地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第38回地中海学会大会

  第38回地中海学会大会を6月14日,15日(土,日)の二日間,國學院大學常磐松ホール(東京都渋谷区東4-10-28)において下記の通り開催します。

6月14日(土)
13:00 ~ 13:10 開会宣言・挨拶
13:10 ~ 14:10 記念講演「神々をあがめる人々」 本村 凌二氏
14:25 ~ 16:25 地中海トーキング
  「カミ・酒・ヒト」
   パネリスト: 藤崎 衛/古山 正人/茂木 貞純/(司会兼任)飯塚 正人 各氏
16:40 ~ 17:10 授賞式
  地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10 ~ 17:40 総会(会員のみ)
18:00 ~ 20:00 懇親会[有栖川宮記念ホール]

6月15日(日)
9:30 ~ 12:00 研究発表
  「ヘルメス柱と道祖神にみる境界信仰の類似と共通性 ── 性神的要素と境界感覚を中心に」 平井 倫行氏
  「女性哲学者ヒュパティアと古代末期の独身修行(asceticism)」 足立 広明氏
  「中期ビザンティン聖堂における「受胎告知」の配置 ── カッパドキアの事例を中心に」 菅原 裕文氏
  「カルロ・クリヴェッリ祭壇画研究 ── ファブリアーノ,ラメッリ家文書を手掛かりに」 上原 真依氏
  「18世紀ヨーロッパにおけるパステル作品批評の特徴に関する考察
   ── J. E. リオタール《チョコレートを運ぶ娘》に対する評価の分析を手掛かりとして」 宮崎 匠氏
13:00 ~ 16:00 シンポジウム
  「聖なるものと聖なる場」
   パネリスト: 加瀬 直弥/真道 洋子/水野 千依/(司会兼任)伊藤 重剛 各氏

会費納入のお願い

  新年度会費の納入をお願いいたします。ご不明のある方,領収証を必要とされる方は,事務局までご連絡下さい。
会費自動引落日:4月23日(水)

会 費: 正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先: 郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

第3回常任委員会

日 時:2014年2月22日(土)
会 場:國學院大學
報告事項:『地中海学研究』 XXXVII (2014) に関して/石橋財団助成金申請に関して/会費未納者に関して/2013年度財政見込みに関して 他
審議事項:第38回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/春期連続講演会に関して/寄付事業に関して

訃報

 2月4日,会員の岡村崔氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

研究会要旨
中世創建の墓廟建築にみるアナトリア地域の
キリスト教・イスラーム建築文化の融合
守田 正志
2月22日/國學院大學

  イスラーム流入以前の現トルコ共和国の大部分を占めるアナトリア地域には,ビザンツやアルメニア,グルジアのキリスト教建築文化が浸透していた。そうした中,イラン・イラク一帯を支配した大セルジューク朝は1071年,マラーズギルトの戦いでビザンツ軍に勝利し,アナトリアへのイスラームの普及が加速した。
  イスラーム文化の流入に伴い,キリスト教文化圏には無い新たな建築群がアナトリアに持ち込まれた。それら建築群の類型の一つに,キュンベットあるいはトゥルベと呼ばれる墓廟建築がある。墓廟の現存数は他の建築物に比べ多く,その建築構成・装飾は地域・時代によって多様である。加えて,周辺文化圏の建築遺構との類似性は以前より指摘されている。従って,墓廟は,近隣文化圏との影響関係を含めた,中世のアナトリアにおける建築の歴史的展開を知る上で重要な遺構群である。
  そこで,中世創建の建築を成立させるための技術に焦点を当て,アナトリアの墓廟建築の固有性や他文化圏の建築文化との共通性について考察する。具体的には,12世紀から15世紀前半創建のアナトリア地域のイスラーム墓廟建築を対象に,主構造に用いられた材料・墓廟内部の架構形式・クリプトの建築構成の地域分布を検討し,既存のキリスト教建築文化の影響を含めた,当該地域のイスラーム建築文化の歴史的展開を考察する。
  まず,主構造に用いられた材料をみると,当該地域の墓廟は,石造・レンガ造・石とレンガによる混構造の3種に大別できる。その地域分布をみると,石造の墓廟はアナトリア東部に集中している。一方,レンガ造や混構造の墓廟は,中央部から西部にかけ広く分布している。こうした,使用材料の地域分布の明確な差異から,イスラーム流入以前において,西部で繁栄していたレンガ造主体のビザンツ建築文化圏と東部で繁栄していたグルジア・アルメニア建築文化圏の影響をみてとれる。
  次に,架構形式をみると,イスラーム流入以前からアナトリアで広範に使用されていたペンデンティブやスキンチは,墓廟においてもアナトリア全域でその使用を確認できる。一方,アルメニア建築で多用されているファンは,東部の墓廟にのみその使用を確認できる。さらに,ペンデンティブの変形ともいえる「トルコ三角形」は中央部から西部の墓廟で使用されている。このように,墓廟建築において,特殊な架構法が使用される地域には明確な境界が認められ,既存の建築技術の踏襲や改良を経た,地域ごとの建築架構形式の存在を指摘できる。
  クリプトの建築構成を,その平面形状と架構形式から分類すると,16種類に大別できる。それらのうち,矩形平面に単純なヴォールトあるいは角錐ドームを架けるものが最も多い。このことは,クリプトを半地下に設けるための地盤の掘削や組積による架構という施工上の観点からみると,最も簡易な手法が多用されたと推察できる。16種類のクリプトの地域分布を概観すると,アナトリア東部の墓廟では,正方形平面に角錐ドームを架けるクリプトが,カイセリでは矩形平面に単純なヴォールトを架けるクリプトが多勢を占める。一方,コンヤ周辺や,トカト・シワス・エルジンジャンでは,同一都市(地域)内で建設された墓廟にみられるクリプトの構成は多岐に亘っている。このように,嗜好されるクリプトの構成は地域ごとに異なっていることがわかる。
  さらに,地域を特定し,墓廟全体の建築構成の変遷をみていくと,アナトリア東部のエルズルム地域では,サルトゥク朝下やルーム・セルジューク朝下では他に類似しない個別的な墓廟が建設されたのに対し,イル・ハン朝下では,隅を切り落とした基壇・十二角形の軀体・十二角錐の屋根という規格化された建築構成を持つ墓廟が建設されるようになる。その後のエルタナ朝下でも類似した建築構成を持つ墓廟の建設が続く。また,南東部のワン湖周辺でも同様の傾向を見出せるが,装飾の観点から,エルズルム周辺ではグルジア建築の,ワン湖周辺ではアルメニア建築の影響が強く反映されている。一方,中央部のカイセリでは,ルーム・セルジューク朝下とイル・ハン朝下では異なった建築構成を有す墓廟が建設されたのに対し,後代のエルタナ朝下では前代の墓廟の建築要素を継承した墓廟が建設されている。
  以上,建築材料や架構形式をみると,東方から進出してきたトルコ系民族は,既にアナトリアで発展していた建築技術を吸収・援用して,自分たちの建築文化を発展させたことを窺える。ただし,12~15世紀前半の短期間に,多様な種類の構成を持つ墓廟が,地域的なまとまりのなかで建設されたことは,各地の支配王朝の嗜好性を多分に反映していたことを傍証するものである。同時に,各王朝の支配領域の伸長や王朝間の交流により,墓廟建築の展開に関し,いくつかの系譜をみてとれる。

ポリス公共圏と市民女性
── ネアイラの娘ファノをめぐって ──
栗原 麻子

  日頃,民衆法廷という公的言論の世界を扱っていると,民主制の輝きの陰でそれを支えていたはずの,女たちの沈黙が気になってならない。
  ハンナ・アーレントは『人間の条件』において,民主制下アテナイの女性たちが,男性市民がかたちづくる公共圏から排除され,消費と再生産の領域に閉じ込められていたと述べている。
  アテナイの公共圏は決して無機的な空間ではなく,日常的な社会的結合にもとづいて営まれていた。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』は,社会的結合の例として,船乗り仲間や交易仲間,宗教結社,戦友や地区共同体等のコイノニア(共同体)を挙げ,ポリスをそのようなコイノニアのひとつに数えている。
  にもかかわらずポリスは,その社会を構成し,種々のコイノニアに含まれている雑多な人々 ── 在留外国人や女性たち ── を,政治的意思決定から排除していた。そこに民主制と社会的諸関係とのあいだの不整合が生じる。この不整合は,有用な外国人を,市民権や市民に準ずる社会・経済生活上の特権によってとりこむことで,いくぶん緩和された。これはポリスの構成員としての適格性に,共同体への貢献度に依存する側面があったことを示している。ペリクレスはペロポネソス戦争の戦死者のための葬送演説で,共同のことに関与しない市民を「アプラグモン(静観主義的)などというのでなく,役立たず」であると批難しているが,これもその観点にもとづくものであろう。
  女たちの場合,その有用性は,まずもって消費と再生産の領域である家での活動によって評価された。伝デモステネスの『ネアイラ弾劾』は,訴訟相手ネアイラの娘ファノを悪女として描いているが,その叙述の中に,女性に求められる美質を見いだすことができる。ファノは,弾劾によれば,稀代の遊女ネアイラが愛人との間にもうけた娘であり,したがって市民の妻となる資格のない女であった。しかも,贅沢な生活に慣れていたため,「働きづめに倹約を重ねて日々の生計をたて」る男であった,夫フラストルの家計の遣り繰りも知らず,それがきっかけとなって離縁されてしまう。ところがフラストルは,ほどなくして病に倒れると,ファノとネアイラの手厚い看病に懐柔されて,ファノとの間にもうけた息子を市民として家に受け入れることに同意する。民衆法廷を構成する男性市民たちは,遣り繰り上手でいざとなれば優しく看病してくれる,都合のよい女性像を共有していたのであろう。遊女と市民の不適切な関係を糾弾する『ネアイラ弾劾』の叙述からは,ポジとネガの関係のように,ポリス社会の構成要素としての市民女性像が浮かび上がってくる。
  ファノはその後,身分を偽って再婚し,聖務担当長官にあたるアルコン・バシレウスの妻として,ディオニュソス神との聖婚儀礼に臨んだ。市民の妻として不適格で淫らな女性が,偽ってアテナイ市民女性の代表として聖なる秘儀に関与したことは,アレオパゴス評議会の糾弾するところとなった。『ネアイラ弾劾』は,ファノのそのふるまいが市民の娘や妻たちの慎ましさと特権を傷つける行為であるとして,次のように述べる。「あなた方のそれぞれが,一つは妻のため,一つは娘のため,一つは母のため,そして一つはポリスと法と祭儀のために,一票を投じるとお考えください。彼女たちが売春婦と同じ名誉を分かち持つことがないように(以下略)」。男性市民は,家にいる妻や娘たちへの説明責任を期待されており,家の女性たちの意思を尊重し,それを反映した決断をおこなうことが求められたのである。
  とはいえ『ネアイラ弾劾』で想定される女性の影響力は家庭内のことに限られていた。それにたいしてリュクルゴスの『レオクラテス弾劾』には,女性たちが公的意思決定から排除されていることへの違和感がさらに明確に表明されている。この訴訟が対象とするカイロネイアの戦いは,アテナイにとって総力戦であった。女たちは夫の安否を案じて夜の戸外をさまよい歩き,兵士だけでなく,あらゆる市民がなんらかの貢献を望んでいた。この苦境を共にした女性たちの意思が,訴訟に反映されないのは不当である。リュクルゴスは主張する。本来であれば女性や子供たちも訴訟に臨席すべきであるが,それが赦されない以上,せめて男性市民たちは,彼女たちの意を汲むべきであるとするのである。挙国一致の戦争からすでに数年が過ぎていたものの,連帯の記憶は,ポリスの社会的一体性を強調し,女性たちがもの言わぬ存在であることを疑問視させるにいたったのである。もっともアテナイにおいて,女性参政権は,喜劇作家アリストファネスの夢想にとどまったのだけれど。

慈善とスコラ・カントールム
山本 成生

  「スコラ・カントールム」とは通常,中世キリスト教会の歌手養成所や近代の音楽教育機関・演奏団体を指すが,それらの元祖とされるローマ教皇専属の聖歌隊の起源については,不明な点が多かった。その原因は史料の残存状況のみならず,それらの内容にも拠る。
  「ローマのスコラ・カントールム」の具体的な内実を伝える最古の史料は,「オルドー・ロマーヌス I」である。この史料はローマ教皇が執り行う礼拝の式次第を記したもので,おそらく8世紀初頭のものと推定される。そこで「スコラ」は少なくとも四つの序列を伴う組織であり,教皇がローマの諸教会に到着するまでに聖歌を演奏するなど重要な役目を担っていた一方で,破門に関する規定から,その身分はそれほど高くはなかったことなどが窺える。さらに,これほど具体的ではないが,「教皇列伝」の7世紀後半の記事には,歌に秀でた教皇がそこで音楽教育を受けたことが示唆されている。これらの史料から自然に考えれば,おそらくスコラは7世紀後半に端を発し,少なくとも8世紀初頭には一定の制度的完成をみたと理解できる。
  しかし,この理解の障害となる史料も存在する。その一つは9世紀の歴史家ヨハンネス・ディアコヌスによる「グレゴリウス1世伝」である。比較的詳細に書かれたこの史料において,スコラ・カントールムは大教皇グレゴリウス1世(位590-604)が「設立」したものとされる。だが,「教皇列伝」や書簡を始め,グレゴリウス1世の同時代史料にはそうした記述はほとんど存在しない。よって音楽史家たちは,これをディアコヌスによる創作,ないしは彼が所属していたフランク宮廷の影響から説明している。要するにこの記述は事実ではなく,スコラの成立過程は先に述べたごとく7世紀を通じて行われたとされる。
  私もかつてこのように理解し,文章にもしてしまっていたが,ジョゼフ・ダイアーやクリスファー・ペイジらの近年の研究(J. Dyer [2008]; C. Page [2010])には興味深い考察があり,蒙を啓かれた思いがした。よって,この場を借りて簡単に紹介しておきたい。
  彼らはまず,スコラ・カントールムと「孤児院」の関係を指摘する。その根拠となるのは,「教皇列伝」のセルギウス2世(位844-47)の記事で,スコラの施設の修繕に関して,「それはかつての孤児院 Orphanotrophium と呼ばれていた」とある。同種の記録はステファヌス5世(位885-91)やヨハネス10世(位914-28)の時期にも存在する。
  さて,この「孤児院」はその名称などから「ビザンツ・モデル」に準じたものらしい。つまり,4世紀半ばから6世紀にかけて「キリスト教帝国」としてのビザンツ帝国の成立過程で出現した慈善制度が,7世紀以降,イスラーム勢力の台頭を怖れたギリシア語圏の修道士や聖職者がローマへ移住し始めることで「移植」されたというのである。そこでは助祭が管理・教育を行い,少年らは聖歌を演奏していたようである。
  では,グレゴリウス1世と孤児院≒スコラ・カントールムについての定説は,修正され得るのであろうか。ここでは両者で見解が分かれている。ダイアーは否定派であり,例えば両者の関係を暗示させる唯一の同時代史料である,595年のローマの教会会議決議(助祭に対して,ミサにおける聖歌の演奏を禁じたもの)も,もっぱら司教位と教皇位の候補者である助祭の人選に関わるものであり,スコラとは関係がないと断ずる。
  それに対するペイジの立場は,直接的な史料が存在しないなかで,状況証拠の積み重ねによってなんとか両者の関係の実態とその意味を見出だそうとするものである。紙幅の都合からここでその詳細を述べることはできないが,おおむね以下の5点が検討の対象となる。(1) 同時代史料に言及がない理由(現存するグレゴリウス1世の書簡は本来の24分の1に過ぎず,また「教皇列伝」の記事は選択的である)。(2) 他の地域の事例(少なくともナポリやメルトーラでは,6世紀初頭に聖歌隊組織が存在した)。(3) 大教皇が腰かけていたとされる「寝台」(ホノリウス1世[位625-38]の時期にも確認される)。(4) サン・グレゴリオ・デ・コルティナ教会(スコラの宿舎の位置に16世紀まで存在したもので,大教皇が礼拝堂または何らかの慈善施設を設置した可能性を示唆する)。(5) 7世紀前半のジルジェンティ司教グレゴリウス伝(800年前後成立。グレゴリウス1世と混同が生じたか)。
  なお,ペイジはグレゴリウス1世とスコラ・カントールムの関係についての定説に修正を加えつつも,その主眼はあくまで初期中世のキリスト教会における「歌手」の位置付けにある。その文脈においてローマのスコラは,音楽家が教会内に一定の地位を得つつも,社会的上昇には制限が存在したことを示す事例と見做される。
  ともあれ,地中海を越えた「慈善精神」が,西洋の「聖歌隊の誕生」に一役買っていることは確かであろう。

お気に入りのシルクロード
鈴木 均

  イランの地方社会を長年フィールド調査してきて,これまで「お気に入りの町」というのに出会ったことはないが,「お気に入りの道」ならば幾つかある。その中でも「イランの歴史博物館」ともいえるような,とって置きの街道を以下にご紹介しよう。
  イランの観光スポットといえば誰でもまず挙げるのが,サファヴィー朝の首都であったエスファハーンであろう。シャー・アッバース大帝(在位1588~1629年)によって建設されたこの都市は,最盛時には「世界の半分」とうたわれる程の栄華を誇ったが,実はこの町は周辺に出るとさらに面白い観光ができる。以前筆者がイランに長期滞在していた西暦2000年頃に,エスファハーンの繁栄を支えたザーヤンデルード川の上流域を訪ねるツアーのことを聞いたことがある。山間部の町シャフレ・コルドまで到るこのツアーは風光明媚という意味ではさぞ楽しいものに違いない。だがここでは敢えて下流に足を延ばしてみることにする。
  エスファハーン観光で数日間を過ごした後で,まだ若干の時間的および資金的余裕があるならば,ぜひタクシーをチャーターして,行き先をヴァルザネと告げてみることを勧める。予定は1泊か2泊あれば充分である。ヴァルザネはエスファハーンから西方100キロあまりの地点にあり,広大なイラン高原の砂漠の縁に位置する地方都市であるが,これまで旅行ガイドブックの類では取り上げられたことがない。なぜならヴァルザネまで行ってもその先が(現在までのところ)行き止まりであり,観光地としてはどうにもそこから展開のしようがなかったからである。
  だがこのヴァルザネおよび周辺地域も,近年では観光のための整備が行われつつある。2013年の秋に筆者が訪れた際には民家を改造したコテージ形式の宿泊施設が準備されていたし,市内を一望するためには内部がきれいに改装された「鳩の塔ボルジェ・キャブータル」(後述)の屋上が便利であり,また市街地の近郊では伝統的な「ガーヴチャー」(牛に井戸水を汲ませる仕組みですでに廃れている)を観光客向けに復元までしていた。
  以上に加えてヴァルザネに到着するまでの100キロの行程にも多くの見所がある。まずエスファハーンを出てから東南東に進路を取り,40キロほど進んだところに位置するベルスィヤーン。ここではチムール朝期に建てられたモスクと後世その横に建てられたキャラヴァンサライの跡を見ることができる。さらに40キロほど進むと,幾つかの巨大な建造物が視野に入ってくる。これはエスファハーン周辺でみられる「鳩の塔」である。かつてはこれに鳩を棲まわせて糞を集め,良質の肥料として利用した。
  またヴァルザネにほど近いグールターンにもぜひ立ち寄りたい。ここは以前にはイランのいたるところで見られた,土壁で囲われた農村部の居住域(ガルエ)がほぼそのままの形で残っているのだ。すでに多くの住民はガルエの外で生活しているが,まだ数家族はガルエ内にとどまっているという。だが残念なことに,ガルエ内の一角を整地して新たにテキーエ(モハッラムの宗教劇のためのスタジアム)とモスクを建築してしまったために,その部分の景観は損なわれている。それでも旧いモスクなどは現在でもそのまま使われているし,今のところガルエ内の多くの部分は農地改革以前のイラン農村部の景観を保存しているといって良い。
  このようにエスファハーンからヴァルザネまでの街道は,イランの歴史的な建造物を堪能できるという意味で非常に魅力的な観光コースである。ヴァルザネから古都ヤズドまでの道路の建設については随分以前から計画されているのだが,むしろこの道路が開通して現在の景観が失われてしまう前にこの地を訪れるのが得策ではないだろうか。
  現在イランでは農村部を含めて都市化の波が留まるところを知らない。それはある意味で地方農村部の景観をどこでも一元化し,かつて豊かだった地方色を急速に失わせる要因になっている。筆者は地方居住者の生活を向上させるという意味ではこうした都市化の趨勢に反対するものではないが,他方で以前の生活文化がどこでも急速に失われつつあることについては多くのイラン人と危機感を共有するものである。
  イラン革命から35年が経った現在,ほぼ断交状態だったイランとアメリカの外交関係も雪解けの兆しが現れており,今後は日本を含め欧米資本が大挙してイランに流入する可能性も少なくない。とりわけ革命後の内生的な近代化の進行のなかでこの35年間地方社会における小都市の形成が続いてきたイランにとって,第二の開国ともいえる現在の変化がどのようなインパクトを与えていくのか,今後とも折々にこの道を訪れながら変化を見つづけていきたいと思っている。

日本とスペイン,そして海域史
黒田 祐我

  2013年10月26日(土)に「慶長遣欧使節400年 ── 新出史料からみる時代と世界観」(於東京外国語大学)が,スペイン史学会の主催で開催された。本大会の報告要旨と批評は,主催者側であるスペイン史学会の会報(第103号,2014年1月25日発行)に掲載されているため,ここでは地中海研究に携わる筆者の視座から,その意義について述べてみたい。
  カルロス・マルティネス・ショウ氏による報告は,徳川家康・秀忠期における,フィリピン諸島,メキシコという三角間の交易と布教をめぐる交渉を扱う。ここで強調されるべきは,フィリピン諸島がスペインの「世界戦略」の上で,中国(明)との交易関係を最重要視していた点であろう。日本との交易,あるいは布教を副次的な目標と考えていた点で,支倉常長使節団が派遣される段階で,既に「賽は投げられていた」ともいえる。ホムロ・エハルト氏による報告は,フィリピン現地で残存する奴隷制度を扱う。同住民間での奴隷制の存在に対して排除と事実上の容認との間で,スペイン側の為政者が揺れ動き続けた点を強調する。結果,アジア人奴隷は存続し続けたわけであるが,ここでも東アジア海域世界の力学に組み込まれざるを得ないフィリピン諸島の統治の現実が見出せる。浅野ひとみ氏によるキリスト教関連の装飾品に関する報告でとりわけ興味深かったのは,大友宗麟治下の府内から発掘されたメダイが,ヨーロッパの巡礼バッジに着想を得つつも,作製するにあたってタイの鉛を用いている点であろう。新大陸を介した日西間の作例の伝播にとどまらず,東南アジア,あるいはゴアといった南アジアとの緊密な文化間の連結をこれは示唆している。最後の小川仁氏による報告は,ヨーロッパ内での支倉使節団に対する反応を,『伊達政宗遣欧使節記』を執筆したことで有名な S. アマーティと,コロンナ家との結びつきを軸として見直すものであった。コロンナ家は,上記のアマーティをはじめとした情報源を頼りに,使節団に関係する情報を積極的に収集していた可能性がある。政宗側,あるいはスペイン宮廷側からの視点で描かれることの多い支倉使節団を,西欧内の人的ネットワークという視座から再分析したものとして興味深い。これらの報告に対して,日本キリシタン史を専門とする清水有子氏によるコメントがなされ,全体討論が行われた。
  さて,世界のグローバル化が唱えられて久しい昨今,前近代世界を対象とした諸海域をめぐるグローバルヒストリーが,個別専門分野を横断する形で展開されている。F. ブローデル以後,地中海研究が提唱され,様々に議論されてきたことは周知のとおりである。海を中心に配置して,その周辺の陸地を包摂する海域世界史が,大西洋史,インド洋史,あるいは東南アジア海域史として展開されてきている。しかしこれらの海域世界史は,利用する史料や研究蓄積の面で,いわば各々が孤立して議論されることが多かったと思われる。このことは,日欧関係の始まりに当たる16・17世紀にも当てはまる。ザビエル来訪から遣欧使節の派遣,そして鎖国にいたるまでの歴史は,日本史に属するキリシタン史,西欧史に属するスペイン史が双軸となって論じられ,当然ながら双方の間で様々な解釈上の齟齬が横たわっていた。しかし本大会の各報告を総覧するに,対象とする主題やフィールドを限定しているとはいえ,二つ以上の海域世界を繋ぎ合わせる視野をもっていた点が強調されるべきである。
  ショウ氏,エハルト氏による両報告では,スペイン帝国の領するフィリピン諸島をひとつの視座としつつも,政治外交・社会的な側面での中国の存在の重要さが示唆される。浅野報告は,日本に残存する装飾品の分析から,西欧,日本,東南アジア,インドを繋ぐ文化変容の実態が垣間見られた。そして小川報告からは,日本情報の獲得をめぐって,地中海に面する伊西間の情報網の存在が明らかとなった。
  ところで筆者は,2月末から3月上旬にかけて自身の専門に関連する古文書の調査を行うべく,スペイン南のアンダルシーアに滞在した。ヘレスの古文書館司書から,またコルドバのレストランのウェイターから「お前は支倉使節団と,コリア・デル・リオ住民に多くみられるハポン姓に興味があるのか」と尋ねられた。現地の史料事情に詳しいスペイン人が,日西関係の歴史にさらに関心を持つことは歓迎すべきである。彼らと,様々な地域を対象とする日本人研究者との対話をさらに推進することができるのであれば,各海域世界に分断されたグローバル・ヒストリーを,地中海の西端に位置するスペインを基点として描けるのではないか。このような雑感を抱きつつ,ほろ酔いの私はアンダルシーア料理を味わっていた。

表紙説明 地中海世界と動物 17

コントラーダのシンボル/片山 伸也

  イタリア中部の丘上都市シエナは尾根に沿った三つのテルツォ(地区)に分かれており,そのテルツォも更にコントラーダと呼ばれる17の自治組織に分かれている。市庁舎前のカンポ広場で繰り広げられるパリオの裸馬競争もこのコントラーダ対抗で行われる。市中の辻々にはどのコントラーダに属しているかを示す陶板のエンブレムが掲げられ,シンボルの動物が描かれていることが多い。カンポ広場の北東,かつてウグルジエリ家の中庭だった小広場には,厳ついシエナ風アーチの中にチヴェッタ(フクロウ)のレリーフが嵌めこまれているが,ここには同名のコントラーダの本部が置かれている。パリオなどの祝祭に際してはこの小広場にコントラーダの住民が会し,フクロウをあしらった色鮮やかなコントラーダ旗に囲まれた中で遅くまで夜宴が繰り広げられるのだ。フクロウは知恵の象徴であると共にローマ神話の女神ミネルヴァのメタファでもあり,「かつてこの地にミネルヴァの神殿があったことに由来する」というのも,シエナ市民の古代ローマ起源に対するコンプレックスの表れと言えよう。このコントラーダはこの地にあった二つのコントラーダ,オルソ(雄熊)とガッロ(雄鶏)が合併したものと言うから,歴史的には様々な動物たちがシエナの地に登場しては消えたことになる。
  かつては42ものコントラーダに分かれていたと言われるが,その今日までの統廃合はシエナという都市の変遷の物語でもある。13世紀後半から14世紀にかけての都市の拡張期に多くのボルゴ(新興居住地)を取り込んだシエナは地域ごとに教会を中心としたポポロ(教区共同体)を形成した。コントラーダの名称も16世紀頃までは教区教会の名を取ったものが多く,コントラーダ・ディ・チヴェッタもその前身となるコントラーダはそれぞれサン・ヴィジリオとサン・ピエトロ・アッレ・スカーレと名乗っていた。また,これら教区教会の共同体ポポロと自治都市の中隊とは往々にして一致しており,14世紀のカンポ広場では “ジョーコ・ディ・プーニャ” と呼ばれる血気盛んな模擬戦闘的お祭が繰り広げられた。ときに死者をも出す危険な祭は,16世紀には “カッチァ・ディ・トーリ” と呼ばれる祝祭行事へと洗練されたが,各地区はシンボルとなる動物を象った山車を製作しカンポ広場の周囲を巡行した。教区共同体的でありまた軍事組織的なシエナの小地区がコントラーダを形成していくのはこの祭事を通してであった。上述の二つのコントラーダは1546年以降,共同でフクロウの山車を出品していたと言うから,地区のシンボルとしてのフクロウの歴史は長い。ドラゴ(龍)などの空想上の動物やジラッファ(麒麟)のようにイタリアにはいないはずの動物も多い中で,内陸の丘上都市シエナにあって,オンダ(波)地区のイルカには違和感を禁じ得ない。この地域のポポロにはシエナ共和国のティレニア海岸の防衛,すなわちシエナの外港であるタラモーネ港の警備が役務として課されていた。その二つのコントラーダも,1494年の “ジョーコ・ディ・プーニャ” 以来,海に因んだイルカを共通のエンブレムとしてきたのだ。トスカーナの丘陵の波間に現れる海獣は,外港としてのピサを獲得したフィレンツェとは対照的に,マレンマを横断する細い導線でかろうじて結ばれたタラモーネ港を死守しようとする丘上都市の水軍の誇りでもあるのだ。