地中海学会月報300























学会からのお知らせ



*学会賞・ヘレンド賞
 地中海学会では今年度の地中海学会賞および地中海学会ヘレンド賞(星商事提供副賞30万円)について慎重に選考を進めてきました。その結果,次のとおりに授与することになりました。授賞式は6月24日(日)に大塚国際美術館で開催する第31回大会の席上において行います。
地中海学会賞:該当者なし
地中海学会ヘレンド賞:芳賀京子氏
 芳賀氏は,『ロドス島の古代彫刻』(中央公論美術出版,2006年)においてロドス島の彫刻に関する資料(碑文,古文献,出土彫刻)を網羅的に検討して,紀元前4世紀から紀元後1世紀までの同島の彫刻制作,彫刻家の活動の全容を明らかにした。同書は考古美術史学の記述を目的として,考古学・碑文学・文献学など科学的実証性を発揮しうる方法を最大限援用したものであり,実証的人文科学の規範的著作ともいいうる。ロドス島の古代彫刻に関するこのような質の高い包括的な研究には類書がなく,世界のヘレニズム彫刻研究に対して大きな貢献をなすと考えられる。

*『地中海学研究』
 『地中海学研究』XXX(2007)の内容は下記のとおり決まりました。本誌は,第31回大会において配布する予定です。
・ヘレニズム時代の巨大船τεσσαρακοντήρηςについて  丹羽 隆子
・マーゾ・フィニグエッラと15世紀フィレンツェの素描文化   伊藤 拓真
・ラウネッダスの舞踊曲の「理論」と「実践」──ラウネッダス奏者の言説の考察を通して  金光 真理子
・史料紹介 紀元前4世紀アテナイの対外交渉と贈収賄  佐藤 昇
・書評 芳賀京子著『ロドス島の古代彫刻』  篠塚 千恵子
・書評 金原由紀子著『プラートの美術と聖帯崇拝──都市の象徴としての聖遺物』  京谷 啓徳
・書評 大黒俊二著『嘘と貪欲──西欧中世の商
業・商人観』  和栗 珠里
・研究紹介 Marina Thomatos, The Final Revival of the Aegean Bronze Age: A Case Study of the Argolid, Corinthia, Attica, Euboea, the Cyclades and the Dodecanese during LHIIIC Middle  高橋 裕子
*第31回総会
 先にお知らせしましたように第31回総会を6月24日(日),大塚国際美術館において開催します。総会に決せ金片は,委任状参加をお願いいたします。(委任状は大会出欠ハガキの表面下部にあります)
一,開会宣言
二,議長選出
三,2006年度事業報告
四,2006年度会計決算
五,2006年度監査報告
六,2007年度事業計画
七,2007年度会計予算
八,役員選挙
九,閉会宣言

*会費自動引落
 今年度2007年度の会費は4月23日(月)に引き落とさせていただきました。自動引落にご協力下さり,有り難うございました。引落の名義は,システムの都合上,「SMBCファインスサービス」となっております。この点をご了承下さい。
 学会発行の領収証を希望された方には,本月報に同封してお送りします。

*第31回大会
 大会の交通・宿泊予約(エアトラベル徳島)の締め切りは5月31日(木)となっています。お手続きをお済みでない方は、至急、お済ませください。なお、大会出欠ハガキは準備の都合上、6月8日(金)までにお送り下さい。
プログラム訂正:二日目シンポジウム「二つのシスティーナ礼拝堂」の「司会:石川 清氏」を下記の通り訂正します。
  (正) 司会兼任:石川 清氏





















第31回鳴門大会への招待


小佐野 重利/田中 秋筰
 北は北海道から南は沖縄まで出かけて大会を行なってきた学会としては,今回はじめて四国は鳴門市入りする。西洋の陶板名画を多数展示する大塚国際美術館を会場に開催することになった。瀬戸内海の反対岸に面した中国地方では,すでに2回行なっている。特に,大原美術館の全面協力によって倉敷アイビースクエアで開催した第12回大会では,会期中に地中海と瀬戸内海という内海の比較に思いを馳せた記憶がある。
 今回は,学会30周年記念大会でもあるから,何か特別な大会になればと念じていたところ,折しも開館10周年を迎える大塚国際美術館から特別に後援を賜り,同美術館を会場に開催できることになった。まず事務局からスケジュールを紹介し,会場や周辺の見所については,大塚国際美術館側からご紹介いただくことにする。
 6月23日(土)の記念講演では,大塚国際美術館に縁の深い青柳正規氏(国立西洋美術館館長)が,空想と現実のあわいに立つ大塚国際美術館を熱く語ってくれることだろう。恒例の地中海トーキングのタイトルは「巡礼と観光──瀬戸内海と地中海」とした。副題にあるとおり,二つの内海を「巡礼と観光」という観点から比較してみようということである。2000年の広島大会で,聖年に因んで巡礼をテーマにシンポジウムではやったが,観光について議論するのは学会としても初めてである。パネラーには瀬戸内海の巡礼や観光のことに日ごろから意を注いでおられる大原謙一郎氏(大原美術館理事長),田窪恭治氏(金刀比羅宮文化顧問)と,聖大ヤコブの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼に詳しい関哲行氏(流通経済大学)を迎え,ギリシア史の桜井万里子氏(東京大学名誉教授)がパネラー兼司会としてトーキングを進める。
 美術館見学は絶対に欠かせないが,見るべき作品が多くて,時間が足りないのが危惧される。夕方からは,システィーナ・ホールに再び集い,恒例の懇親会となる。それを盛り上げてくださいとばかり,昨年同様に芳醇なワインをご寄贈くだされるメルシャン株式会社に,学会を代表して御礼申し上げる。
 24日(日)は,午前中の研究発表に続いて,総会,学会賞・ヘレンド賞授賞式,そして午後には,シンポジウム「二つのシスティーナ礼拝堂」が鳴門の第二のシスティーナ礼拝堂を会場にはじまる。若桑みどり氏(千葉大学名誉教授)の基調報告「システィーナ礼拝堂壁画の歴史的意味」に続いて,会員の秋山学氏(筑波大学)およ
び園田みどり氏(東京芸術大学),女優の真野響子氏から,ローマのシスティーナ礼拝堂でルネサンスから施行されてきたキリスト教典礼や典礼音楽にはじまり,鳴門のシスティーナ礼拝堂の未来へ向けての課題など,イタリア建築史の石川清氏(愛知産業大学)の司会兼任で討論することになろう。(文責:事務局長)
 大塚国際美術館は,世界初の陶板による西洋名画の美術館として,1998年に開館しました。世界25カ国190余の美術館や聖堂などから許可を得て収集された,古代から現代に至る壁画や絵画1,000余点は,西洋美術史のなかの名品をほぼ網羅したものと言えます。大塚グループの一員である大塚オーミ陶業株式会社(滋賀県信楽町)の陶板製作技術が,これらの名画を原寸大で完璧に再現しました。オリジナル作品が歳月による劣化を免れないのに対して,陶板によって甦る作品は,その時点から変化を被らないのが特色です。
 当館は今年3月,10周年記念事業として,環境展示の一つであるシスティーナ・ホールにおいて,ミケランジェロ天井画を完全再現いたしました。このホールが今大会の地中海トーキングやシンポジウムの会場となります。徳島県鳴門に居ながらにして,ヴァティカン・システィーナ礼拝堂の迫力や臨場感を味わっていただけます。会員皆さんの鳴門大会への参加をお待ちしております。
 美術館は,鳴門海峡を臨む瀬戸内海国立公園内に建てられ,周辺には渦潮をはじめ数多くの景勝地があります。遊歩道を利用して,また少し足を伸ばして,観光スポット巡りを楽しむことができます。
 「渦の道」(鳴門公園)は本州四国連絡橋の大鳴門橋の橋桁スペースを利用して,450mの遊歩道と渦潮展望室を設置した観潮施設。海上からの観潮船によるクルージングは迫力。「大谷焼」(鳴門市大麻町)は阿波藍染用カメとして発展し,近年では花器などの美術工芸品が人気。窯元では,我が国で唯一の技法「蹴りロクロ」が見どころです。「ドイツ館」(鳴門市大麻町)は,ベートーベンの「第九」を国内初演したことでも知られる,第一次世界大戦時のドイツ兵俘虜の活動や交流の様子を紹介しています。
 また,世界に誇る徳島の阿波おどりが年間を通して楽しめる「阿波踊り会館」(徳島市新町橋)や,人形浄るり芝居『傾城阿波の鳴門』の主人公板東十郎兵衛の屋敷跡の「阿波十郎兵衛屋敷」(徳島市川内町)などもお勧めです。(大塚国際美術館常務理事 田中秋筰)





















春期連続講演会「地中海を旅する人々」講演要旨

サンティアゴ巡礼

福井 千春
 フィリピンの首都マニラの旧市街はイントラムロスと呼ばれ,その城門をくぐると馬に乗ったサンティアゴ像が出迎えてくれる。剣を手に逃げまどう異教徒を蹴散らさんとする姿は,巡礼街道でよく見るマタモロス(mata殺せ morosモロ人:イスラム教徒の蔑称)像と同じもので,かつて当地がスペイン領だったという知識は持ち合わせていたものの,まさかこの南洋の島で聖ヤコブと出遭うとは誰が予期したであろう。
 コンポステラの縁起に関しては今さら紹介するまでもないが,なぜ大ヤコブなのか,という疑問は常につきまとっている。聖書を読み返しても,十二使徒の中では一番最初にあっけなく死んでしまうヤコブの印象は極めて薄く,世界に冠たる霊場を築いた聖人とは思えないからである。現代ではオリーブ山やゲッセマネの祈りの場面に登場していることからゼベダイの子の重要性が説かれているが,兄弟のヨハネが個性鮮やかに描かれているのに対し,その曖昧な存在からの変容には驚きを禁じえない。終点のカテドラルでは鐘楼のあちこちに杖とホタテ貝を持ったヤコブ像が霧雨の中に林立する。祈るヤコブはいつの間にか歩くヤコブへ変身しているのだ。
 12世紀,ラテン語から乖離し始めていた人々の話し言葉がようやくロマンス諸語として懐胎する。スペイン語では『わがシッドの歌』という叙事詩が生れるが,その七三一行に「イスラムの兵がムハンマドと叫べば,キリスト教徒はサンティアゴと鬨の声,瞬く間に千と三百の異教徒が血煙上げて大地に倒れる」と,既に軍神に変身したヤコブが登場する。ペドロ・マルシオ作と伝えられる『特権文書』のクラビホの戦いの場面では,軍神自ら白馬にまたがり剣を振りかざす,その後何世紀にも渡って絵画や彫刻で繰り返される戦うヤコブのイメージの最初のソースが書き留められている。グレゴリウス改革を背景におびただしい数のクリュニー会の修道士がピレネーを越える。杉谷綾子『神の御業の物語』は暗躍する司教ディエゴ・ヘルミレスの思惑と彼らの活動が合致して聖戦の思想が芽生える過程を描いていて興味深い。  半世紀ほど前,亡命した思想家アメリコ・カストロは『スペインの歴史的現実』で,戦うヤコブの起源をディオスクロイとの重層信仰だととらえた。レダの双子の息子カストルとポルックスに,早世のヤコブと長命のヨハネを投影させるというのである。人の子カストルは矢に当たって死ぬが神の子ポルックスは不死身である。今で
はこの説を支持するものは少ないのだが,確かにヤコブは常に二重に存在している。イエスはヤコブとヨハネにボアネルゲスすなわち「雷の子ら」という名を付け,彼らは「主よ,天から火を降らせてサマリア人を焼き滅ぼしましょうか」と言っている。雷の子はたいてい双子でインドラからナーサティヤという双子の神が生まれるように,デュメジルの三機能仮説を想い起させる。カテドラル並びのサン・マルティン・ピナリオ修道院にはカサス・イ・ノボアの作と伝えられるバロック期の絢爛たる大祭壇があるが,左には聖ヤコブが,そして右側に聖ミリャンが天駆ける白馬に乗って剣を振りかざしている。血まみれの異教徒がリアル過ぎて鼻白むほどだが,これはベルセオの叙情詩『コゴリャの聖ミリャンの生涯』で歌われたシマンカスの戦いの場面「美しく光る二人の姿が見えた,彼らは水晶よりも白い馬でやってきた」を描いたものである。双子,兄弟,大小ヤコブの混同と二重性を見る限り再考の余地があると思うのだが。
 1325年7月25日,宰相のドン・フアン・マヌエルを追放し,15歳で親政を始めたアルフォンソ11世は,カテドラルで寝ずの番をして,翌朝ヤコブ像に近寄り,自ら体を預けて首打ちの騎士叙任式を行う。以来サンティアゴは王権の守護者,筆頭の騎士に変身する。
 コロンブスが新大陸を発見し,やがてスペインとポルトガルが瞬く間に世界を二分割してハプスブルグ家が日の没するところのない帝国を築く。その理念はポール・クローデルの『繻子の靴』を引くまでもなくサンティアゴだった。スペインからイスラム教徒を追い払ってくれた聖ヤコブが,新天地開拓も見守ってくれると信じていたのである。南米にはありとあらゆる所にサンティアゴという名の村や教会が建設され,同時にコンポステラへの巡礼は静かに衰退していった。関哲行が『スペイン巡礼史「地の果ての聖地」を辿る』で語る,旧世界の果てに位置するという聖性の剥奪が起きたのである。
 地球を一周したサンティアゴ巡礼の最後の舞台は日本である。1638年,美少年の天草四郎とともに原城に籠城した三万人のキリシタンは,幕府に買収されたオランダ船の砲撃に「サンチャゴ!」と叫んで飛び出して行く。マタモロスは「マタ徳川」に,つまり「ヤコブ,王を討て!」の意に反転して像を結ぶのである。しかし,白馬に乗った聖ヤコブは決して出現することはなかった。





















ゴルドーニ生誕300年 明けても暮れてもゴルドーニ!
──ゴルドーニとオペラ作品──

大崎 さやの
 今年2007年はゴルドーニ生誕300年にあたり,各地でさまざまなゴルドーニ関連のイベントが企画されている。昨年12月にもゴルドーニ台本の大変珍しいオペラが日本で上演された。北とぴあ国際音楽祭で上演された,ハイドン作曲によるオペラ『月の世界』である。上演は字幕スーパー付きの原語(イタリア語)によるもので,筆者も字幕のもととなる上演台本を訳す幸運に恵まれ,公演の一端を担うことができた。あらすじを紹介すると,頑固者のブオナフェーデの娘クラリーチェと結婚したいと思っている青年エックリティコが,やはりブオナフェーデの娘フラミニアとの結婚を願う友人エルネスト,姉妹の侍女リゼッタに恋する下男のチェッコと協力して,月の世界に連れていくと言ってブオナフェーデをだます。だまされたブオナフェーデが連れて行かれたのは,月の世界に見せかけたエックリティコの家の庭で,そこで月の皇帝に扮したチェッコの命令で,エックリティコら3組の結婚式が行われてしまう。なにもかもがペテンと知ってブオナフェーデは怒るがあとの祭りで,最後には彼も3組の結婚を許し,皆の喜びのうちにめでたしめでたしとなる。以上がこのオペラのあらすじで,なんともたわいない物語であるが,ユーモラスかつ機知に富んでおり,軽さを好む現代の風潮にも合っていて,まさに時宜を得た上演だったと言える。実相寺昭雄と三浦安弘による画像を使用した演出,近未来的な舞台装置や衣装,寺門戸亮率いる演奏陣と歌手陣の熱演もあいまって,ハイドンの楽しい音楽と共にこのゴルドーニの物語は大いに観客を喜ばせたようだった。この軽妙洒脱なゴルドーニの台本は18世紀においても好評を博したようで,ガルッピの音楽による1750年の初演以来,ピッチンニ,パイジェッロ,ハイドンと,複数の音楽家により作曲されている。機知を用いて頑固親父の娘との結婚を成功させる若者を描いたこの物語は,困難を乗り越えて結婚するカップルというお定まりの図式に従ってはいるが,そこに「月の世界」を持ち込んだゴルドーニの並外れた発想力には感心する他ないだろう。  ゴルドーニのオペラ台本は,ガルッピ作曲の『田舎の哲学者』やピッチンニ作曲の『良い娘』など,有名な作品も入れて全部で55作が残されているが,オペラとして書かれた作品だけでなく,もともと喜劇として書かれたものがオペラ化されたものもある。私は毎年冬に行っているイタリア演劇の調査旅行で,昨年,今年と,ゴル ドーニ原作のヴォルフ=フェラーリのオペラをヴェネツィア・フェニーチェ劇場で鑑賞することができた。昨年は『四人のルステギ(I quattro rusteghi)』,今年は『抜け目のない未亡人(La vedova scaltra)』である。『四人のルステギ』は原題を『ルステギ(I rusteghi)』といって,これはヴェネツィア方言の「ルステゴ(rustego)」の複数形であるが,「ルステゴ」とはゴルドーニ自身の定義によると「無作法で粗野で,文明と文化,そして社交の敵である男」を指す。作品はそうした4人のルステゴ達の横暴と,彼らに反抗する妻や息子,娘達の姿を描いている。ルステゴ達は自分たちの息子と娘を,当人同士を一度も会わせたことがないまま結婚させようとするが,それに対し女達が協力して二人を密会させる……そうした話を軸とした物語である。オペラも原作同様ヴェネツィア方言で歌われており,主人公達の粗野なルステゴぶりは笑いを呼んでいたが,彼らによって許嫁である若者二人の瑞々しさが一層際立っていた。また私が見た公演では,舞台の両側から橋桁のようなものが歌手達をのせて出たり入ったりするという変わった舞台装置を用いていたのが印象的であった。いっぽう今年見た『抜け目のない未亡人』は,ヴェネツィアの未亡人ロザウラをめぐってイギリス,フランス,スペイン,イタリアの4人の男達が彼女との結婚を争う物語である。平川祐弘訳の岩波文庫版でご存じの方も多いと思うが,話の見所は主人公のロザウラが男達の誠実さを見抜くため,仮面を被ってそれぞれの男の国の女になりすまして言い寄り,男達を試すシーンである。今回の公演では歌手達が各国の男の特徴を誇張して滑稽に演じ,大変楽しめる作品となっていた。ヴォルフ=フェラーリはこれら二作以外にもゴルドーニ原作のオペラを残しており,そのうち『イル・カンピエッロ』は日本でも2001年と2004年に藤原歌劇団によって上演されている。
 こうしてオペラでも取り上げられるゴルドーニの演劇作品は,今年7月にはヴェネツィア演劇ビエンナーレで特集上演される。また東京でもイタリア文化会館で9月から11月にかけて,イタリアからの研究者を招いての「ゴルドーニ・シンポジウム」,ゴルドーニの演劇作品を映像で紹介する「ゴルドーニ・セミナー」等が企画されている。ゴルドーニ作品が紹介されることの少ない日本で,皆様に是非ともこの機会にゴルドーニ作品に親しんでいただければと思う。





















アッティカの旅 雑感

橋場 弦
 昨年9月,ギリシアを4度目に訪れた。今回は現地研究者との交流,およびアッティカ地方遺跡の見学を果たせたが,それ以上に印象に刻まれたのは,EU加盟とオリンピックがこの国にもたらした変貌の諸相であった。
 9月12日 滞在初日。晴れ,28度。意外と空気がさわやかで涼しい。まずは美しい眺望を求めてアレオパゴスの丘へ登る。最近アテネで気づくことの一つは,こうした遺跡に解説プレートが立てられるようになったことである。解説文は研究者が見てもよくできていて,デジタルカメラで撮影しておけば後日の勉強にも役立つ。もう一つ,市街を歩いて思い知らされたのは,物価が前年訪問時に比べてもさらに驚くほど高くなったこと。巨額のヨーロピアン・マネーが流入した結果である。
 9月13日。ギリシア教育研究センター(Hellenic Education and Research Center)にアンドロニケ・マクリス博士を訪問。こじんまりした建物にあるセンターは,2005年開設の非営利研究所で,主として海外から短期で研修旅行に来る大学生たちに研究・教育の面で便宜を提供している。スタッフは今のところ彼女ともう一人だけ。以前彼女から,日本人学生たちを連れて遺跡を回りながら研修旅行をしてみないかと誘いを受けたことがあり,今回そのプログラムについて具体的な話を聞きに来たのである。
 先方が日本人研究者と接触するのは初めてとのことで,大変歓迎してくれた。残念ながら研修旅行プログラムについては,最小催行人員などとの兼ね合いで実現は困難という結論に達したが,彼女たちと親交を深めたのは期待以上の成果であった。同センターについてはwww.herc.grをぜひ参照されたい。
 近所のタベルナで昼食をともにし,そのあとThesseio駅方面へとぶらぶら戻る途中,「アテナイ人の国制(Athenaion Politeia)」という名のカフェの前を通る。アクロポリスを周回する道路は,ここアポストル・パヴル通りも含めて大部分が歩行者天国となり,こちらは歓迎すべき近年の変化なのだが,このカフェも新しくできたものか。アリストテレスに帰されるこの古典の名を冠したカフェが,なぜここにあるのか,彼女たちに尋ねてもよくわからないとのことだった。ロゴのフォントまで古典ギリシア語風のを使っていた。
 9月15日。マクリス博士の車で,アテネ郊外の遺跡を回る。まず市街を出て,高速自動車道アッティカ・ロ
ードを100キロ近いスピードですっ飛ばす。この道路も最近の驚くべき変容の一つだが,建設にあたって破壊された古代の小さな遺跡なども実は多いのだという。彼女はアッティカのデーモス(村落共同体でポリス行政の末端組織)の研究が専門の一つであり,デーモスの人的紐帯がアテナイ社会において果たしていた役割は,学界では近年ますます注目されつつある。だがそうした古代の村落の地味な遺跡などは,学問上の重要性が認知される前にしばしば破壊されてしまうという。
 アテナイの少女たちの通過儀礼であるブラウロニア祭で有名なブラウロンのアルテミス神殿遺跡と博物館をまず訪ねる。公共交通機関を使ってはアクセスが難しい遺跡の一つである。遺跡では奉献主として女性名が刻まれている碑文をいくつも見たが,公表されていない碑文も多いという。つぎにデーモス遺跡が残るトリコスへ。三日月型の特異な形状の劇場跡を見る。トリコスは多くの重要な国家の役職者を出しているデーモスで,紀元前412年には城壁が周囲に築かれ(Xen.Hell.1.2.1),港湾として重視されていたことがわかる。デーモスは本来自然に発生した村落だが,クレイステネスの改革によって民主政の機構に組み入れられた。それとともに,国家レベルでの民主政の仕組みが各デーモスに移植され,市民の日常的な政治参加の入り口になったと私は理解してきた。だが近年では,デーモスこそ国家レベルに先行する民主政の制度的基礎であったとするマクリス博士のような意見もある。
 壮大な劇場を築いたトリコスの財力は,近くにあるラウレイオン銀山の経営と無関係ではあるまい。そのラウレイオンも訪ねたが,精鉱所跡が広域に散在しており,それらを回るには自家用車なしには無理であろう。今でも青光りする銀鉱石らしきものがところどころに露出している。
 見学を終えてスニオン岬のすぐ下にあるタベルナで休憩する。国内で教鞭をとった経験のある博士によると,近年ギリシアがグローバル経済の波に洗われるとともに,若者たちが拝金主義に走る傾向は目に余るという。彼らの目から見れば地道な学問など何の価値もないのでしょう,と。いずこも同じ時代状況である。ポセイドン神殿の白い柱と青い海を眺める静かなビーチで,日希の研究者が現代の世界について嘆息しあうというのも,思えば妙な光景であった。



















「祈祷と肖像──開かれたネーデルラント二連板」展

保井 亜弓
 第一会場のワシントン・ナショナルギャラリーから巡回してきた15,16世紀ネーデルラントの二連板の特別展をアントウェルペンの王立美術館(3月6日〜5月27日)で観ることができた。二連板とは,二枚の同じ大きさの板を鎹(かすがい)でつなぎ開閉可能とした形式を指す。この会場では,展覧会カタログには掲載されていない中世の象牙彫りや写本,風刺的な作品,そして現代アートにおけるバウツの二連板からの引用としてビル・ヴィオラの作品まで加えており,賛否両論はあろうが,二連板の世界の広がりを示す試みとしては悪くないだろう。この展覧会で再認識したのは,ビザンチンのイコンから派生した聖画像や聖母子と寄進者像といったよく知られた作例ばかりでなく,その図像においてきわめて多種多様な二連板が存在したということである。展示作品中,当時の枠まで残している作例は2点のみしかない。展覧会カタログでも明記されているように,現在美術館で単独で掛けられている肖像画や聖画像を本来の二連板として展示することがこの展覧会の目的であり,主要な二連板が一堂に会する貴重な機会であった。板絵の二連板は14世紀末になるとイタリアをはじめヨーロッパ各地に作例があるものの,ネーデルラントでは15世紀後半から16世紀初めにかけて,著しい流行をみる。瞑想を重んじる当時の「新しい信仰」の広がりにより,個人の祈祷のために用いられたと考えられ,折り畳んで持ち運びが可能であり,たいていが外面(両面または片面)も描かれている。多くが小型な二連板は,壁に掛けたり,開いて立てたり,閉じてクッション等に置かれたりした。立てた時に生じる空間に画家が注意を向けたという展覧会カタログの指摘は興味深い。他に礼拝堂に設置される特殊な二連板の祭壇画もあり,ミサを行う際には開かれた。また対画(ペンダント)との関連も面白い。大部な展覧会カタログと関連論集は二連板の制作・機能・受容という問題を大いに考えさせてくれる。
 目を引く特異な作例は三連祭壇画の中央部に収まったアルブレヒト・バウツ(工房)の《エッケ・ホモ》と《悲しみの聖母》(アーヘン,ズエルモント=ルートヴィヒ美術館)である。左右扉の内側に祈祷文,外側に《聖告》が描かれている。この作例はこれまで二連板と考えられてきたが,年輪年代学の調査により後に組み合わされたことが判明した。2枚の板絵には制作年にかな
りの開きがあり,《聖告》は1枚の絵が半分に切断,そして祭壇の枠の年代である17世紀初めに個々の部分が合わされたという。
 二連板でよく見られる図像は聖母子と寄進者像であり,その先例は写本の中に認められる。二連板がどのように制作されたのかという問題を考えさせるのは,ファン・エイクのベルリンにある《教会の聖母》を模倣し,異なる寄進者像と組み合わせた作例である。古い名高い作品を模倣しアレンジして使うのは当時の流行だった。全身像ではなく半身像の形式を流行させたのはロヒール・ファン・デル・ウェイデンとその工房であった。聖母子は複数のヴァージョンが制作され,注文主に応じて肖像画が制作されたであろうという状況が想像される。
 新たな二連板の発見はこの展覧会の最大の成果であろう。ミへル・ストゥの《聖母子》(ベルリン,絵画館)と《ディエゴ・デ・ゲバラ(?)の肖像》(ワシントン・ナショナルギャラリー)は,展示作品でもあるメムリンクの有名な二連板において,画中の鏡の中で巧妙かつ大胆に行った聖俗空間の結合という問題を引き継いでいる。聖母のあごに触れる幼児キリストが横たわる欄干のカーペットは寄進者の画面のそれと一致する。彼の左手は手前のカーペットに触れており,まさに聖なる領域につながっている。もう一点はヤン・コルネリスゾーン・フェルメイレンの《枢機卿エラール・ド・ラ・マルクの肖像》(アムステルダム国立美術館)と《聖家族》(フランス・ハルス美術館)であり,修復により肖像画の背景で天使が掲げるカーテンが聖家族の画面へと連なることが確認された。聖家族の天上彼方には審判者のごとく座す父なる神が見えるが,通常とは異なり左パネルに描かれた像主との間に位置することで,本来の彼岸への祈祷という機能を取り戻しているかに見える。
 会場を出ると,《この作品は閉じたまま掛けよ》という二連板に出会う。観者はまずこの銘帯とおどけた男が描かれた外面を見る。次に裏にまわると二連板にそれぞれ花を挿した裸の尻,嘲りの顔をする男が描かれている。この風刺的作品は一体どこに掛けられたのだろうか。
 (展覧会カタログPrayesr and Portraits: Unfolding the Netherlandish Diptych, Yale University Press, 2006; 関連論集Essays in Context:Unfolding the Netherlandish Diptych, Harvard University Art Museums, 2006)












表紙説明   地中海の女と男6

メディーナトゥ・ザフラー/久々湊 直子
 すっかり捨て置かれた廃墟は20世紀になってやっと発掘が開始され,最近になってその全貌をあらわし始めた。かつてはコルドバから西へ5kmほど離れた郊外のこの都市まで,市街が途切れなく連なっていたほどの栄えようだったのだそうだ。後ウマイヤ朝のアブドゥラーマンIII世(891〜961)が造営させた宮殿都市メディーナトゥ・ザフラー(Mdinat as-Zahra/ Medina Azahara 花の都市)である。シエラ・モレナ(山脈)の麓に位置するこの広大な「花の都市」は,祖父の死により21歳で支配者となった若きアブドゥラーマンIII世が,936年,50歳前になって建設に着手し,945年には完成を待たずして移住し政務を行った場所である。961年の彼の死後も建造は進められ,好学の士として有名だった息子のハカムII世も即位とともにこのザフラー宮に移っている。
 祖母や母がバスク人やフランス人だったといわれるアブドゥラーマンIII世は,目鼻立ちのはっきりした容貌で,深く碧みがかった瞳と赤毛に近いブロンドの髪の持ち主だったらしい。息子にも受け継がれたこのブロンドの髪は,アラブ世界では忌み嫌われるものだったのだろうか,彼はそれを漆黒に染めて過ごしたという。体躯はけっして大柄でなかったこのカリフの治世下,ウマイヤ朝スペインは最盛期の繁栄を謳歌することになった。
 レオンやナバラのキリスト教王国と交戦しカスティーリャ地方に侵略した彼は,国内でも権力と富を掌握し,その豊かな財でもって自分の気に入りの空間を次々と作り上げた。今で言えばゼネコン系の工事なのだろうが,
挙げてみるとよくよくこうした大規模な土木工事に着手するのが好きな人物だったのだろう。グラナダの都市の南を走るグアダルキビル川から巨大な水車(ナーウーラ)で水をくみ上げ庭園を実現させたのがナーウーラ離宮。山から水道を引いて水槽に豊富な水も供給したという。そして,治世の後半には,ついにこの広大な宮殿都市を実現させた。
 愛妾ザフラーの名を冠したメディーナトゥ・ザフラーの建設のために,技術者は東方,あるいは東ローマ帝国から招聘され,万単位の労働者が動員された。建設された離宮には,シエラ・モレナはもちろん,各地から最高級のさまざまな色の大理石が切り出される他,東ローマ帝国から100以上もの大理石の柱が寄与され,計4,000もの列柱が壮麗な宮殿を彩ったという。さらに念の入ったことで,お気に入りだった先のナーウーラ離宮とこの愛妾の名を持つ郊外の都市とを結ぶ舗装道路を整備したのもアブドゥラーマンIII世本人である。
 スペインのイスラム世界はこの後内部が分裂してこの珠玉の宮殿都市は荒廃に晒される。かの地のイスラム教徒たちのその先の運命は万人の知るところである。キリスト教徒の下では,アブドゥラーマンIII世の愛した花の都市も,豊富な石の供給場所でしかなかったらしい。見る影もなく廃墟と化した花の都は「兵どもが夢の跡」ならぬ,「恋人たちの夢の跡」とも言うべきか。発掘によって表されたわずかに残る建造物の装飾は,彼の,彼らの繊細な趣味をわれわれに伝えてくれる。