地中海学会月報 230
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2000|5  




   -目次-








学会からのお知らせ

 

 

*学会賞・ヘレンド賞

 学会では今年度の地中海学会賞および,地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考をすすめてきました。その結果,次のとおりに授与することになりました。両賞の授賞式は6月17日(土)に広島女学院大学で開催する第24回大会の席上において行ないます。

地中海学会賞:陣内秀信氏

(副賞 エールフランス提供パリ往復航空券)

 陣内氏は,ヴェネツィアの都市史・建築史を手始めに,イタリアはいうまでもなく,地中海全域の都市の生活文化を比較する独自の視点をみごとに開発した。また,江戸・東京の都市空間を地中海都市との比較によって探りだし,多くの読者を啓発した。

地中海学会ヘレンド賞:石井元章氏

(副賞 星商事提供50万円)

 石井氏の『ヴェネツィアと日本 美術をめぐる交流』(ブリュッケ社 1999年)は,明治期における日本とイタリアの文化交流の諸相を,主にヴェネツィアに舞台を絞って検証したものである。とりわけ,明治という時代のもつダイナミズムに溢れた両国の交流を有機的関連を持ちながら描くことに成功している。日伊両国の一次史料に基づく新知見を数多く提示しながら,その時代の文化交流を再構築した。

 

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*『地中海学研究』

 『地中海学研究』XXIII2000)は下記のとおりに決まりました。第24回大会会場で配布します。

 

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*第24回総会

 先にお知らせしましたように第24回総会を6月18日(日),広島女学院大学で開催します。総会に欠席の方は,委任状参加をお願いします。(委任状:大会出欠ハガキ表面下段)

24回地中海学会総会議事

一,開会宣言

二,議長選出

三,1999年度事業報告

四,1999年度会計報告

五,1999年度監査報告

六,2000年度事業計画

七,2000年度予算

八,役員人事

九,閉会宣言

 

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*大会案内訂正

 大会案内の「地図」:広島女学院大学下のスーパー「ひろでん」は「ユアーズ」に変わりました。

 大会宿泊・航空券・観光案内(広電観光)の「観光」:行程の6月18日(日)の「宝冠酒造」は「宝剣酒造」に訂正します。

 

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*会費口座引落

 会費の講座引落にご協力いただきまして有難うございました。今年度の会費は4月24日(月)に引き落とさせていただきました。引落の名義人は,システムの都合で,地中海学会名ではなく「三井ファイナンスサービス」となっています。この点ご了承ください。領収証を希望された方には,本月報に同封してお送りしますので,ご確認ください。領収証の発行は,一度ご連絡いただきましたら,翌年からも継続してお送りします。

 なお,一部の方には,別途にご連絡しましたように6月23日(金)に引き落とさせていただきますので,ご確認ください。

 

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*7月研究会

 下記のとおり研究会を開催します。奮ってご参集ください。

テーマ:ラファエッロのファルネジーナ荘壁画装飾プロジェクト−−《アレクサンドロスとロクサネ》のための素描を中心に

発表者:本間 紀子氏

日 時:7月8日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館3階311教室

参加費:会員は無料,一般は500

 

 ローマのテヴェレ河右岸にある銀行家キージの別荘は,ラファエッロのフレスコ画《ガラテアの勝利》や《プシュケの物語》で知られている。だが,彼はその他にもソドマの壁画《アレクサンドロスとロクサネ》に関与していた。壁画の原案となったラファエッロの素描は,ルキアノスによる名画の記述(エクフラシス)に基づいている。失われた古代の名画を「復元」することは,画家の注文主にとって一体何を意味していたのであろうか。

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24回大会開催にあたって

 

末永 航

 

 まだ広島に赴任して3年目に入ったばかりで,不案内なことも多いのですが,広島大会について少しご説明をして多く皆様のご参加を募りたいと思います。

 会場となります広島女学院は,神戸,福岡,東洋英和などの「女学院」と同じく古いプロテスタントのミッション・スクールで今年創立114年目を迎えます。4年制大学としても広島では最も古い私学で,去年50周年を祝いました。

 現在,文学部,生活科学部2学部にそれぞれの大学院,合わせても学生数2000人と少しの小さな女子大学です。それほど立派な施設もありませんし,原子爆弾で一度すべてを失ったこともあって格別ご覧いただけるような宝物も持っていません。

 しかし,大学としては市街に一番近いのに,校舎の背後には自然を残した広い山があり,キャンパス内でちょっとしたハイキングもできます。フランス文学の横山昭正教授をはじめ,地中海学会に関心を寄せる教員もおります。閑かな環境でゆったりと大会を楽しんでいただければと思います。

 また,大学だけでなく広島という都市全体をみますと,再生の都市計画が完成した,太田川デルタに広がる美しい市街があり,ひろしま美術館のような貴重なコレクションがあり,近くには安芸の宮島はじめ,瀬戸の島々もあります。

 東京外国大学から広島市立大学に移られた川田順造先生,経済界の指導者として活躍されている橋口收さんなど古くからの有力な地中海学会員も広島にはいらっしゃいます。

 多くの方のご協力をいただいて,こんな広島の魅力を集めた今回の大会のプログラムができたのではないかと思っています。

 順を追ってみていきますと,最初の6月17日にはまず人類学者の川田先生の記念講演があり,そして酒どころでもある広島にちなんで,トーキングのテーマは酒です。いつもワインと共に語り合う場だった地中海学会がこの話題をとりあげたことがなかったのは意外ですが,学会の誇る酒徒たちが楽しい話をしてくださるはずです。

 その後バスで街に移り,見学会を行います。ドラクロアからピカソまで,フランス近代絵画の常設展をひろしま美術館で鑑賞します。地元の広島銀行が設立した美術館ですが,そう遠くない時期の収集としては驚くほどの内容で,東京の西洋美術館やブリヂストン美術館に次ぐものです。私たちのために特に開館時間を延長していただきます。館長として橋口さんが案内に加わってくださいますし,参加者の中にも専門の方がいます。短い時間ですが本物を前にしたお話が楽しめるでしょう。

 都心にある美術館からは原爆ドームや平和記念公園もすぐです。これらをとおり,川の街の景色を眺めながらバスは港へ向かいます。

 懇親会は可愛らしい観光船,「銀河」船上でのパーティーです。船は黄昏の頃海に出て,宮島厳島神社の鳥居を夜景で見て広島に戻ります。

 翌日は美術史・イスラム史の新鋭研究者による研究発表3題の後,総会。午後は巡礼をめぐるシンポジウムです。「死者」の美術史家小池寿子さんの司会で,地中海世界の東西の専門家が新しい展望をひらいてくれるでしょう。

 以上で大会はおしまいですが,その後一泊二日のエクスカーションを用意しました。

 まずトーキングにちなんで呉市仁方の宝剣酒造の酒蔵を見学しますが,ここはまさに知られざる魅力的な街並みの残る一帯です。その後今年開通したばかりの安芸灘大橋をわたって蒲刈島へ。民宿で瀬戸の海の幸を堪能し,「県民の浜」というところに泊まります。温泉もある美しい渚で,古代の製法による塩をつくる所や星を見る施設もあります。

 翌日は下蒲刈町の古い民家を移設した博物館複合施設を見て,竹原,尾道という山陽地方を代表する「街並み保存地区」を訪れます。

 尾道駅,広島空港までバスが参りますので,その日の内に東京などほとんどの地域にお帰りいただけます。

 なお,女学院で日曜日に学会が開催される場合の慣例として,18日9時半から大学チャペルで礼拝を行います。小さな場所ですからあまり多くの方にはご参加いただけませんが,宗教や宗派を問わず,ご関心のある方はどうかお気軽におこしください。学生時代から長く事務局委員,常任委員を務めさせていただき,一番愛着のある地中海学会の大会を,自分の勤務先で開く日がこれほど早く来るとは,思いがけない喜びです。一人でも多くの方にお会いできるのを祈りながら,広島でお待ちしております。

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研究会要旨

 

ルッカの古代ローマ円形闘技場遺構の住居化について

 

黒田 泰介

 

4月15日/上智大学

 

 イタリア・トスカーナ州の都市ルッカに残る古代ローマ円形闘技場の遺構は,中世期以降に住居として再利用され,現在は楕円形平面の一街区を構成している。このような古代の遺構を再利用してつくられた建物は,都市の長年にわたる形成過程の一部を物的に呈示すると同時に,都市と建築の連続性や,人間の建設行為の本質を物語っている。

 イタリア都市における円形闘技場遺構の住居化は22事例を数える。主な事例として,ルッカ,フィレンツェ,ヴェナフロ,ポレンツォ,アッシジ,アンコーナ等の遺構が挙げられる。中でもルッカの遺構は,最も良好に円形闘技場の建築的特質を残しつつ住居化された,希有な事例である。

 円形闘技場遺構の住居化は,中世期以降における遺構周辺地域の都市化と,遺構の個人所有の進行を背景に行われた。住居化はまた,ボルゴと呼ばれる市壁外に形成された新興居住区の形成・発展と密接に関連している。円形闘技場の石材はボルゴの住宅や聖堂建設に転用され,遺構は建設資材の採掘場と化した。同時に円形闘技場の建築的特質から導かれて,遺構内の空間と構造体を転用した住居化が始まった。

 円形闘技場の平面はクネオ(くさび形)とよばれる単位空間の連続で構成される。クネオの長細い平面は,中世期のイタリア都市で最も普及した住宅類型である,スキエラ型住宅の挿入に適していた。単室・一層の原始的な住居から始まり,1クネオを転用した単スパンのスキエラ型住宅化,複数のクネオを転用した複数スパンのリネア型住宅化,遺構の一部もしくは全体が邸宅として転用されたパラッツォ化,といった住宅類型により,円形闘技場遺構はさまざまな規模と形態をとりつつ住居化された。

 ルッカの円形闘技場は紀元後1世紀末に,ローマ植民都市の市壁外,北東部に建設された。その外部寸法は107×79m(長軸×短軸),アレーナの寸法は67×39mとされる。円形闘技場は55のクネオと2層のアーケードによって構成されていた。

 10世紀以降,ローマ市壁外の北東部に,サン・フレディアーノ教会を中心として,「サン・フレディアーノのボルゴ」が形成される。当時グロッタ(洞窟)と呼ばれていた円形闘技場遺構は,ボルゴの一部として,司教によって周囲の菜園と共に賃貸されていた。12世紀の市壁によってボルゴと遺構が市内に編入された後には,住居化が加速され,建物の高密度・複合化が進んだものと考えられる。

 19世紀には,ルッカの円形闘技場遺構にとって最大の変化が訪れる。従来,都市中心部に置かれていた食料品市場が,遺構内部へ移転されることになった。この再開発計画(183038年)の中心となったのが,建築家ロレンツォ・ノットリーニである。彼は計画に先立ち,M.リドルフィと共に,史上初の円形闘技場遺構の発掘調査に参加している(1819年)。その際につくられた実測平面図は,当時の遺構の状況を示す,最良の図的史料である。

 ノットリーニの計画は,1. 遺構内部の,かつてのアレーナを占める付属建造物・庭園・菜園の撤去による,楕円形平面の広場の創設,2. 広場への東西南北四つの入り口の開設,の2点に集約される。遺構上の住宅群はそのままに残され,その多様性が保存されると共に,内部に脈絡無く積み重なった建築的堆積が整理された。この再開発計画によって,円形闘技場遺構は長年にわたる再利用の最終形態を得た。街区平面は円環状に規定され,住居化した遺構は円形闘技場の特質をより強調することとなった。広場は1972年までメルカート(食料品市場)広場として利用された。このアンフィテアトロ広場は現在,ジャズ・フェスティバル等の各種イベントに供されるオープンスペースとして活用されている。

 ルッカの円形闘技場遺構は,単体の建物が再利用されたにもかかわらず,複数の多様な住宅群が円環状に連続した集合体のように見える。こうしたことから現在の街区は,実測調査と各種資料の検討に基づく総合的な判断から,26の建物単位に分節が可能である。

 これらの建物単位の内部空間構成と残存する円形闘技場の構造体との関係に注目すれば,遺構の住居化の手法が明らかとなる。建物単位の平面・立面・断面図と,円形闘技場の復元図とを重ね合わせ,内部空間を分析すると,ヴォールトはほとんど残っていないのに対し,構造壁は一階・二階に残されつつ,上階の壁体の基礎として使われていることが分かる。住居化が進行するにつれて,住宅が進化し建物単位として確立されていくのに伴い,遺構の当初の空間では対応しきれなくなり,クネオの平面を保存しながらも,円形闘技場の傾斜したヴォールトといった当初の構造体の破壊と改変によって,居住空間の最適化が行われていった。当初の空間を失いながらも残存したクネオの平面は高密度な住居集合をうながし,円環状の街区形成の原動力となったといえる。

 

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書 評

 

アントニオ・ベルトラン編『アルタミラ洞窟壁画』

 

大高保二郎・小川勝共訳 岩波書店 2000年1月 181頁 9,000

 

木村 重信

 

 199811月,私は約40年ぶりにアルタミラ洞窟を訪れた。1956年に行った時は入洞自由であったが,現在は年間8,500人に制限されているので,特別許可を得ての見学であった。というのは,入洞者の吐く息によって炭酸ガスが増加し,岩盤中の水が酸化作用によって石灰岩層を溶かし始め,炭酸カルシウムの「白いしみ」が壁画を侵蝕しているからである。また,見学者が洞窟に出入りするたびに,外の空気とともに細菌が入ってきて,岩壁に付着して繁殖し,かびや苔の「緑のしみ」を生じさせたからである。

 このアルタミラ洞窟とその壁画を最新の資料によって種々の角度から解説したのが本書で,豊富な図版がそえられている。しかし洞窟壁画は複雑に起伏する岩盤にあらわされているので,平面写真にすると原作の趣は半減し,この洞窟の大天井画のように凹凸の著しい場合は特にそうである。従ってこの書物では,個々の壁画だけでなく,大天井画の全景およびその細部,これまであまり紹介されていない深奥部の壁画などを,周囲の状況をも含めて,忠実に記録すべく最大の努力がおこなわれている。これはベテラン写真家のペドロ・A.サウラ・ラモスの功績である。

 アルタミラ洞窟壁画は1879年に発見されて以来,旧石器時代美術の最もすぐれた作例として,種々論じられてきた。その経緯を「序文」で元老考古学者のアントニオ・ベルトランが要領よくまとめている。ついで「洞窟とその周辺」と「保存の問題」を,アルタミラ博物館長のホセ・アントニオ・ラセラス・コルチャーガが概説している。

 しかし本書の中心は,フェデリコ・ベルナルド・デ・キロスの「作品,作者とその時代」である。彼は先学の研究成果を援用するとともに,新たに開発された加速器質量分析法(AMS法)という直接的年代測定法によるデータを用いて,アルタミラ洞窟壁画が16,500BP14,500BPのマドレーヌ前期に描かれたことを,具体的な作品に即して明らかにした。もとより,アルタミラからはソリュトレ期に属する18,540BPの動産美術(手で持ち運びのできる小美術品)が見出されているので,その頃から人びとが入洞したが,オーリニャック期に比定されている,いわゆるマカロニ(柔らかい粘土の壁に手の指で刻まれた屈曲線)はソリュトレ期以後に属すると考える。

 洞窟壁画の制作目的について,ベルナルド・デ・キロスは構造主義的解釈をとり,呪術説を斥ける。しかし構造主義を唱えたA.ルロワ=グーラン説そのものに種々の疑義があるので,彼の解釈もそのまま受け入れることはできない。

 次の「技法,制作手順,作者,芸術的創意」は,画家であるマティルデ・ムスキス・ペレス=セオアーネが執筆しているが,その分析はきわめて常識的で,骨髄をランプとして用いた実験ぐらいしか目新しいものはない。また彼は,顔料の媒剤として水,血,獣脂,樹脂などが用いられたとする定説にたいして,水と中和しない媒剤は不必要であったという。しかしこれらの媒剤は別々に用いられたと考えられるから,彼の批判は当たらない。

 最後に「展望と結語」をベルトランが書いている。その中に,世界の岩面画の図像総数は約5,000万点とある。例えば南部アフリカのレソトおよびドラケンスベルク山脈に約300万点,サハラのタッシリ・ナジェールに約60万点といった具合である。これらの数字の根拠は示されておらず,現地を調査した私にとっては,あまりにも厖大すぎると思われる。また,ブラジル・ピアウイ州のボケイロン・ダ・ペドラ・フラーダ遺跡は28,800年前とあるが,これは居住跡の年代であって,岩面画のそれではない。

 このように原著のデータにはかなりの誤りがあるので,日本語版(フランス語版も)では訂正がおこなわれている。また,原著には作品に言及した本文の当該個所に図版頁の記載はないが,日本語版にはそれらが示されていて便宜である。訳者の労を多としたい。

 なお,アルタミラ洞窟の各部屋には一連の番号が付されており,それに即して本文で解説がおこなわれているが,平面図にそれらのナンバーの記載がないのは不親切である。

 冒頭で述べたように,アルタミラ洞窟壁画は「白いしみ」や「緑のしみ」によって破壊が進行している。また,1925年にオーバーマイエルの発掘作業中に大規模な崩壊がおこったが,それに類する崩壊の心配もある。そこでラスコーIIのような複製洞窟の建設が予定されている。本書によると,旱魃の年は岩盤が乾燥して,彩画は色あせて見え,逆に雨の多い年は壁面がしっとりと濡れ,壁画の色彩が濃くなって鮮やかさを取り戻すとのこと。このことは洞窟,ひいては壁画が生きていることを示している。従って,アルタミラ洞窟壁画の完全な保存のためには,入口を閉じて,大昔の自然状態に戻すほかはないのである。

 

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自著を語る 19

 

『捨児たちのルネッサンス−−15世紀イタリアの捨児養育院と都市・農村』

 

名古屋大学出版会 2000年4月 331頁 4,800

 

高橋 友子著

 

 本書は筆者の初めての単著である。イタリアのフィレンツェに留学し,捨児養育院の古い帳簿を開いたときから十数年を経てようやく,このような美しい装丁で本書を世に出すことができたのは,編集者の方々や研究の先達,学友の支援のおかげであると,あらためて思う。まだまだ未熟であると感じている筆者が自著を語るのは面はゆいが,友人に寄稿を勧められたので,少しばかり紙面をいただこう。読者の方々,どうぞ御笑覧を。

 まず,本書のタイトルに驚かれる方がおられるだろう。捨児にルネッサンスがあったのか,と疑問を持たれるかもしれない。あとがきにも書いたように,このタイトルは編集者の方からいただいたものである。捨児を研究のテーマとして選んだときから,筆者はルネッサンス期のイタリアの裏面史を描いてみたいと考えていた。というのは,筆者は,かつてのルネッサンス研究が政治や思想,文化,芸術といった,当時の社会のエリート層にのみ焦点を当てた研究に終始していたことに物足りなさを感じていたからである。そこで,捨児養育院を「のぞき眼鏡」に見立てて,そこから,ちょうどコジモ・デ・メディチからロレンツォの治世にいたる15世紀のフィレンツェの都市社会とトスカーナ地方の農村を,下からの視点で描くことを試みた。そう考えるならば,社会の周縁に位置する「捨児」と,従来はエリートの文化を意味した「ルネッサンス」とを結びつけることは,本書を手にとってみる者の意表をついて,新鮮な印象を与えてくれているのではないか。まことに良いタイトルをいただいたものと,感謝している。

 本書はおおむね五つの章から構成されている。第1章は,ヨーロッパのキリスト教文化の中でも重要な慈善と慈善施設の歴史に一瞥を与えた後,本書の舞台となるフィレンツェのインノチェンティ捨児養育院の創設の過程と開設後の運営体制,史料である帳簿類の紹介,そして当時のフィレンツェの人文主義者や市民にとっての「家」の概念とこども観について論じた。

 第2章では,近年の捨児研究の動向に目を向けた後,いよいよ本書の主人公である養育院のこどもたちに関する考察に入る。こどもたちの入所状況,性別,年齢,地理的・社会的出自,入所の理由などの分析を通して,当時のこどもの遺棄の特徴と家族の生活状況,そして養育院がはたしていた役割の解明を試みた。

 第3章の主人公は,養育院の乳母たちである。養育院のこどもを里子として養育した乳母たちと,養育院の住込みの乳母たちの出自や乳母契約の内容,養育料,養育上のさまざまな問題などを考察した。

 第4章では捨児養育院から少し離れて,当時のトスカーナ地方において里子の養育が普及する背景にあった都市と農村の関係と,農民の家族の生活について考察した。

 第5章では再び養育院のこどもたちを主人公として,彼らの名前や死亡率の考察,さらに少年期まで生き延びたこどもを市民や農家に引き取らせたり,徒弟奉公に出したり,女児を結婚させたりした養育院の試みを史料から再構成し,養育院のこどもたちの行方を追究した。

 むすびでは,養育院の創設を促した諸要因と意義,当時のこども観と捨児に対する社会の姿勢を当時のトスカーナ地方の社会史的文脈の中で再検討し,そこから得られた結論を,より広いヨーロッパ史の流れの中に位置づけることを試みた。また,補論として,16世紀から今世紀までのインノチェンティ捨児養育院の歴史を紹介したページも付加してある。

 詳細は本書を読んでいただくことにして,ここでは,あとがきに書かなかったエピソードを少し語ろう。

 古文書とは不思議なものである。15世紀の捨児養育院の帳簿を初めて見たときは,その存在(縦約40cm,横約30cm,厚さ約10cm程度)にただ圧倒されるばかりだった。恩師のおかげと,帳簿の文字をそのまま写すという忍耐のいる作業を数週間続けて,ようやく文字に慣れることができた。しかし,数年間古文書ばかり見ていると,逆にこちらが古文書に見られているような,奇妙な感覚をおぼえた。数世紀を経て現在まで残った帳簿類は,ともすれば戦争や災害で失われていたかもしれない。小さな人間ひとりが,かろうじて現存している帳簿類を少し見たところで,過去の世界の実態にはたしてどの程度迫ることができるというのか。そんな思いを痛感した。

 一方,帳簿類から収集したデータを分析することは,歴史研究者としての醍醐味ではあるが,数字の苦手な筆者にとって数量統計的な分析は,拷問にも似たものであった。数字の間違いはないか,数字が意味するものを誤解してはいないか,今でも不安が尽きない。次著を語るには尚早だが,次に本を書くときは,もっと自分も楽しみながら書きたいものだと思う。楽しみながら本を書く者などおらんぞ,とどこかから声が聞こえてきそうではあるが。

 

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表紙説明 地中海:祈りの場18

サクロモンテの丘/宮崎 和夫

 

 キリスト教徒による「再」征服から100年以上経った1595年のグラナダで,イスラム侵入直前に埋められて隠された宝を古文書を頼りに探していた山師たちが,市の北東のバルパライソの丘で,数枚の鉛の薄板を発見した。それにはラテン語で,皇帝ネロの時代の殉教者の遺体が近くに埋められていると記されてあり,また「ソロモン文字」なる,アラビア文字を角張らせたような奇妙な文字も刻み込まれていた。この発見の報に,グラナダの街中が大騒ぎになり,当時の大司教は発掘の継続を命令し,自らその費用を負担した。すると,灰や炭や人骨が次々に掘り出され,「ソロモン文字」の鉛板文書がさらに続々と出てきた。これ以降この丘はサクロモンテ(聖なる山)と呼ばれるようになった。

 「ソロモン文字」の文書は,正則アラビア語とはかなり異なっていたので解読は困難だったが,ムスリム旧住民の子孫(征服後キリスト教に強制改宗させられ,モリスコと呼ばれた)の医師兼翻訳官アロンソ・デル・カスティリョと,ミゲル・デ・ルナが,自らこれらの文書を翻訳することを申し出て,大した苦労もなしに解読してしまった。彼らによれば,その文書は,「千年か二千年前の」アラビア語で書かれてあり,内容は,12使徒の一人である聖ヤコブがスペインに布教に来たときに同行した弟子たちのうちに,アラブ人の兄弟がいて,彼らがグラナダで殉教したというものであった。聖ヤコブとその弟子たちが説いたとされる教義には,イスラムの要素がかなり混入していた。アラブ人のキリスト教徒の努力で世界中の人々がキリスト教に改宗するという予言もあった。

 これらの「聖遺物」は,発見されると同時に,グラナダ市のキリスト教徒新住民の熱狂的な崇拝を集めた。サクロモンテへの参詣者は引きも切らず,その多くがロザリオを手に持ち,市街から1.5kmの道のりを裸足で跪い

たまま,沈黙して涙を流しながら歩き続けたという。当時のスペインでは,地方ごとにその土地にゆかりのあ

る聖人の崇拝が盛んであったが,イスラム教徒から奪取されて間もないグラナダには崇拝の対象がなかった。この発見により,キリスト教徒新住民は,彼らの守護聖人が現れたと信じ,800年間に及ぶキリスト教史の空白を埋めることができたと感じたのである。

 しかしこの文書は偽書ではないかという疑いが次第に強くなり,1682年に教皇庁はこれを偽書と認定した。現在では,こうした一連の聖遺物の「発見」は,前述の二人を中心とするモリスコのグループが仕組んだものであることがわかっている。彼らは隠れムスリムであり,イスラムをキリスト教に譲歩させるとともに,キリスト教をイスラムに近づけて,両者の対立を和らげることで,モリスコがスペインでキリスト教徒と共存できる可能性を探ったものと思われる。しかしモリスコの全面追放が17世紀初頭に実施されてしまい,彼らの企ては意味を失った。後の時代に,この「聖なる丘」の麓には,ジプシーたちが洞穴を掘って住みつき,現在はそこで彼らがフラメンコショーを見せる観光名所になっている。

 

 

 

 

 

 

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地中海学会事務局
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