の貝」と呟きながら,ファンティーヌからせしめた五十七フランを数える。名前を尋ねるくだりは,こんな具合である。

女将「そうだ,奥さん,お前さんの名前はなんていうの?」
ファンティーヌ「私,ファンティーヌと申します。」
女将「ファンティーヌ? 覚えにくい名前だねえ。ファンテーンか…… あ,ハンテン,そうだ,半纏と覚えとこ。ね,印(しるし)半纏のハンテンね。うちの名前はね,テナルディエ,って言うの。覚えやすいだろ,テナルディエ。ほら,(手を叩きながら)『手が鳴るで』って,こう覚えといたらいいやね。」

さらに夫婦は,次のように名乗ってみせる。

テナルディエ「御安心なさいまし,まあこの土地でテナルディエと言やぁねぇ,泣く子も黙る男一匹,仏蘭西幡随院長兵衛だ,なあ,おっ母。」
女将「そうだともよ。こういう私だって白無垢鉄火,妲己(だっき)のお百か高橋お伝,あ,こりゃちょっと間違った,子育ての観音様と言われてね,それはそれはもう子供を育てるのがうまくてねぇ。」

おなじみの侠客や毒婦の名前が出てくれば,この夫婦がどのような人物なのかはおおよその見当がつく。テナルディエ夫婦は妲己のお百のように預かった娘を吉原に売ったりはしないが(コゼットはまだ三歳である),口実を設けてはファンティーヌから金を搾り取る。

『レ・ミゼラブル』が講釈場になじむのは,わからなくもない。そもそも,ジャン・ヴァルジャンの怪力無双ぶりは,弁慶の釣鐘引き,あるいは細い道で殿様の行列と出くわし,牛と荷車を目よりも高く持ち上げて行列を通そうとしたという元牛方,のちの細川家家老,沢村才八郎を彷彿とさせる。宙吊りになった水夫を助ける彼の軽やかな身のこなしはまるで猿飛佐助のようであり,テナルディエに送金するため髪を売り前歯を売り,美しかった容貌が醜くなってゆくファンティーヌの悲惨は,豊志賀やお菊のそれにも通じるだろう。パリの奈落を牛耳る四人組の悪党パトロン・ミネットの描写は,頭数こそ合わないが緑林五漢録,あるいは文化五人男を連想させるし,パリの浮浪児ガヴロッシュの姿は,子供のころの野狐三次,あるいは鋳掛屋松五郎の面影に重なる。ジャン・ヴァルジャンが負傷したマリユスを担いで下水道を歩き,ようやく出口を見つけたもののそこには頑丈な錠前の付いた鉄格子があって出られない,もはや万事休すと絶望したその時に,錠前の鍵を持ったテナルディエに声を掛けられるくだりは,あまりに都合の良すぎる「ありえない展開」であり,まさしく講談そのものである。

神田翠月師の芸は,若かりし日に彼女が浪曲の修行をしていたためか,あたかも節がついているかのようである。緩急自在のその独特の調子によって,こしらえごとじみた虚構の物語は,真実味をもって観客に迫ってくる。

1876年,ジュゼッペ・ヴェルディはクララ・マッフェイに宛てて「真実を写し取るのは良いことかも知れないが,真実を作り出すことの方がずっと,ずっと良い」と書いた(G. Cesari e A. Luzio, I copialettere di Giuseppe Verdi, Milano, 1913, p.624)。彼の言う真実味,本当らしさとは何なのか。ヴェルディは《リゴレット》の原作者ユゴーに何を見ていたのか。そんなことを考えなら,私は日日講談に親しんでいる。

表紙説明 地中海世界の〈道具〉11

ポマンダー/田中 久美子

ティツィアーノが描く愛くるしい少女は,フィレンツェの貴族ストロッツィ家のクラリッサである。二歳くらいと思われるクラリッサは,大人びた衣装と豪華な宝飾品で身を飾っている。腰に巻いた鎖が長く垂れ,先端にポマンダーを取り付けている。ポマンダーは,フランス語のpomme d’ambreに由来し,練り香を入れたリンゴの形をした容器のことである。

液体香料が出現するのは17世紀のことだが,香料の歴史は長い。古代メソポタミアや古代エジプトでは宗教儀式に香が焚かれ,神々に香りが捧げられた。香水perfumeの語源はラテン語のper(通して)とfumme(煙)に由来するが,こうした事情を反映する。東方三博士がキリストに黄金に加えて没薬と乳香を捧げたことも香が宗教儀式に密接であったことを物語る。プリニウスはローマ世界での香油や芳香軟膏の流行ぶりを『博物誌』の中で詳細に語っている。香油や香油軟膏の流行はそれらを収める容器を必要とした。時代や地域によって多様な容器が生み出された。

西ヨーロッパでは,中世から液体香料の出現する17世紀まで基本的な香料容器は香炉とポマンダーであった。香炉は吊り香炉と柄香炉の二種類あり,前者は香炉に鎖を付けて吊り下げて,左右に振って使う。教会や儀式の際に用いられた。後者は室内空間用に使用された。ポマンダーは,12世紀に十字軍の遠征によってイスラーム世界からもたらされたと言われるが,6世紀にすでにドイツの古墳から出土しており,起源については諸説ある。個人が着用するための容器で,文字通りリンゴ形か球形をしており,透かし穴が付いている。中に練り香を詰めて,針で刺して香りを発散させたのである。当初は肌の熱を受けて芳香を発するために外から見えることはなかったが,やがてネックレスの先端やロザリオの中央,ベルトのバックル部分に取り付けられたり,ぶら下げられたりして,装飾品として豪華に細工を施されるようになった。

練り香はアンバー・グリスにいろいろな香料を調整して用いられる。例えばシナモン,クローブ,アイリス根,アロエ,ナルド,没薬,シベット,ナツメグ,オポパナックス,カンフル,ビャクダンなど,伝統的に地域で正息する植物に加え,異国から輸入された動植物などと多様である。15世紀のドイツでは60種125通りの調合法が知られていたという。こうした香料に託された役割も,悪臭を避け芳香を漂わせるだけではなく,魔除けや,ペストなど疫病の撃退や予防という医療的な目的や,精神の鎮静や高揚のためなど多用である。多くの肖像画にみられるロザリオに組み込まれたリンゴ型のポマンダーは宗教的な象徴性も帯びていた。また,ヨーロッパ北部の市長の肖像画に数多く登場するポマンダーは,病気を予防するポマンダーの役割が拡大解釈されて公衆の衛生に関する行政の長の責任を象徴するのである。

やがて台が付けられたり,開口可能な複数の弁から構成されたポマンダーも出現してくる。ザクロに想を得たものである。それぞれの弁に刺激剤,鎮静剤,鎮痛剤,消化薬,収斂薬,抗壊血病剤など効用の異なる香料が収められて,多様に使い分けられたのである。

図像 ティツィアーノ《クラリッサ・ストゥロッツィの肖像》1542年 ポマンダー(上) ドイツ16世紀初頭 高さ5cm,直径3.5cm (下)ドイツ16世紀初頭 高さ6.2cm